第一章3 仮面の紳士
狭い通路は薄暗く、香炉が置かれて妙に甘い香りが漂っていた。それを嗅いだせいか、眠る直前のように頭がぼんやりとしてくる。幻覚や麻痺、もしくは睡眠作用のあるお香だろうか。だとしたら、あまり多く吸い込まない方がいいけれど、ポケットに手を伸ばしてもハンカチが見付からない。こんな日に忘れてくるなんて。かわりに袖で口許を押さえる。
通路は仮面を着けた人や、ベールや扇で顔を隠した人たちが歩き回っていた。身なりからして上流階級の人間か金持ちばかりだとわかるけれど、その振る舞いには目を覆いたくなる。やっぱりろくでもない場所だったわと、私は顔をしかめた。親密そうに腕を絡ませて歩いている男性と女性もいれば、人目をはばかることなく口づけをかわしている人たちもいた。部屋の扉の向こうからは、嬌声や甲高い笑い声が聞こえてくる。どこからか音楽も聞こえていた。廊下の端にだらしのない格好で座り込み、ぼんやりと宙を見つめている男もいた。扉が開いている部屋をチラッと見れば、数人の男女がお酒のグラスを傾けながら賭け事に興じている。負けるたびに、服を脱いでいく遊びをしているようだった。
(まったく、予想通りのろくでもない場所だったわ……)
カルマン=アンダーソンのような男がいかにも出入りしそうな場所である。これが時折、人の噂に上る秘密クラブというものだろうか。ここでは、誰もが素性を隠して快楽に耽るのだろう。その反面、誰もが他人には無関心のように見えた。足許がふらついて誰かにぶつかる。「あっ、ごめんなさい……」と謝ると、「お気になさらず」と柔らかい声が返ってきた。その人は私の肩を軽く押して離れると、通路の奥へと消えていった。仮面を着けていたから顔は見えなかった。
姿勢のいい若い男性だ。会ったことなどあるはずのないその人の後ろ姿を、私は無意識に見つめる。どうしてだろう。聞き覚えのある声に聞こえた。先日の舞踏会に来ていた人? だとしたら、顔を隠していない私の素性がバレてしまったかも。こんな恥知らずな場所に伯爵家の娘が出入りしているなんて醜聞が、明日には広まっていないことを祈るばかりだ。
(大丈夫……名前までわからないはずよ……そんなに多くの人と挨拶を交わしたわけでないんだから)
それに、気のせいだったかもしれない。先日の舞踏会でも、男性と踊ったわけではないし、声もかけられなかった。私が声を聞いたことのある人なんて限られている。誰かの声と似ていたのかもしれない。それに、今はこんなところでぼんやりしている場合でもない。
私は頭を振って顔を上げ、カルマン=アンダーソンの姿を捜す。ちょうどいい。あいつを見つけたら逃げられないようにつかまえて、こんな場所にいる理由をしっかり問い質してやるわ。
(ダイアナはこの場所に来たのかしら……)
彼女は大人しく、慎重な性格だ。良家の子女の大半がそうであるように、冒険小説は好んで読んだとしても、自ら危険に飛び込むような真似はしないだろう。でも、もしダイアナがカルマンを追い掛けてここに来たことがあるのだとしたら、きっと婚約者の振るまいに失望したでしょうね。私は抱き合って笑っている男女の姿から目を逸らして、溜息を吐いた。その時、カルマンの姿を見つけて、私は急ぎ足で後を追い掛けた。
カルマンが入っていたのは、奥の部屋だった。扉のノブに手をかけた時、中から諍いの声が聞こえてくる。喚くようなカルマンの声も。私は恐る恐るノブを捻って中に入る。床に倒れた燭台の炎が絨毯に燃え移るのが見えた。近くにはアルコールの瓶も転がっているため、私が飛び込んだ時には燃え広がる直前だった。私はソファーに脱ぎ散らかっていた誰かの上着をつかみ、炎に叩きつけ、足で踏んで消そうとした。煙を吸い込んでしまったらしく、咳き込んでしまう。何か消すもの――。私は心臓がバクバクしながら、辺りを見回す。額にも脇にも汗を掻いていた。サイドテーブルに駆け寄りガラスのピッチャーをつかむと、上着に燃え移ろうしている炎に勢いよく水をかけた。
(よかった、消えた……)
黒く焼けこげた上着や絨毯から、黒い煙が立ち上っていた。部屋に残る煙のせいで、口を押さえていても息苦しい。
(それよりも、カルマンはどこ!?)
私は部屋の中を見回し、煙を払いながら姿を捜す。確かにこの部屋に入っていったはずだ。私は天蓋のついたベッドに歩み寄る。「カルマン、いるんでしょう!? 出てきなさい」と、声を上げて勢いよくそのカーテンを開いた。
「ひっ!!」
私は両手で口を押さえて、思わず後退りした。うつ伏せに寝転がったカルマンは、ピクリとも動かない。上掛けやカーテン、枕に、血が飛び散り、死んでいることは明らかだった――。
嘘でしょ……犯人は!?
私はバッと振り返る。けれど、部屋には私しかいない。私は震える手を伸ばしてカルマンの肩をつかみ、勇気を振り絞り、「神様!」と祈りの言葉を唱えながらその体をひっくり返して仰向けにした。
口を半開きにして、目を見開いたカルマンの顔色は真っ白で、口許から胸元にかけて血に染まっていた。かっ切られたと思われる首からは、どす黒い血がまだ止まることなく溢れている。カルマンの手が握り締めているのは、ナイフだった。
私が彼の姿を見つけて部屋に入るまでのわずかな間に、殺されたというの?
それとも、自殺だろうか。いいえ、そんなはずはない。この男が自ら命を絶つなんて考えられなかった。そうだとしても、こんな場所を選ばないだろう。それに、諍いの声が聞こえていたということは、この部屋には他に誰かがいたということだ。
私は脚が震えてよろめき、座り込みそうになる。
「きゃああああ――っ!!」
女性の悲鳴が聞こえて私は我に返り、蒼白になった顔を上げる。「ひ、人殺し!!!」と、女性は私を見て叫ぶと廊下に飛び出し、「誰か、来て! 人が殺されているわ!!」と大きな声で叫ぶ。
「ま、待って違うの。私は……っ!!」
困ったことになる。このままでは私が犯人にされるじゃないの!!
今の女性にはどう見ても、私がカルマンを殺して、その傍らに立っていたように見えただろう。今、捕まるのはものすごく都合が悪い気がした。騒ぎが広まる前に、逃げなければ。私は部屋を飛び出して、部屋に入ってこようと人を突き飛ばして駆け出す。「あっ、あいつだ。追い掛けろ!!!」と、男が叫んでいた。
私はスカートをたくし上げて、階段を駆け上がる。上の階は静かだった。時折、どこかの部屋から人の笑う声や音楽が聞こえてくる。逃げれば、ますます疑われることになるんじゃないだろうかと考えが頭を過る。けれど、逃げなければ私は間違いなく犯人に仕立てられてしまう。警察を呼ばれてはますます面倒だった。
(明日のゴシップ誌の表紙を飾るのは私の記事ね……)
ああ、なんてことと、私は目を手で覆った。こんな醜聞が広まれば、田舎の屋敷に戻ることもできない。不名誉どころではないだろう。それに、困ったことに私がやっていないという証拠を出すのは難しそうだった。何しろ、私がカルマンと言い争いをしていたのは、先日の舞踏会の時も大勢に見られている。ダイアナの復讐のために、カルマンを手にかけた――と思われても仕方ないだろう。
とにかくこの場所から離れないと。私は出口を探して走る。振り返ると、階段を上がってくる人たちの影が見えた。不意に近くの扉が開いて、私の腕が掴まれる。抵抗する間もなく部屋に引っ張り込まれ、扉が閉められた。びっくりして相手を見れば、さっきすれ違った仮面の男性だった。彼は私の唇に人差し指を当てると、ニコッと微笑んだ。静かにしていろということなのだろう。扉に背中を押しつけたまま、私は小さく頷いた。廊下を走る足音と人の想像しい声がする。心臓がバクバクして、緊張して倒れそうだった。殺人を疑われて逃げるなんて、人生でそう経験することはない。
男性は扉に手をついたまま、少し体を前側に傾け、私の耳元に顔を寄せる。
「…………大丈夫だから。ここは任せて」
彼はそう囁くと、私を引き寄せる。扉がノックされて、「お客様……」と遠慮がちな声がした。私は彼の片腕に抱かれたまま、ビクッとする。男性は平然とした様子で扉を開いた。
「何かな?」
「それが……こちらに、不審な者が逃げてこなかったでしょうか?」
「さぁ、知らないな。何かあったのかな?」
「それが……いえ……何もございません。お騒がせして申し訳ありませんでした。何かあれば、お声をおかけくださいませ」
「ああ、そうするよ」
男性が扉をパタンと閉める。「もういいよ」と声がして、背中に触れていた彼の腕の感触が離れた。緊張のあまりに、彼の上着をつかんでしまっていた。
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます……」
そうお礼を言ったけれど、声がまだ震えてしまっていた。私は強がりな性格でいつもなら人前では泣いたりしないのに、涙が溢れそうになる。青年は少し困ったような目をして私を見詰めていたけれど、足の向きを変えてテーブルの方へと移動する。私はどうしていいのかわからないまま、扉のそばに突っ立ったままでいた。
彼はテーブルの瓶を取ると、グラスに少しだけブランデーを注ぐ。そのグラスを持って、私の方へと戻ってきた。「少し飲む?」と、グラスを差し出して聞いてくる。私は頷いて、両手でグラスを受け取った。今は何かで気を紛らわせていないと、倒れてしまいそうだった。
お酒はそう得意ではないけれど、私はグラスのブランデーを飲み干す。むせて口許を手で拭った。
「紅茶のほうがよかったかな?」
「いいえ、いいの。ありがとう……」
私はグラスを彼に返して、深く息を吐き出した。心臓はバクバクしたままで、グラスを支える指も震えていたけれど、頭は少しだけ冷静さを取り戻せた気がした。
私はゆっくりと視線を上げて、仮面をつけた彼を改めて見る。仮面は顔半分を覆っているが、目の部分だけは開いていて、エメラルド色の瞳が私を見ていた。その瞳の色と、柔らかな眼差しにはやっぱり覚えがある。そう、この瞳は――アイリーンと同じだ。図書館で会った時の彼女の瞳を思い出す。




