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第三章2 月の舟

 私は雨の降る窓の外を、図書館の席に座って眺める。公爵邸に行ってから三日が過ぎたけれど、アイリーンからの音沙汰はない。何かわかったら、手紙で知らせると言っていたけれど、今のところ連絡はなくて私はこうして公園の隅にひっそり建つ図書館で暇を潰していた。時間は午後四時。あと一時間ほどで、閉館の時間になるけれど、アイリーンが来る様子はない。

(会えるかと思ったんだけど……)

 私は頬杖をついて溜息を吐く。


 先日、公爵邸で「ドリス、あなたは無茶なことをしようとしないでね」と釘を刺されたけれど。私は「やっぱり、心配よね……」と呟いた。アイリーンのお兄様に行ってもらう作戦がうまくいっていないのだろうか。例え妹の頼みとはいえ、娼館に行って調べてほしいことがあるなんてお願い事は、まともな兄ならそう易々とは引き受けてくれないだろう。それに体調が思わしくないのかもしれない。


「それか、潜入はできたけど思わしい情報は得られてないとか?」

 私は独り言を漏らしながら、「うーん」と考え込む。待っているのは、性に合わないわね。気になってじっとしていられない。アイリーンも他に付き合いもあるだろうし、この件ばかりにかまっていられないはずだ。私と違って、きっと忙しいだろうから。


「月の舟……か」

 場所はだいたい分かっている。ちょっと、様子を伺ってくるだけ。うまくいけば、シェリー=リンドに接触できるかもしれない。彼と、カルマンとの繋がりが知りたい。それに、あの川でなくなった娼婦とは同じ店で働いていたのだから、彼女についても何か聞き出せるかも。カルマンの死がダイアナの自殺とどう関わりがあるのかわからないけれど――これが偶然とはとても思えない。アイリーンもそう考えているだろう。鍵は娼館にある。


 私は「よし!」と、席を立つ。開いていた本を閉じて書棚に戻し、図書館の薄暗い階段を急ぎ足で駆け下りていった。目立たないように変装しないと。となれば、帰りに古着屋に寄ってもっとくたびれた服を買おう。顔が隠れそうな帽子もいるわね。

 

 一度屋敷に戻ってみると、メアリーと叔母様はちょうど夜会に出かけていて帰りが遅くなるようだった。これは好都合だ。古着屋で買った服に着替えて、コートを羽織り、使用人に見付からないように裏口から屋敷を抜け出した。といっても、この屋敷では私のことを気に留める人なんてそういないんだけど。

 

 通りに出て辻馬車を止め、歓楽街へと向かってもらう。雨の降り続く夜の街は、灯りが水たまりに映り、どこか幻想的な光景に見えた。笑い声や奏でられる音楽の音が、そこかしこから聞こえてくる。馬車が行き交い、通りに出た女性たちが男性にしなだれかかっていた。仮面を着けた人も多かった。もちろん、歓楽街なんて初めて立ち入る私は、人にぶつからないように避けて歩きながら、帽子をギュッと押さえて辺りを見回していた。「姉ちゃん、あんたどこの田舎から出てきたんだ?」と、酔っ払いが笑いながら絡んでくる。ギョッとした私は、俯いて急ぎ足で逃げ出す。「あはははっ、振られちまったな」、「うるせぇ!」と愉快そうに話している酔っぱらいたちの声が聞こえた。


「やっぱり、女が一人で来るような場所ではないわね……」

 ようやく人気のない路地まできたところで、はぁと息を吐いて呟く。ポケットから取り出した地図を見ながら、今いる場所を確かめる。今の私はあまり品がいいとは言えないえんじ色の薄汚れたドレスだ。胸元がかなり空いているのを茶色のコートで隠しているけれど、ひどく心許ない気持ちになってくる。こんな姿、知り合いに見られたらひどく恥ずかしい思いをすることになるだろう。王都にあまり知り合いがいないのが幸いだ。厚化粧もしてきたから、私だとわかる人はいない――はず。

「無謀だって、アイリーンに叱られそうだわ」

 さっきから独り言が多いのは不安を紛らわすためだ。


 ようやく見つけた建物は、娼館とは思えないような立派な造りの建物だった。貴族や金持ち御用達の店だからだろうか。店の入り口の前にはひっきりなしに馬車が止まっていた。降りてくるのは身なりのいい紳士や、仮面を着けた男たちだ。ドアマンが丁重に出迎えている。私はコートのフードを目深にかぶって、その様子を通りの角からしばらく伺っていた。

 

「ちょっと、さっきから怪しいわね……どこの店の回し者よ?」

 急に声をかけられた私はビクッとして振り向いた。傘を差して私を睨んでいるのは、コートを着た巻き毛の女性だった。

「えっ!! あ、あの、私はえっと……その……」 

 言い訳の言葉をひねり出そうとしたけれど、焦ったせいで口が上手く動いてくれない。挙動不審な私を、女性は怪しむように睨め付けてくる。

「もしかして……田舎から出てきたばっかり?」

「そ、そうなの! お金に困っていて……どこか働かせて貰える場所はないかと思っているんだけど……し、知り合いもいないし……ど、どこのお店でも追い出されちゃって!」

 私は焦って、早口でそう答えた。そんなに今の私の格好って、田舎者に見えるくらい野暮ったいのかしら。それはそれで、好都合だけど。

「ふーん、そういうことね……ここで、お客のおこぼれにあやかろうってわけ? バカね。この辺りは高級娼館ばかりなのよ。あなたみたいなのがいくら立っていたって、見向きもされやしないわ。まして、うちの店は一流の店なのよ?」

「うちの……店?」

 私は得意げに胸を反らす女の人を見て、聞き返す。

「ええ、そう。まあ、いいわ……そういうことなら、ほら。ついてきなさい。悪いようにはしないわ」

 女性は私の腕をつかんで店の方へと歩いていく。


 この女性の名前はマチルダというらしい。彼女が私を連れていったのは店の裏口だ。そこから「ほら、入んなさい!」と背中を押されて中に入る。「おい、マチルダ。そいつは誰だ?」と、大柄な見張りの男が私と彼女をジロッと睨んできた。

「新しい子よ。ちょうど、人手が足りないってマダムが言ってたじゃない。だから、連れてきたの!」

 私の腕をつかんだまま、マチルダさんはそう言って細い廊下を通り抜ける。私は見張りの男の人にペコリと頭を下げて愛想笑いを浮かべておいた。思いがけず店の中に入れたのだ。これは大きなチャンスかも!

 私はドキドキしながら、取りあえず大人しくマチルダさんについていく。


 けれど、私が着替えを渡されて放り込まれたのは、店の厨房だった。「とりあえず、ここで頑張りなさいよ」と、マチルダさんは手を振って上の階へと上がっていった。

(親切な人……みたいね)

 それに、あの人も店で働いているのなら、後で話を聞かせてもらえるかもしれない。私は袖まくりをして、「よろしくお願いします!」と元気よく厨房の人たちに挨拶した。とりあえず、怪しまれないように頑張らないと!


「おい、この芋を洗って皮剥きしておけ!」

「ちょっと、洗い物が溜まってるじゃない! 皿洗い何してるの!」

「ワイングラス十杯、用意しとけって言っただろ!」

 休む間もなく、そんな声があちこちから飛んでくる。私は心の中で、「そんなに一度に言われてもできないわよ!」と悲鳴を上げた。いくら田舎出の貧乏貴族とはいえ、これでも一応は伯爵令嬢として育てられた私だ。畑仕事や針仕事なら経験はあっても、厨房に立つことなんてほとんどなかったのだ。急に放り込まれても、右往左往するばかりだ。もちろん、誰かから話を聞いたり、調べたりするような余裕なんて少しもない。

 厨房の隅に座ってひたすら芋の皮を剥き、それが終われば洗い場で溜まっている汚れた皿やグラスを洗う。「これ、裏に捨てておけ!」と押しつけられた桶の中には残飯やごみ屑が山ほど入っていて、悪臭を漂わせていた。私は「はい……」と、力なく返事をして、裏口から外に出る。雨のせいで、どぶくさい湿った空気が淀んでいた。大きなごみ箱の蓋を開いて残飯を放り込み、空の桶を提げて店に戻ろうとした時、人の言い争うような声が聞こえて足を止める。女性が、馬車に乗り込もうとする男の腕をつかんで引き留めようとしていた。男は紳士風の帽子と服装で、顔には仮面をつけている。女性の方はショールで顔を隠していた。男は女の手を煩わしそうに振り払うと、女性を突き飛ばして馬車のドアを閉める。泥水を飛ばしながら、馬車は石畳の路地を逃げるように走り去る。ショールが落ちて水たまりに座り込むようにして倒れた女性の顔が、外灯に照らされる。私はハッとして、彼女に駆け寄った。

(シェリー=リンド!)

 

「大丈夫ですか!?」

 私が声をかけると、彼女がすぐさまショールをつかんで立ち上がる。ドレスも靴も泥まみれだった。「余計なお世話よ……っ」

 シェリー=リンドはうつむいて言うと、私を押し退けて店の方へと戻っていく。後を追い掛けようと思ったけれど、あまりしつこくしてはかえって警戒されそうだ。私は彼女が店に入るのを待ってから、裏口に引き返そうとした。

 

 外灯の光が当たり、水たまりの中で何かが光る。よく見れば、ブローチのようだった。彼女の落としたものだろうか。私は身をかがめ、泥水につかっているそのブローチを拾い上げた。百合の花のカメオだ。裏を見れば、台座に何かが彫り込んである。天使の翼にも見えるような両手の模様――。それを中心に細かな文字が刻んである。目を懲らさなければ読めないほど小さな文字だった。

「白百合の読書会……?」

 私は辛うじて判別した言葉に、首を捻る。シェリー=リンドが参加している読書会だろうか。もちろん、彼女が読書を趣味にしていてもなんらおかしくはないのだけど。わざわざブローチに刻むほど、本が好きなのだろうか。


 私は「ふむ」と、考え込んでそのブローチをハンカチで丁寧に包んでポケットにしまった。後で、返しておこう。その前に、この図案は一度、アイリーンに見せたほうがいいかもしれない。何かの手がかりになるかも。

 

 厨房に戻った私は、「遅い、どこでサボってやがった!」と料理人に怒鳴られて首を竦める。「す、すみません。すぐやります!」と返事をする。洗い場に向かうと、げんなりするほど汚れた皿が積み上がっていた。私は溜息を吐いてから、気合いを入れ直してスポンジをつかむ。



「お前、明日も来られるんだろうな?」

 厨房を仕切っている料理人のおじさんが声をかけてきたのは、厨房の片付けをしていた時だ。もう、深夜の二時を過ぎていた。他の女中さんや給仕の人は、もうすでに帰った後で、残っているのは私とおじさんだけ。娼館の営業も終わっているから、館内は静かなものだった。

「は、はいっ。働かせてもらえるなら……」

「じゃあ、明日も同じ時間だ」

 それだけ言うと、おじさんは私に一日分の給与を渡して奥の部屋へと引っ込む。そこは休憩室を兼ねた事務所になっているようだ。ということは、しばらくこの娼館に出入りできるということよね。しかも、厨房の仕事なら、アイリーンが心配していたようなこともない。私は給与で渡されたコインをギュッと握り締める。

(そうだ、こうしてないで、早く帰らなきゃ……朝までに屋敷に戻ってないと、夜遊びをしている不良娘だと思われるわ!)

 

 急いで帰り支度をして、裏口から娼館を出ると、ちょうど私に働き口を紹介してくれたアマンダさんも帰るところだったようだ。私を見るとちょっと笑ってやってくる。

「どう? 仕事は。よく逃げ出さなかったね」

「ありがとうございます。おかげで、明日も働かせてもらえそうです!」

 私がお礼を言うと、「そう。頑張りなよ。厨房のおっさん、人使い荒いけどさ」と彼女は笑って私の肩を叩いた。ヒールの音を響かせながら立ち去る彼女を、男の人が待っていた。アマンダさんはその人の腕に飛びつくと、仲よさそうにくっついて一緒に歩いていく。

(恋人……なのかな?)

 私は少し赤くなって目を逸らし、足の向きを変えて急いで立ち去る。


(娼館で働くことになったことは……アイリーンにはちょっと秘密にしておいたほうがよさそうね)

 彼女が知ればきっと呆れるか、止めようとするだろうから。それに、今のところ収穫はそれほどない。何かわかってから話すほうがいいだろう。



 



 


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