第九章1 悪夢*ちょっとホラーです*
キャンドルの明かりが無音で揺らめくその部屋を、私はぼんやりと眺めていた。
(この部屋……知ってる……)
天蓋のある大きなベッドに、派手な色の寝具。カーペットやカーテンにまで染み付いた甘いお香の匂い。
頭の奥が痺れるような感覚はどこか魅惑的でもあった。秘密クラブの一室だと気付いた時、背筋にゾクッとした震えが走り、恐る恐る寝台に目をやる。ベッドの端から、白い腕が垂れていた。
人がいる――。
ピクリとも動かず、仰向けになって天蓋を凝視している女性は、蝋人形のようでもあった。真っ赤な口紅を塗った半開きの口の端から、赤い滴が垂れている。私は「ひっ!」と声を漏らして、後退りする。
秘密クラブに迷い込んだ時に、亡くなっていた女性だと気付いた時には足の向きを変えて走り出していた。扉を開いて、足がもつれそうになりながら廊下に駆け出る。
誰か、誰かを呼ばないと。
そう思うのに、廊下には人の影はなく、静まり返っている。いくら走っても、走っても、廊下が途切れない。これほど長い廊下などなかったはずなのに。躓いて廊下の絨毯に投げ出されると同時に、片方の靴が脱げてしまっていた。痛みを堪えて起き上がった私の頬に、ひどく冷たいものが触れる。それは人の手の感触だ。私はビクッとして硬直する。
「どうして…………助けてくれなかったの?」
囁くような声が耳元で聞こえた。目を見開いた私は、視線だけわずかに動かす。髪が触れていた。それはベッドに倒れていた女性のものだ。
「ねぇ……どうして逃げたの……?」
囁く声は続く。全身震えて、指すら動かせない。冷たい手は頬を滑り、首まで下りる。その瞬間、力一杯、両手で首を絞められて息が出来なくなる。私の口からこぼれるのは、小さな呻き声だけだ。
(た、助けて…………誰か…………っ!!)
「助けてくれなかったあなたが……誰に助けを求めるの?」
嘲るような声が耳を掠める。殺される。このままでは――。
ギュッと目を瞑って渾身の力で腕を振り上げた。その瞬間、首を絞める手の力がフッと消える。
這って離れた私は立ち上がり、その場から逃げ出した。
階段がようやく見えて、駆け下りていく。その瞬間、ふと周りの情景が変わった。教会として使われていた地下の部屋だ。カタンッと床の石が外れる音がした。その暗い穴から、黒く変色した手がズルッと伸びてくる。私は声が出なくて後ろに下がった。ここはダメだ。ここは――。
いくつもの手が伸びてきて黒い塊が這いだしてくる。それが人であったものだとわかった時には、私は絶叫していた。
「助けて……」
「助けて…………」
「ここから、出して…………」
「家に帰して…………」
そんな声が聞こえてきて、スカートがつかまれる。足首をつかまれた私は、「い、嫌、離して!」と必死になって振り払おうとした。けれど、人だったそれは、私をつかんで穴の中に引きずり込もうとする。
「嫌ああああっ!!」
助けて――。
お願い。助けて。
アイリーン……ウィリアム…………ダイアナ…………っ!!
心の中で念じていると、足や腕をつかむ手の感触が消える。恐る恐る目を開いた時、私は驚愕して動けなくなる。
その部屋の調度には見覚えがある。ここはダイアナの部屋だ。何度も訪れて、一緒にお茶を飲んだ。
部屋の真ん中にぶら下がっているのは、寝間着姿の――ダイアナだった。
その足がゆらゆらと揺れている。上履きの片方は絨毯の上に落ちていた。
「あ……ああ………………あああああっ!!!」
絨毯に座り込んでいた私は、揺れているその足に手を伸ばした。
嫌だ――。嫌だ、こんなの。
「ねぇ、ドリス…………」
懐かしい声がして視線を上げると、ダイアナが見下ろしている。表情はなく、唇の色は紫色に変わっていた。ぞっとするような冷たい目だ。ああ、ダイアナは恨んでいたんだ。助けられなかった私を、責めているんだ。そう思った瞬間、目から涙が溢れてくる。
「ごめんなさい……ダイアナ……ごめんね…………許して……っ!!」
私はうずくまって必死に謝っていた。
「許して? どうしてあなたが謝るの?」
震えながら、私はわずかに顔を動かす。すぐ目の前に、天井から逆さにぶら下がった彼女の顔があった。悲鳴を上げそうになった私は、自分の口を咄嗟に押さえる。
「あなたが……私を殺したの?」
そんな囁き声が聞こえて、私は糸が切れた人形のようにその場にパタリと倒れた。
「助けて」、「殺さないで」、「帰りたい」
「なぜ殺したの……」
幾人もの恐怖と苦しみに苛まれた声が聞こえてくる。ああ、これは私を地獄に誘う死者の声だ。
私が救えなかった人たちの、絶望の声だ。
「ご…………めんね…………」
唇を動かし、微かな声で謝る。目からこぼれた涙が床に溜まっていく。
ごめんなさい。何もできなくて。救ってあげられなくて。
間に合わなくて。
「…………ス…………ドリ…………ドリス!!」
誰かが必死に呼んでいる声がした。闇の中に落ちていく私の体が、ふっと引っ張り上げられる。
ゆっくりと目を開くと、ウィリアムの顔がすぐそばにあった。
「ウィ…………アム?」
「よかった……間に合わないかと思った」
そう言うと、彼は力の入らない私の体を胸に引き寄せてギュッと抱き締める。
生きている人間の声と温もりに安堵すると同時に、私は顔をクシャクシャにして泣き出していた。
「う…………うあぁああああああん…………っ!!」
情けないほど大きな声を上げ、彼の胸にしがみつく。ウィリアムは私が落ち着くまで、宥めるように頭を撫でてくれていた。
怖くて、悲しい夢を見ていた。
それは、あの時、シスター・クレアに打たれた薬のせいだろうか。幻覚作用のあるものだったのだろう。その副作用なのかひどく眠くなってくる。
「今は寝ていていい。目が覚めた時には全部、終わっているから」
優しい彼の声に頷く。その後のことは覚えていない。ただ、多くの人の声が聞こえていたような気がする。警官が間に合ったのだろうか。
あの子たちは、助かっただろうか――。




