プロローグ2 日記
親友のダイアナの婚約者だったカルマン=アンダーソンは、どこかの令嬢を連れて階段を上がっていく。上の階はゲストルームが並んでいる。今日、宿泊する客も多いようで、使用人たちは彼らの姿を見ても止めはしない。こういった貴族の邸宅で働く使用人たちは、もとより、客人たちのプライベートには踏み込まないし、注意する権限もないのだから、見て見ぬ振りをするのが慣例となっているのだろう。うっかり邪魔をしようものなら、職を失うことになる。
令嬢は気弱な性格なのか、困ったような顔をして仕切りに使用人たちの姿を目で追っていた。だが、恥知らずなカルマンはヘラヘラ笑って彼女の腰に腕を回している。令嬢が「アンダーソン様、ごめんなさい……戻らないと」と、小さな声で拒絶していても、「少し、二人きりで話がしたいだけさ」とカルマンはヘラヘラと笑っている。カルマンはそこそこ顔がいい。しかも、ベイズモア伯爵の甥だ。令嬢も最初は声をかけられて悪い気はしなかったのだろう。そうやって、彼の毒牙にかかった令嬢は一人や二人ではないはずだ。しかも、カルマンは仲間内で得意げにそのことを吹聴して回っている。令嬢の名誉に配慮するつもりは、これっぽっちもないのだろう。女癖の悪さは、社交界でも指折りだ。
あの令嬢も、少しは調べてからついていくべきよね――。
私は微かに溜息を吐く。だけど、このまま部屋に連れ込まれるのを黙って見ているわけにはいかない。ダイアナのような不幸な目に遭う令嬢を増やさないためにもだ。それに、なにより私はあの男に訊きたいことがある。大広間を抜け出してくれたことは、好都合だった。
私は急いで階段を駆け上がり、「ああ、こんなところにいたのね!」とできるだけ大きな声で二人に声をかけた。もちろん、笑顔でだ。カルマンは私を見て、こいつは誰だとばかりに眉間に皺を寄せていた。私とカルマンが顔を合わせたことは一度だけ。その一度も、ずっと昔のことだから忘れてしまっているのだろう。私の野暮ったいドレスを一瞥すると、鼻で笑うような表情を見せた。それに気付かないふりをして私は駆け寄り、令嬢の腕をつかむ。
「ごめんなさいね。あなたのお母様が探してらっしゃったわ。腰が痛いから早く帰りたいのですって!」
令嬢は「えっ、えっ」と戸惑いの声を漏らして瞬きしていたが、「ごめんなさい、アンダーソン様。は、母の具合がよくないようですので、失礼します!」と一礼して逃げるように階段を下りていった。
「あっ、おい!」と、カルマンは焦って声を上げてから、苛ついたように私を睨む。それでもなんとか体裁を整えようと、顔を引きつらせて笑みを作っていた。
「どこのご令嬢か知りませんが、いったいどういうつもりなんです? それとも、もしかして私に気があるんですか?」
「あなたに気なんて少しもないけれど、用事があったのは確かですわね。アンダーソン様」
私は彼の前に出て、にっこりと微笑む。逃がさないために、彼の腕をつかんだ。私を値踏みするように眺めたカルマンは、ふんっと小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「どこの田舎貴族の娘だ……」と、小声で呟いていた。
「まあ、いい……せっかくの相手に逃げられてしまったんだ。あなたが代わりに相手にしてもらえるんでしょうね? お名前を伺っても? なにせ、あなたとは初対面だ」
「初対面ではありませんわ。以前、一度顔を合わせたことはありますわ。ダイアナと一緒に」
私がその名前を口にした途端に、カルマンは私の手をはね除けて警戒するように後退りする。顔がはっきりとわかるくらいに動揺していた。
「いったい、何のつもりだ!?」
「覚えていないようなので、改めて名乗らせてもらうわ。私はドリス=ディノア。不幸にもあなたの婚約者だったダイアナの親友よ! あなたも、私の名前くらいは聞いたことくらいはあるんじゃなくて?」
「ディノア……ディノア伯爵の娘か……」
カルマンは驚いたように目を見開き、忌ま忌ましそうに呟く。
「ダイアナのことで、あなたに聞きたいことがあるのよ」
「私を疑っているのか!? 警察にも聞かれたが、私は無関係だ。あいつが勝手に死んでいたんだろう。どうせ、他に男でもいたに違いない。私より、そいつを捜すんだな!」
この男、どこまでもダイアナを辱めれば気が済むのかしら。私はグッと堪えて拳を握る。今ここでつかみかかっても、騒ぎになるだけ。使用人もさすがに立ち止まって、こちらの様子を伺っている。
「誰も彼もが、あなたの知っているような尻軽な女ばかりじゃないのよ。まして、ダイアナは婚約者がいる立場で他の男性と付き合うようなふしだらな振る舞いなどするはずがない。あなたのようなクズ同然の婚約者だったとしてもね!」
私は「洗いざらい、知ってることを話してもらうわ」と、腕を組んでカルマンに詰め寄る。
「知っていること? そんなものあるわけがない。あいつとは会っていなかったんだ」
「嘘ね! ダイアナの手紙に、あなたと会ったことは書かれてた。それに、彼女の日記を遺品として受け取ったのは私だもの。日記を読めば一目瞭然よ」
「日記……なんて残していやがったのか……っ!」
カルマンの頬が強ばり、唸るような声が漏れる。よっぽど都合の悪いことでもあったののだろう。
私を押し退けて逃げだそうとする。私は「待ちなさいっ!」と声を上げて駆け出した。階段で追いつき手を伸ばして彼の腕をつかもうとしたけれど、振り返ったカルマンに突き飛ばされる。段差を踏み外して倒れそうになった私は、踊り場にいた女性に強くぶつかってしまった。私の腰に腕を回してパッと支えてくれたのはその女性だ。
「あっ……ご、ごめんなさいっ!! 急いでいて……」
私は焦って顔を上げる。その人は「いいえ、大丈夫ですか?」と、微笑んだ。
アイリーン=ディオノーク公爵令嬢! 私は彼女の女神の彫刻のように整ったその顔から、目を離せなくなる。すぐに我に返ってカルマンの姿を目で追えば、彼はもうすでに大広間に駆け込んでしまっていた。大勢の客人がいる場所では、問い詰められないと思ったのだろう。私は「失敗したわね……」と、大きく溜息を吐いた。
「あの人……誰です?」
少し低めの綺麗な声に問われて、私はハッとした。アイリーンの腕は私を支えたままだ。
「あ、ベイズモア伯爵の甥で……カルマン=アンダーソンという男です」
私は苦笑いをして彼女から離れ、「助けていただき、ありがとうございました」とお辞儀をした。細くて綺麗な人なのに、意外と力があるんだと私は少し驚いた。乗馬やフェンシングでもしているのかもしれない。アイリーンは腕を引っ込めると、「いいえ、怪我がなくてよかったわ」とニコッと笑う。気品のある笑顔だった。女性の私でもドキドキしてしまうくらいだから、男性が彼女に夢中になる気持ちも理解できる。社交界の女神とまで言われているのだ。
「あの方と何かあったのですか?」
「いいえっ! 個人的な問題です……ちょっと訊きたいことがあったのですけれど」
私は手を小さく振って苦笑いする。これ以上注目を集めて騒ぎが大きくなれば、噂の的になってしまう。それはダイアナのためにも避けたい。彼女が亡くなってからまだ十日しか経っていないのに、ゴシップ記事にされるのはご免だ。
顔を曇らせる私を、アイリーンがジッと見つめていた。私は「お気になさらず」と誤魔化して、階段を急ぎ足で下りる。今日のところは、もう引き上げた方がよさそうだ。少なくとも、カルマン=アンダーソンは私の名前を覚えただろう。私の手にダイアナの日記があることも――。
きっと、何か手を打ってくるはずだ。少なくとも、彼にとって不都合なことが日記に書かれているのを知っているのならば。




