第八章1 馬車の中
馬車の中でずっと、ドリスは泣き崩れていた。コートの袖は裂け血に染まっている。二発目の銃弾が掠めたと話していた。それでも数針は縫う怪我だ。それが彼女を狙ったものなのか、被害者にとどめを刺すために発射したものが逸れて彼女に当たったのかはわからない。ドリスは犯人の姿は見ていないと言う。だとしたら、かなり遠距離から狙撃したのだろう。少なくとも、相手は素人ではない。銃の扱いになれている者だ。
公爵邸に連れて行き、居間に通すと、ソファーに座らせる。メイドに温かいワインを頼んだ。しばらくして運ばれてきたそれを、絨毯に片膝について彼女の手に渡す。カップは湯気が立ち、果実の香りがふわりと漂う。ワインには、乾燥させた林檎が二きれほど浮かべてあった。
ドリスはグスグスとはなを啜りながら、そのカップに口をつける。
「落ち着いた?」
そう尋ねると、彼女はコクッと頷いた。目の周りが泣いたせいで赤く腫れていた。「みっともない顔でごめんなさい」と、濡れた頬を拭う彼女は少しもみっともなくなどない。むしろ、撃たれた上に、目の前で人が亡くなったのだ。そんな目に遭ったのに、十分に気丈に振る舞っている。強い人だなと、心から思う。
初めて会った時もそうだった。亡くなった友人のために、カルマン=アンダーソンと対峙しようとしていた。その後も、何度も怖い思いをしたはずなのに、諦めず事件の真相を暴こうとしている。貴族の令嬢らしからぬ性格ではある。勇敢なのか、無鉄砲なのか。多分、両方なのだろう。俯いた彼女のほつれた髪に手を伸ばし、そっと耳に掛けてやる。顔を上げた彼女の頼りなげな瞳に、ふっと笑ってみせた。
「君はもっと私を頼ってくれていんだよ?」
そう言うと、ドリスもつられたように口角を少し上げる。
「頼りにしているわ。でなければ、迎えに来てほしいなんて手紙……恥知らずにも送ったりしないわ」
警官が彼女の手紙を届けに屋敷へ来た時、心臓が止まるような思いがしたことを彼女はわかっているのだろうか。上着とコートを羽織り屋敷を飛び出して、警察署に向かった。警察署から出てきた彼女がフラフラと歩いている姿を見て、抱き締めそうになったこちらの気持ちなど、少しも気付いていないのだろう。
「…………友達じゃないか」
ウィリアムは視線を下げてそう答えた。そう。かけがえない大切な友人。
もう、失うのはたくさんだ。彼女は、誰も救えなかったかと馬車の中で悔しそうに涙をこぼしていた。その気持ちが心底よくわかる。誰も救えなかったのは、自分のほうだ。
同じ過ちは絶対におかさない。この一連の事件に加担した者を許しはしない。一人残らず、裁きの場に引きずり出す。相手が誰であろうともだ。密かに拳を握る。
潤んだ瞳を向けていた彼女が不意に体を傾けて、ウィリアムの肩に頭を預けてきた。雨に濡れてほんのり湿った彼女の髪が頬をくすぐる。
「…………ドリス?」
遠慮がちに彼女の小刻みに震えている肩に触れると、「親友以上だわ」と彼女の囁くような声が聞こえた。
「あなたを誰よりも信頼してるもの……ねえ、ウィリアム。ちょっと疲れちゃった……少しだけ任せていい?」
「もちろん。今日はもう、休むといい」
彼女の手からまだ半分残っているワインのカップを取り、テーブルに置く。睡眠薬が効いたのだろう。眠けに抗えずに目を瞑った彼女の体がゆっくり横に傾く。それを支えて、抱きかかえながら立ち上がった。部屋の扉が開いて、従僕が部屋へと入ってくる。
「エドワード、彼女のことを頼めるか? 無事に送り届けてほしい」
「…………確かに、承りました。ウィリアム様もお気をつけて」
全て承知しているように、エドワードは胸に手を当てて一礼した。
***
体に伝わる振動で目を覚ました私は、思うように起き上がることもできずに瞬きする。
「え…………ええっ!! あ、あの……ちょっと、これ、どういうこと!?」
覚えているのは警察署から出るとウィリアムが迎えに来てくれていて、馬車に乗せられて公爵邸に戻ったこと。居間に通されてホットワインを飲むと眠くなって――その後の記憶がない。むしろ、馬車の中でウィリアムにしがみついて大泣きしてしまった記憶の方が押し寄せてきて、羞恥心がブワッと込み上げてきた。
(わ、私、なんて大胆な…………相手はアイリーンじゃないのよ!!!)
なのに、遠慮なくしがみついて泣きじゃくってしまった。気を失ってしまいたくなる。
ああ、むしろ昨日の記憶全部、消し飛んでしまっていてくれたらよかったのに。
「じゃなくて、ど、ど、どうして、私……簀巻きにされてるの!?」
腕も脚も思うように動かせないと思ったら、どうやら毛布にグルグル巻きにされているようだ。しかも、ご丁寧にその上から縄で縛られているため、イモムシのようにモゾモゾすることしかできない。
(もしかして、誘拐!? 拉致されたの!?)
いったい、どうして!
パニックに陥りながらも、ここがどこで、自分がどういう状況に置かれているのか把握しようとした。移動中の馬車の中だということはわかる。それも、かなり高級な造りの馬車――この天井には見覚えがあるし、青いシートにも見覚えがある。「お目覚めになりましたか?」と、落ち着いた声がして向かいのシートに目をやれば、きちんと背筋を伸ばして座っているコート姿の若い男性がいた。
(だ、誰……!?)
と、一瞬緊張して怪しんだけれど、よく見れば覚えがある。度々、公爵邸で出迎えてくれた従僕の若い男性だ。長い黒髪を後ろで結んでいて、スタイルも顔もいい人だ。公爵邸の使用人は美男美女揃いなのね、なんて感心している場合じゃない。
「あっ、あなた……確か、ウィリアムの側にいた人……でしょう!? こ、これはどういうことなの!?」
もしかして、公爵邸の中に敵の回し者がいて、私――夜中に攫われたの!?
このままどこかの林に埋められるのではないかしらと、不吉な想像が頭を過って顔色が青くなる。
「ご心配には及びません。ウィリアム様のご命令なので」
手袋をつけた片手を上げて、彼は微笑む。
「ウィリアムの命令!?」
どうして、彼が私を簀巻きにして拉致するの――!?
ま、まさか、あの人が犯人なんてことはないわよね。信頼していた人に裏切られるなんて、推理小説ではよくある展開。
(う、嘘でしょーっ!)
私は涙が出そうになった。そんなこと、絶対に信じられない。でも、ウィリアムにはどこか謎めいたところがある。そもそも、事件の真相を調べるためと言っても女装なんてしないだろう。女装姿も、振る舞いや口調も、随分と慣れたものだった。
「ほ、本当に……ウィリアムが……?」
私が震える声で聞くと、従僕は「ええ、安全な場所までお連れするだけです」と頷く。
「安全な場所……?」
ポカンとして、私はマヌケな声で聞き返した。
「はい」
「は、林に埋められるのではなくて?」
「…………なぜ、林に埋めるのですか」
呆れた顔をされて、私は「ですよね~」と空笑いをする。
や、やっぱり、ウィリアムは犯人ではなかったのだわ。当たり前のことだけど、少しでも疑ってごめんなさいっ!! 私は、心の中で彼の顔を思い出しながら謝る。
「あの……どうして私、こんなにグルグル巻きに?」
「寝ていらっしゃったので。転がり落ちても大丈夫なようにそのような措置を執らせていただきました。あと、馬車の中は冷えますので」
従僕はニコッと微笑む。簀巻きの縄を解いてくれる気配は少しもない。もしかして、その安全な場所とやらに到着するまで、私はずっと――この状態で転がされていることになるの?
「あ、あのもう大丈夫だから、できれば起き上がりたいのだけど」
「まだ、夜中でございますから。安心してお休みください」
やっぱり、このままなのね!
とりあえず、ウィリアムの命令ということなら、この従僕が私に危害を加えることはないだろう。
私は諦めて横になっていることにした。他にどうすることもできないのだもの。
ウィリアムに会ったら、一言文句を言う必要があるわ。私はウトウトして、また眠りに落ちていった。耳に残る彼の優しい声を思い出しながら。
『ドリス……何も心配はいらないよ。後は任せて……君が王都に戻る頃には、全てが終わっているから』




