第二章1 公爵邸
「お帰りなさいませ」
青年が部屋に入ると、背の高い従者が待っていた。すでに深夜が近く、外は嵐のように風が強い。
窓際の一人がけソファーに疲れたように腰を掛けると、テーブルに用意されていたグラスに手を伸ばす。ブランデーの強い香りがした。頬杖をつきながら、青年はふと震える手でグラスを持っていた女性の姿を思い出す。
「何か、おわかりになりましたか?」
「ああ……騒ぎが起きたおかげでね」
そう呟くと、青年は上着のポケットから、折りたたんだ紙を出してテーブルに投げる。窮屈なシャツのボタンを外すと、後ろに回った従者が手を伸ばしてタイピンとタイを外してくれた。テーブルに投げた紙には、名前の一覧が載っている。あの店を利用していた顧客のリスト。それも特殊な目的で通っていた客たちだ。殺人騒ぎの合間に持ち出せたのは思わぬ収穫だっただろう。
「ただ……彼女には悪いことをしてしまったな……」
そう呟いて、眺めていたブランデーを飲む。あんな場所で遭遇するとは思わなかったのだ。
「騒ぎですか?」
「客の一人が殺されたんだ。確か……カルマン=アンダーソンとか言ったかな。エドワード、君は知っているか?」
「アンダーソン……銀行家のアンダーソン家でしょうか? でしたら、ベイズモア伯爵の甥ではないかと」
「どういうヤツなんだ?」
「そうですね……女性関係のトラブルが多い方のようです。先日も、婚約者の女性が自殺したとか……他にも親密な関係の女性が多くいたようです。まあ、銀行家の一族ですから、金には困っていないのでしょう。一時期は父親の銀行で業務を手伝っていたようですが、客の金に手をつけていたことがわかり、業務から外されたとか……」
「嘆かわしいほど無能だな……恨まれる理由は山ほどありそうだ」
それにしても、よく知っているなと青年は感心したように従者を見る。幼い頃から知る相手で、年齢もさほど違わないが、どこから情報を仕入れてくるのか、尋ねればすぐに答えてくれる。
「どうかなさいましたか?」
「いや、代えがたい優秀な従者だと思ってね」
フッと笑って、青年は雨の滴が垂れている窓の外に目をやった。
「その男の身辺をもう少し調べてくれ。あと、自殺したという婚約者についても」
「カルマン=アンダーソンも関係していると?」
「さあ……だが、彼女も調べているようだし……何か繋がりがあるのかもしれない。婚約者が自殺した後に、本人も殺されるなんて、何か作為的なものを感じるだろう?」
「口封じですか?」
「カルマンというやつは愚かで思慮の足らない男のようだけれど、そういうやつに限って、危ないことには首を突っ込みたがるものだ。何より、金には困っていない」
そういうバカは、得てしてカモにされやすいものだと、青年は冷笑を浮かべる。
「承知しました。明日にでも手配しておきましょう」
「ああ、そうしてくれ。それと、もう下がっていい。遅くまですまないな」
従者は青年が脱いだ上着を受け取ると、部屋を出て行く。外は雨が霰に変わっていた。どうりで、寒いはずだ。暖炉には薪がたっぷり焼べられているから、今夜一晩は温かいままだろう。
風が吹き荒れる夜は、その音が死者の嘆きの叫びに聞こえていつまでも眠れはしないのだ。
『弱虫ね、ウィルは』
そんな優しい笑い声がふと蘇る。
ああ、そうだね。君の言う通りだ。
青年、ウィリアム=ディオノークは空になっているグラスを見つめ、寂しさを紛らわすように微笑んだ。
(絶対に君を見つけるから。どこにいても見つけるから。ルナ……)
だから、もう少しだけ待っていてほしい――。
グラスを持つ手を、項垂れて額に当てた。
翌朝、食堂で朝食を食べながら朝刊を読む。
給仕のメイドが、空になったカップに紅茶を注いでくれた。朝刊の一面に掲載されているのは、カルマン=アンダソーンの殺人事件についての記事だった。カルマンは人格はともかく、銀行家の次男だ。それが如何わしい会員制のクラブで殺されていたのだから、ゴシップ記事にはもってこいだろう。ただ、少しばかり驚いたのは、もうすでに犯人が見つかっていたことだ。ただ、警官が発見した時にはすでに死亡していたようだ。昨晩の内に、血まみれのドレスを着た娼婦が一人、川で水死体となって発見された。接岸されていたボートに引っかかっていたそうだ。外傷はなく、クビにロープが絡まった状態で。
その女性と、カルマンが昨晩、一緒にクラブを訪れていた姿が目撃されている。騒ぎの最中に彼女がフードをかぶり、店を出ていくのを見たというクラブの使用人の証言もあった。となれば、ほぼ犯人で間違いないだろう。
(案外、早く見付かったものだな……)
これで、警察もこれ以上深入りして今回の事件を捜査しないだろう。新聞には別れ話が拗れての衝動的な犯行だと書かれていた。そう推測された理由は、娼婦のスカートのポケットから手切れ金らしき小切手が見付かったからだ。血まみれのハンカチと一緒に。女癖の悪かった男だから、誰も疑わないだろう。娼婦はカルマンのお気に入りで、度々連れ出して遊んでいたことは知られていたようだ。
「ウィリアム様、アイリーン様よりお手紙が届いております」
侍従のエドワードが銀のトレイを持ってそばにやってきた。蝋で封をされた手紙と、ペーパーナイフが並べて置かれている。「またか。今度はなんなんだ?」と、顔を顰めながらその手紙に手を伸ばした。
手紙を開いて目を通してから、ウィリアムは額に手をやって溜息を吐く。
「……縁談を断りたいそうだ」
手紙には、修道院での生活は快適でここを出るつもりはないと書かれていた。結婚するなら、修道院の改築費用を出してくれて、学校も建ててくれるような気前の良い男がいいそうだ。
妹への縁談話は毎日のように持ちかけられる。公爵家令嬢なのだから、相手もそれなりの家柄や資産家の者たちばかりだ。中には修道院や学校くらい、妹のためならいくらでも出資を惜しまない男はいるだろう。それでも、妹の理想の相手にはほど遠いようだ。
気に入らない相手と結婚させられるくらいなら修道院に入るほうがマシだと、家を出て行ったような妹だ。両親や兄の言葉など聞くわけもない。なにせ、妹が一年前に家を飛び出して、田舎のオンボロな修道院に駆け込んだ理由は、『王太子との結婚が嫌だった』からだ。次期国王でもお断りとなれば、この国のどこに妹を満足させられる相手がいるのか。
この話が国王の耳に入り、縁談話は立ち消えになったものの、妹は両親に結婚を勧められるのが嫌で、修道院に籠城し続けている。
あちらでの生活が思いのほか妹の性に合っていたのだろう。両親もついに説得することを諦めて、兄であるウィリアムにこの件を丸投げしたというわけだ。妹はたまに手紙を送って寄越すが、毎回『修道院の屋根の修繕を行いたいので、寄附をしてほしい』だの、『冬を越す薪代が足らないので寄附をしてほしい』だの、『孤児院の運営費用を寄附してほしい』だの、寄附の催促ばかりだ。
公爵家は金には困っていないし、むしろ社会奉仕は貴族の義務でもある。修道院に寄附をするくらいは、大した問題ではない。ただ、両親は妹がこのまま本当に修道女になるつもりではないかと気を揉んでおり、ことあるごとに早く連れ戻すように言ってくる。当然、親としてはそれなりの家柄の相手と結婚して、慎ましく暮らしてくれることを願っている。ただ、板挟みとなっている兄として、頭が痛かった。
手紙の最後には、『井戸の改修をしたいので、寄附をお願いします』と大きな文字で書かれている。一番の用件はそれなのだろう。
(しつこい宗教の勧誘にでも会っているような気分だな……)
まったくと、溜息を吐いて読み終えた手紙を銀のトレイに戻した。
外を見れば、昨晩の荒れた天候が嘘のように晴れている。窓から差し込む光が眩しい。
「エドワード、午後から出かけてくる」
「畏まりました」
「帰りは少し、遅くなりそうだ……」
頬杖をつきながら、ウィリアムはそう呟いた。




