第二章2 協力
昨晩の事件はもう新聞の記事になっていた。書斎のソファーに座って呼んでいた私は、「えっ!」と思わず驚きの声を漏らす。
(犯人がもうわかってるの!?)
昨晩、あの店にカルマン=アンダーソンと一緒に訪れていた娼婦ということだった。その女性は昨晩のうちに川で死んでいるのが発見された。ドレスにはカルマンのもとと思われる血が飛び散っていて、ポケットからも血を拭ったハンカチが発見。騒ぎの中、店を出て行く女性の姿も目撃されていた。となると、本当にその女性がカルマンを殺したということなのだろうか。新聞を読む限りは、確かにこの女性の犯行であることは疑いようもないように思えた。あれだけ、ベッドに血が飛び散っていたのだ。犯人の服が汚れないはずもない。私がすぐに部屋に飛び込んだから、服を着替えるような時間もなかったはずだ。
もしかしたら、着替えるつもりだったのかもしれないけれど、その前に騒ぎになって逃げるのが精一杯だったのだろう。それとも、最初から殺してから自分も死ぬつもりだったのか――。
「いえ、わからないわね……この女性が、自殺なのか他殺なのか……」
私は頬杖をついて独り言を漏らす。警官が発見した時には、女性はボートのロープにクビが絡まっていたそうだ。私は「ふーむ」と、窓の外に視線を移す。
犯人もほぼ確定していて、死亡しているとなれば、警察もこれ以上調べようとは思わないだろう。カルマンが殺された理由も、別れ話が拗れたせいということで片づけられる。それが事実だったとしても、驚かないのは確かだ。カルマンはそういう男だから。女癖の悪さが祟ったのだと、今頃みんなの噂になっているだろう。少なくとも、犯人に疑われることはなくなかったのだからホッとする反面、後味の悪さが拭えなかった。カルマンが死んでしまったら、ダイアナの死の真相も調べられなくなる。ダイアナが自殺ではなく、誰かに殺されたのだとしたら、一番疑わしいのはカルマンだったのだから。
なんだかすっきりしなくて、私は新聞を置いてうーんと腕を伸ばす。書斎に入ってきたメアリーが、不機嫌そうに顔をしかめた。
「あなたね。いったいいつまで、うちに入り浸っているつもり? 図々しい……暇なら、さっさと田舎に帰りなさいよ。結婚相手なんて、どうせ見付かりはしないんだから」
フンッと鼻で笑ったメアリーはドスドスと重そうな足音を鳴らしながらやってきで、私の向かいのソファーに腰を下ろした。テーブルの上に、クッキーとマフィンがあるのをメアリーが見逃すはずもない。
「そうね……その方がいいかも……」
私はハァと溜息を吐く。このまま王都に留まって調べていても、これ以上何かわかるとは思えなかった。今の私は行き詰まっている。私は大口でマフィンを頬張るメアリーを一瞥して、ティーポットに手を伸ばした。メイドが気を利かせて用意してくれていたカップを取り、紅茶を注ぐ。それを、メアリーに差し出した。
当然のようにカップを受け取ったメアリーは、「温いじゃない!」と不満をこぼす。
「熱々の紅茶が飲みたかったら、あなたがメイドさんたちに頼んだら?」
温くなったお茶でも平気な私は、残りの紅茶を自分のカップに注いだ。メアリーは面倒だったのか、温い紅茶を我慢して飲んでいた。
「それより、昨日のオペラはどうだったの?」
「もちろん、素晴らしかったわよ! 主役のチャーリー・オズマンと握手もしたのよ! しかも、手の甲にキスまでしてくれたの!! しかも熱い瞳で見つめてきて……絶対に私のことを気に入ったんだと思うわ。来月の舞台も観に行くと約束したんだから、その時には花束を用意しなくちゃ!!」
うっとりしたように言いながら、メアリーは残りのマフィンを口に押し込む。濃いめのピンク色の口紅の周りにマフィンのカスがついているけど、気付いてないようだった。
「それはよかったじゃない。そのチャーリー・オズマン?が誰だかよく知らないけれど」
私はヘラッと笑って、ハンカチを取り出しメアリーに渡す。
「チャーリー・オズマンを知らないですって!? ああ、そうだったわ。あなたみたいな田舎者は、大人気の俳優の名前や顔を知る機会なんてあるはずがないものね。『悲劇の王女』で、騎士の役をやったのがチャーリーなのよ。白銀の髪に青い瞳、まるでポセイドンの化身みたいだったわ! ああ、でもヒロイン役の女はまるでダメね。たいして美人でもなかったし、パッとしなかったわ。しかも歌も演技もお粗末。まったくチャーリーの相手役に相応しくないド素人よ! 媚びを売るみたいに、瞬きするの!」
メアリーはヒロインが気に入らなかったようで、顔をしかめる。
「そうなの?」
「きっと、演出家や劇場支配人に色目を使ってヒロイン役を貰ったのよ。おお、かわいそうなチャーリー! あんな女と同じ舞台に立たなきゃいけないなんてそれこそ悲劇よ!」
熱弁を振るうメアリーの話に適当に相づちを打つ。一通り話を聞き終わると、「私は、ちょっと出かけてくるわね」と断って立ち上がった。これ以上メアリーに付き合っていたら、夕方まで話に付き合わされそうだ。
「どこに出かけるのよ?」
「図書館よ。本を返さなくちゃ」
私はソファーに置いていた本を取って彼女に見せる。
「また、図書館! よく飽きもしないのね」
「読書は楽しいわよ。あなたも行く?」
「そんな埃臭い陰気な場所、頼まれたってお断りよ」
「そう? じゃあ、行ってくるわ。夕食の時に、また舞台の話を聞かせてちょうだい」
私は本を抱えて書斎を出る。メアリーはつまらそうな顔をして、お皿に残っているクッキーに手を伸ばしていた。
公園の隅にひっそり建つ図書館に向かうと、今日も相変わらず閑散としていて利用している人は数人だけだった。カウンターで本を返してから、二階に上がる。メモの挟んであった本のあった場所に、自然と脚が向いていた。ダイアナはただ、カルマンがあの店に出入りしているのを知って、書き留めておいただけなのだろうか。けれどダイアナがカルマンの女性関係にそれほど感心を寄せるとは思えなかった。そもそも、彼女はカルマンのことなんて少しも好きではなかったんだもの。
けれど、やっぱり世間体とか気にしたのかなと、私は本をめくりながらぼんやり考える。学生の頃なら、何でも話せて、時間が経つのも忘れて語り合ったのに。この図書館でも、窓際の席に座って、静かにしていなくちゃいけないから筆談をして密かに笑い合ったりもした。今ここに彼女がいたら、いくらでも話を聞いたのに。思い悩んでいることがあるなら、何だって聞く。けれど、彼女はもういない。もう、何も聞くことはできない。私は窓際の机を見詰める。今はそこに誰も座っていなかった。
本を持って机に移動して椅子を引く。座ってぼんやりと窓の外を見つめていた私は、向かいに誰か座ったことに気付いて顔を戻した。アイリーンだった。私が驚いていると、彼女がニコッと微笑む。つられて、私も笑みを返した。
「今日も会えるとは思わなかったわ」
私が小さな声で話しかけると、彼女は本を開いて「そう?」と聞き返す。視線が一度私を見てから、また本に戻る。こうして近くで見る彼女は陶器のように肌はなめらかで、鼻筋も整っている。睫がエメラルド色の瞳にかかると、神秘的にも見えた。紺色の地味なデザインのドレスでも、彼女が着るとエレガントに見える。髪は後ろでクルッとお団子にして、残りの髪を垂らしていた。その髪が肩にかかっている。白いブランスのフリルのついた襟が首を隠していて、ドレスと同色の紺色のリボンを結んでいた。
相変わらず、センスが良くて着こなしも上手だ。私ではとても真似できない。私がつい眺めていると、彼女が視線を上げた。目が合って、少し気まずさを感じながら自分の本に視線を戻した。
「私は、あなたに会えるんじゃないかと思っていたわ」
そう言われて、私は「え?」と顔を上げた。アイリーンは私を見つめたまま柔らかく微笑んでいる。
その瞳の色を見ていると、昨晩、私を助けてくれた男性の事を思い出す。あの後、店を抜け出すと彼が馬車で大通りまで送ってくれた。屋敷まで送ろうという言葉を断ったのは、滞在先の屋敷の場所が知られると私の素性もバレてしまうかもしれないと思ったから。結局、私は名乗らなかったし、彼の名前も知らないままだ。ただ、私の顔は見られているから、どこかの晩餐会か舞踏会で偶然鉢合わせすればきっと相手には分かってしまうだろう。私の方は、彼の仮面を外した顔を見てはいないから気付かないかもしれない。
「……少し、不躾なことを聞くけれど、あなたのお兄様も同じ瞳の色?」
「……どうして?」
「いえ……昨日、あなたの瞳によく似た人と会ったから……違うなら、いいの」
少し焦って、本を読む振りをする。あれがアイリーンの兄ではないかと、一瞬考えたのだ。
「そう……でも、きっとその人は私の兄ではないでしょうね。兄は王都にはいないもの。体があまり丈夫ではなくて……カントリーハウスの方で療養しているの」
「そうだったの……ごめんなさい。失礼なことを聞いたわ」
私が謝ると、彼女はニコッと笑う。
「いいえ、いいの。兄はほとんど屋敷から出ない人だから……」
そういえば、彼女の噂はよく聞いたが、彼女の兄の話はほとんど耳にしなかった。社交の場にはほとんど出てこない人なのかもしれない。私はしばらく考えてから、ふと顔を上げる。
「でも、アイリーンのお兄様、王都の違法カジノとか、如何わしい場所のことを知っていたわよね?」
話が矛盾しない?
「それは……大学に通っていた時に、きっと遊び歩いていたんだと思うわ。兄が体を悪くしたのは……その後のことだから。きっと不摂生のせいじゃないかしら……」
アイリーンは視線を泳がせ、彼女にしてはどこか不自然に笑う。
「ふーん……そうかも」
躾けの厳しい家を出て、寮で暮らしていれば確かに悪い遊びの一つや二つは覚えてしまうものなのかもしれない。私の通っていた女学校も寮だったから、規則を破って寮を抜け出し、大学生の男子と夜遊びをしていた子は少なからずいた。私とダイアナは真面目な方だったから、とてもそんなことはできなかったけれど。
「その人と……何かあったの?」
アイリーンは話をはぐらかそうとするように訊く。別人と聞いても、彼女の瞳はやっぱり昨日の人にとてもよく似ている。エメラルド色の瞳の人はいるだろうが、こんなに深みのある美しい色はそうないような気がした。
「いいえ、何もないの。ただ……助けてもらったのに、名前も聞いていなかったし、お礼もあまりちゃんと言えていなかったら……申し訳なく思っているだけ。また、会えたらちゃんと伝えなきゃ。でも多分……会うことはないわね。会ってもわからないだろうし」
私は軽い口調でごまかす。
「男の人?」
アイリーンの言葉にドキッとすると、彼女は頬杖をついてからかうように笑みを浮かべている。その瞳も口許も魅力的で、つい、見とれそうになっていた。
「そうだと思うけれど……」
「素敵な人?」
「そういうのじゃないってば!」
私は赤くなって、ここが図書館だということを忘れて声を大きくする。慌てて自分の口を押さえて、静かな館内を見回した。誰もいないことにホッとする。アイリーンはレースの手袋をした手で口許を隠して、笑いを堪えていた。こんなふうに笑う彼女を見るのは初めてだ。舞踏会で見かけた時は、もっと表情が乏しかったように思える。優雅に微笑んで、周りの人たちの話に相槌を打っていたけれど。
「勘違いしないで。本当に、助けてもらったから、感謝の気持ちを伝えたいだけ……恩知らずには思われたくないでしょう?」
私は机に身を乗り出して、ヒソヒソ声に変える。
「ええ、わかってるわ。そういうことにしておくわね」
「アイリーン!」
「ごめんなさい。あなたって、かわいい人ね」
「笑いながら言われても、少しも説得力はないわ」
私は頬を膨らませて怒った風を装いながら、手許の本を見る。読んだところで、頭に入りそうにはなかった。
アイリーンくらい綺麗な人にかわいいと言われると、心臓の鼓動が速くなる。もちろん、からかって言われているとわかっていてもだ。きっといい暇潰しの相手だと思われているのだろう。でなければ、彼女がわざわざ私をかまう理由がない。他に席は空いているのに、私の前の席を選んで座ったのも、ただ話す相手が他にいなかったからだ。公爵家の令嬢ともなれば、きっと社交性は高いのだろう。どんな相手とでもうまく話せるように教育を受けているはずだ。
(私とは大違い……)
私は頬杖をついた手で口許を隠す。舞踏会で彼女に話しかけられた人たちが、男女問わずうっとりしていた理由がわかる。きっと根っからの人たらしなのだろう。そういえば、私もいつの間にか、彼女と友達のように話している。つい、彼女が自然に話しかけてくるから、こちらもなんだか親しくなったような気がしてしまうのだ。本来なら、アイリーンは公爵令嬢。私は落ちぶれた貧乏伯爵家の娘で、とうてい仲良くしてもらえるはずもないのに。彼女の持っている柔らかな雰囲気のせいで、こちらも緊張を忘れてしまうのだろうか。それは、とっても高価で座り心地のいいソファーで寛いでしまう時のような気分だった。
「罪深いわ……」
私は思わず溜息を吐いて呟き、本のページをめくる。アイリーンは「どうして?」と、キョトンとした顔をしていた。
「私のことじゃなくて、あなたのことよ」
「私?」
「ええ、そう。あなたにニッコリ微笑まれただけで、人はみんなあなたの信者になっちゃうからよ」
「そんなことはないと思うけれど……私は嫌われている方よ?」
不思議そうに、アイリーンは首を傾げる。そんなかわいらしい動作を無意識にやっちゃう人が、嫌われるはずないじゃないの!
「それは、嫌われているんじゃなくて……ただ嫉妬されているんだと思うわ」
「そうね……つまらない人たちはそうかも」
アイリーンは窓の外に視線を移す。美しすぎるのも、苦労が多いのかもしれない。どこに行っても注目の的で、人に囲まれていれば、息が詰まるだろう。私はあまり自慢できるところはないけれど、アイリーンを羨ましいとは思わない。きっと彼女のようには振る舞えないだろうから。この図書館を訪れるのも、人の煩わしさから解放されたいからかもしれない。だとしたら、私と鉢合わせするのは気まずいんじゃない?
「もし、一人になりたいなら……私は他の席に移動するわよ?」
気を遣ったつもりでそう答える。アイリーンは瞬きして私を見てから、表情を和らげた。
「一人になりたいなら、ここに座ったりしないわ。それとも、私は邪魔をしてしまった?」
「いいえ、そんなことはないわ……私はただ……ちょっと考え事をしたかっただけだもの」
「考え事?」
「昨日の事件……あなたも知っているでしょう?」
「ええ……そういえば、この前の舞踏会であなたが追い掛けていたのも、あの人だった」
「よく覚えているわね」
「覚えているわよ。まだ、記憶があやふやなお婆ちゃんじゃないもの」
茶目っ気のある瞳で私を見ながら、彼女は笑う。ダボダボのメアリーのドレスを着ていたことを思い出して、私は恥ずかしさで机の下に隠れたくなった。きっとひどいドレスだと思われただろう。片手で熱を持つ顔を押さえる。
「忘れてほしいところだわ……」
「あなたの亡くなった親友のことを、まだ調べているの?」
アイリーンは表情を曇らせる。
「もちろんよ。でも……行き詰まってて、これ以上調べても、何もわからない気がするわ」
少し考えてから、アイリーンが「私も手伝いましょうか?」と口を開く。私はびっくりして、「ええっ!?」と大きな声を上げてしまった。急いで声を小さくする。
「あなたには関係のことだわ。それに巻き込んだら、悪いわよ……」
「でも、行き詰まっているのでしょう?」
「それはそう……手がかりは少ないんだもの」
ダイアナが残した日記と、そして昨晩行った店のメモ、それくらいだ。カルマンの屋敷に行って、彼の両親や使用人から話を聞くことができればもう少し分かることがあるかもしれないけれど、それは無理だろう。追い出されるのが関の山だ。それに、カルマン本人は昨日亡くなったばかりだ。そこに残り込んでいく勇気はない。
私は眉間に皺を寄せる。それから、「そうだ」と呟いてアイリーンを見た。
「葬儀は三日後だったわね……」
新聞に記載されていた葬儀の日を思い出す。場所も書かれていた。
「新聞に載っていたカルマンという人の?」
「ええ、あいつの葬儀に出るなんて、気が進まないけれど……」
私は口許に手を当てて、「何かわかるかも」と声を小さくする。わからなくても、どういう人と付き合いがあったのかは行けば確かめられる。
「では、私も行くわ」
「あなたが!?」
公爵家の令嬢が葬儀になんて参列したら、変な噂を立てられるんじゃないだろうか。カルマンなんて評判の悪い男と顔見知りだと思われるだけで、彼女の品位が損なわれそうだ。私は「いいえ、ダメよ」と、慌てて首を振る。親しいわけではないのに、そこまで手を借りるわけにはいかない。
「大丈夫よ。ベールをかぶるから、きっと誰も気付かないわ」
ホワホワと暢気に笑っている彼女に、私は頭が痛くなってくる。
「あのね、アイリーン……あなたの顔がベール如きで目立たなくなるはずがないじゃないの」
「顔……じゃあ、お化粧でごまかすとか?」
すでに、彼女は私と一緒に葬儀に参加する気でいるようだった。
「どうして、そうまでして私に協力してくれるの?」
「あなた一人より、私たち二人の方が、早く解決するかもしれないわ」
その言葉に、私はハッとする。
「あなた一人より、私たち二人でやる方が、早く片付くじゃない」
そう、ダイアナもよく言って笑っていた。思い出した途端に、目から滴がこぼれる。
「ごめんなさい、変なことを言ってしまった?」
「違うの。ただ、思い出しただけ……そうね。そうかも。二人の方が早く解決するかもしれないわ……」




