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第一章4 脱出

 ソファーに腰を掛けた私は、呼吸を落ち着かせてから今し方の出来事を彼に話す。カルマンと知り合いだということは伏せておいた。この人が誰なのかも知らない。信用できるのかどうかも、わからない相手だ。ただ、今は誰かに先ほど目にした惨劇を打ち明けなければ、怖くて気を失ってしまいそうだった。おそらく、明日には新聞の一面に載るだろうから、誰もが知る話でもある。


「つまり……君は煙が漏れていることに気付いて部屋に入ってみたら、絨毯が燃えていて、それを急いで消した後、ベッドで男が喉を切られて死んでいるのを発見した。そこを人に見られてしまったため、大騒ぎとなり逃げ出した……ということ?」

「ええ、そうです……他にどうしていいのかわからなくて……騒ぎが広がれば、私が犯人にされてしまうと思ったんですもの。事情を説明する前に大騒ぎになってしまっていたから」

 私は深く息を吐いて、両手で顔を覆う。本当に、どうしてこんなことになったのか。カルマンのことはもちろん大嫌いだし、あの男が誰かの恨みを買うような行いをしていて、その報いを受けたのだとしても驚きはしない。そういう男だったから。ただ、あんなふうにむごたらしく殺されたのは痛ましいことだ。

「私……やっぱり、警察に行くべきかしら」

「いや……逃げて正解だった。どのみち、警察はろくに捜査などしないだろう。うやむやにして終わりにするつもりだ」

「どうして、そう思うんです?」

「この店に出入りしている客は、素性を知られたくない者が多い。警察でも、そう立ち入れないんだよ。だから、この場所を犯行場所に選んだんだろうな……君はその死亡していた男性とは知り合い?」

 向かいに座った彼は、自分の唇を指でなぞりながら私に訊く。答えるまでに二秒ほど間が空いてしまった。知らないと答えるべきだろうけれど、彼の前でその嘘は通用しない気がした。私は視線を手許に移して、「実は……そうなの」と小さな声で打ち明けた。


(本当に、彼が通報でもしたら……私は明日には牢屋送りね……)

 とはいえ、そうなることも覚悟しなければならないだろう。そうなった時に、私の犯行ではないと訴えて信じてもらえるかどうか。やっていないという証拠は、今のところ出せそうにないのだ。

「どういう知り合い?」

「親友の元婚約者よ……その親友が亡くなって……そのことを調べていたら、この店に。そこで、あいつを見かけたものだから、捕まえて聞き出そうとしたのに。彼を追って部屋に入ってみたら、絨毯が燃えていたのは本当のことよ! 信じてもらえるかどうかはわからないけれど……」

 私の声が不安げに小さくなると、彼が手を伸ばしてきて私の片手を包む。

「落ち着いて。大丈夫、信じるよ」

 そう言って、彼はニコッと微笑んだ。その口許を見つめていた私は、ハッとしてすぐに視線を逸らした。先ほどとは違う理由で少し鼓動が速くなる。魅力的な笑みだった。ただ、その微笑み方がやっぱり、私の知る人によく似ていたからだ。そういえば、声の質も似ているような気がする。彼女よりずっと低めだけど。柔らかくて、心地良い声と話し方だ。


(な、何を考えているのよ……彼女は女性。目の前にいるのは男の人じゃない)

 私は心の中で、プルプルと首を振って余計な考えを振り払った。


「どうかした?」

「いいえ、なんでもないの。ただ、あなたが……ちょっと知っている人に似ていると思っただけ」

「そうかな? どんな人?」

「ど、どうって……えっと……き、綺麗な人?」

 私が返答に困っておずおずと答えると、彼は口許に手をやり声を抑えて笑い出す。恥ずかしさで顔が火照る。

「そ、そんなことより……どうして……信じるなんて言えるの? もしかしたら、本当に私が犯人かもしれないでしょう?」

「理由は……いくつかあるけれど。そうだな……一つ、君が犯人なら絨毯を燃やす必要はない。男を殺して、騒ぎになる前に抜け出せばよかった」

 彼は人差し指を立てて答える。

「……偶然、燭台が倒れちゃったのかもしれないでしょう? たとえば、男ともみ合っている最中とかに」

「いいや。それなら、男が死んでいた場所はベッドの上ではなく、絨毯の上だったはずだ。その小火は、意図的に起こされたと考えるべきだろう」

 確かにその通りだ。私は思案してから、「それなら、どうして?」と首を捻る。小火を起こせば騒ぎになり、人が集まる。ああ、そうか――だからなんだ。

 気付いた私を、彼はジッと見ていた。そして「正解だよ」と、心を読んだように微笑む。


「君がその部屋に入ったのは、男が部屋に入っていったすぐ後なんだよね?」

「ええ、通路で姿を見かけて……追い掛けたの。だから、それほど時間は経ってないわ」

「つまり、その犯人に殺して逃げ出す時間はなかった。だから、かわりに燭台を絨毯に倒して物陰に隠れたんだろう。君が小火に気付いて消火を行っている間に、こっそり逃げ出した。君がベッドで男が死んでいるのを見つければ、後は勝手に騒ぎとなり、君は犯人として疑われる……」

「な、なるほど……そうなのね」

 私はそこまで考えていなかった。

「それに、君が殺したのだとしたら、ドレスは今頃血まみれだ。男は喉を切られていたんだよね?」

「ええ、そう……ナイフがあったわ。これくらいの長さで大きめなナイフよ」

 私は手でベッドに転がっていたナイフの大きさを示す。

「だとしたら、相当血が飛び散ってなかった?」

「ええ、血だらけだったわ……」

「そうだろうね。でも、君についているのは……この指先についている血だけだ」

 そう言うと、彼は私の手を取って、手の平の方を上に向ける。カルマンを仰向けにした時に肩に触れた。その時に付着した血が指先の手の平の一部についていた。私は蒼白になる。今まで気付いていなかったから。


「どうして、あなたは気付いたの?」

「グラスに血がついていたからね」

 彼はそう言うと、テーブルに置かれたブランデーのグラスを取る。その表面には確かに赤い指の痕がついていた。私ははぁと、深く息を吐く。

「あなた、よく見ているのね……」

「たまたま気付いただけだよ。君のドレスには少しも血がついていない。服を汚さずに相手の喉を切り裂くなんて、凄腕の暗殺者でもなければできないことさ。君はもしかして、暗殺者だったりする?」

「まさか!」

 私が驚いて答えると、彼は「だろうね」と肩を揺すって笑っていた。魅力的だけど、よくわからない人だ。ただ、冷静で洞察力にも優れている。

「あなたは、もしかして……探偵か、警官?」

「違うよ。ただ……まあ、少しばかり調べたいことがあってここにいるのは確かだな」

「調べたいこと?」

「友人が……死んだんだ。その犯人を捜している」

 彼の口許からスッと笑みが消える。瞳の色が暗くなったように見えた。私は言葉に詰まって、彼を見つめた。

 友人の死の真相を調べている――。 

(私と同じじゃない……)

 彼の言う友人がダイアナである可能性はあるのだろうか。いいえ、ダイアナはあまり社交的な性格ではなかったし、もし彼のような友人がいたら、親友の私に教えてくれていただろう。その友人の名前を、訊くのはあまりに不躾な気がした。そもそも素性も互いに知らない。


「もしかして、あなたの友人というのは……カルマン=アンダーソンの知り合いだったりする?」

 あの男のことだ。奔放な性格で、色んな女性に手を出していたと噂でも聞いた。あの男に泣かされた女性が、ダイアナ以外にもいるのかもしれない。

「死んでいた男というのは……アンダーソンなのか」

「ええ、そうなの……話してなかったわ。きっと、下は大騒ぎね……」

 警察がもう来ているかもしれない。廊下でも人声とばたついた足音が聞こえる。客人も帰り始めているようだ。厄介事に巻き込まれたくないのは誰もが同じなのだろう。

「そうか……だが、生憎と違うと思う。ただ、私が追い掛けている事件に、アンダーソンが関わっている可能性はあるかもしれないな」

 彼はそう呟いて立ち上がり、部屋の端のコート掛けに移動する。私もつられて腰を上げていた。

 戻ってきた男性はそのコートを私にかけてくれた。ドレスを見られない方がいいと思ったのだろう。

「ここに長居はしない方がいいな。急いで出よう。裏口なら知っている」

 きっと、顔を見られなくない客人のための秘密の通路のようなものがあるのだろう。私は「ええ……」と頷いて、彼の後について部屋を出る。人が右往左往していて、客人らしき男性が不満を大声で漏らしていた。客人たちにとってはとんだ災難だろう。下の階はここよりもさらに騒がしいようだ。私は手を引っ張られて、早足で彼の後をついていく。

 

 その時になり、ようやく手の震えも止まっていることに気付いた。不思議と繋いだ手に安心感を覚えた。初めて会ったはずなのに、そんな気がしない。アイリーンに似ているからだろうか。そういえば、髪の色も同じ薄い金色だ。その色がとても綺麗だった。

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