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第三章1 公爵邸の訪問

 葬儀の翌日、私が訪れたのはディオノーク公爵邸だ。王宮や王都大聖堂に近く、周囲は大貴族の邸宅が並ぶ。道は舗装されていて、美しい白樺の並木が続く。見上げるほど大きな、鉄の門を見上げてしばらくあ然としていた。

(アイリーンってば……『うちで話し合えばいいのではなくて?』なんて言って、気軽に誘ってくれたけれど……こんな格好で来ちゃいけなかったんじゃないの!?)

 王都の貴族の流儀なんてそう知らないけれど、ディオノーク公爵家に招かれるなんて、貴族の令嬢でもそう滅多にないことではないだろうか。お茶会に招かれただけでも大変名誉なことで、もっとちゃんとした、それ相応の身なりで来るべきだったのかもしれない。


 自分のコートの下に着ている、いつもと変わらない地味な外出着を見て、私は一人門の前で焦っていた。先日、図書館に行った時と同じ服だ。手土産は一応持ってきたけれど、そんなに高級なものでもなく、ごく普通の焼き菓子だ。

(こういう時には、きっと……王都の一流菓子店で買った流行のお菓子とかを用意するべきだったのよね店)


 あまりに素朴すぎる菓子を詰めたバスケットを見て、なんだかひどく恥ずかしい気がしてしまった。一瞬、身を翻して出直そうかと考えていたけれど、その前に門が開いて、屋敷の使用人が出てきた。

「ディノア様でございますね? お嬢様より、屋敷に案内するよう仰せつかっております。どうぞ、中に」

 丁寧な口調で言われて、「は、はいっ!」と返事をする。こうなってはもう逃げられない。


(それに、アイリーンだもの……お粗末な格好だからって私を笑い物になんてしたりはしないはずよ)

 私は使用人の後に続いて屋敷に向かう。王都のタウンハウスで、こんなに広い庭を持っている貴族はそういないだろう。噴水のある庭は、冬の季節では咲いている花もそうないけれど、生け垣は手入れが行き届いていた。裏や中庭も、きっと驚くほど広いのだろう。屋敷は私が今まで見てきたどんな屋敷よりも美しく、宮殿のような立派さだった。


 玄関扉が開かれて、私はカチカチに緊張しながら屋敷の中に入る。シャンデリアが飾られている大広間くらいあるようなエントランスホールは、空気が冷えていて静かだった。絨毯が正面の金の手摺がついている階段まで続いている。その絨毯を、このブーツで踏むことすらちょっと躊躇われた。私も一応は伯爵家の令嬢とはいえ、うちの領地にある屋敷なんて、この邸宅に比べたら小さくて、まったくパッとしない。なにせ、二百年も前に建てられた古びた城なんだから。


 オロオロしていると、階段の上から「ドリス!」と明るい声がした。顔を上げると、アイリーンが階段を下りてくる。内装の立派さに萎縮していた私は、彼女の顔を見て少しほっとした。アイリーンは爽やかなレモンイエローのドレス姿だ。それが、見とれたくなるほどよく似合っていた。

「アイリーン、お招きありがとう。でも……本当によかったのかしら……やっぱり、図書館にした方がよかったんじゃない?」

 私は駆け寄ってきたアイリーンに顔を寄せて囁く。

「図書館では、人に聞かれてしまうかもしれないでしょう? うちの方が安全よ?」

「そうかもしれないけれど……こんなに立派なお屋敷に相応しい格好なんてしてきていないんですもの!」

「そんなこと気にしていたの」

 アイリーンは私の腕を取って歩きながら、クスクスと笑う。


「笑い事ではないわ。お菓子だって……クッキーやマドレーヌしか持ってきてないのよ?」

「美味しそうじゃない。私の部屋に行きましょう。お茶を用意するわ」

「そんなに上等なものじゃないって、最初に忠告しておくわ。だって、今朝厨房を借りて作ってきたものなんだもの。期待はしないでよ」 

「あなたの手作り!?」

 アイリーンはびっくりしたように私の顔を見る。

「だって、王都には詳しくないんですもの。どこのお店のお菓子が有名かなんて、私は知らないわ」

 肩を竦めると、アイリーンはおかしそうに笑う。

「あなたの手作りのお菓子の方が、ずっと嬉しいわ」

「食べてみても同じことが言えるかどうか、疑問よね」

 私は小さく首を振る。階段を上がり、二階の中央の通路を進む。広いギャラリーとなっていて、片側の大きな窓からは中庭が見渡せた。


「あなたのご両親にご挨拶とかしないでも大丈夫?」

「平気よ。お父様は王宮勤めだし、お母様は領地の屋敷にいるから」

「お兄様は?」

 私が尋ねると、アイリーンは「あっ」と小さく声を漏らして口を噤む。それから、私の方を見てどこか誤魔化すようにニコッと微笑んだ。

「お兄様は離れの部屋から出てこないの。人に会うのが嫌いみたい。だから、気を遣わないで」

 彼女はそう言うと、さらに上の階へと通じる階段を上がっていく。

「図書室もあるの?」

「気になる? それなら、図書室でお茶にしましょうか」

「いいの?」

「いいわよ。きっとドリスは気に入ると思うわ。気になる本があれば貸すから遠慮なく言って」

 

 アイリーンが案内してくれたのは、通路の一番奥にある大きな扉の部屋だった。彼女の後に続いて入った私は、その大きさにびっくりして言葉を失う。吹き抜けになった図書室は、一面書棚に囲まれている。中央に、ソファーとテーブルなどが置かれてくつろげるようになっていた。その上、天井も大きなガラスになっていて、薄曇りの空が見えた。


「夜はもっと素敵なんだけど……」

「今でも十分素敵よ! こんなに大きな図書室があるのに、あんな小さな図書館にどうして用があるの? きっと、ここのほうがずっと本が多いわ」

「残念なことに、ここには娯楽小説があまりないの」

 アイリーンは私の肩を落としてソファーに案内する。座ってから、私は「これ、よかったらどうぞ」と焼き菓子のバスケットを渡す。

「あなたってば嘘つきね。おいしそうじゃない!」

 バスケットにかぶせてあったハンカチを取ると、彼女は嬉しそうに声を上げた。メイドさんたちに手伝ってもらったから、そうみっともない出来映えではない。とはいえ、珍しいものは一つもなく、ありきたりのお菓子ばかりだ。


 図書室にメイドさんが入ってきて、お茶を用意してくれる。カップを取って一口飲んでみると、香りがいいカモミールのお茶だった。

「いい香り!」

「紅茶のほうがよかったかしら?」

「いいえ、好きなお茶だわ」

 私が答えると、アイリーンは「よかった」と微笑む。私がお茶を飲んでいる間に、彼女は私が用意したお菓子を摘まんで頬張っていた。最初に食べていたのは、アーモンドパウダーを使ったナッツのクッキー。それを味わうように食べていた彼女は、お茶を一口飲んでからまたお菓子に手を伸ばす。次に手に取っていたのは、スノーボールクッキー。

 また、お茶を飲んでから、今度はマドレーヌに手を伸ばす。モグモグと食べ続けている姿は、なんだか愛らしくてリスを思わせた。

(気に入ってくれたのかしら……?)

 何も言わずに食べているから、彼女の反応がわからない。


 アイリーンは少し考えてから、今度はドライフルーツをたっぷり使ったパウンドケーキに手を伸ばしていた。それを二口で食べ終えた後は、またナッツのクッキーに手を伸ばす。お皿に並べたお菓子は、瞬く間に減っていた。

「アイリーン! そんなに一度にたくさん食べて、大丈夫!?」

 私はつい心配になって声を上げた。キョトンとした顔をしていたアイリーンは、「あっ、ごめんなさい。一人で食べちゃうところだったわ」と首を竦める。


「いいえ、それはいいの。いいんだけど……もしかして、気に入ってくれた?」

「ええ、すごく! ドリスにお菓子作りの趣味があったとは知らなかったわね」

 そう言いながらも、またパウンドケーキを摘まんでいるところを見ると、お世辞ではないのだろう。私はよかったと、胸をなで下ろした。メアリーのお屋敷のメイドさんたちに感謝しなくちゃ。


「お屋敷のメイドさんたちのお陰よ。私は言われた通りに混ぜただけ。得意でもないし、趣味というわけでもないわ」

 私はカップをテーブルに戻して、パウンドケーキに手を伸ばす。一つ取って頬張ると、確かにおいしかった。だけど、これはちょっとお酒が強めじゃないかしら。

「アイリーン。このパウンドケーキ、よく平気で食べられたわね」

 私は一つ食べただけでも、ちょっと酔いそうだ。けれど、アイリーンは「そう?」と、首を傾げる。

「すごくおいしいわ。レシピを教えてほしいくらいよ? ドリスはお酒は苦手?」

「あまり飲まないもの。わからないわ。でも、このパウンドケーキは酔っ払い向けね」

 私はお茶を飲んで、軽く息を吐いた。口の中にはまだ強めのお酒の香りが残っている。

 アイリーンは口許を押さえて、おかしそうに笑っていた。


「笑ってないで、作戦を考えなきゃ。そのために来たんじゃない」

 私はハンカチで口許を拭ってから、改めて言う。

「そう、そうだったわね……忘れそうになってたわ。楽しいんだもの。こんなふうに、お友達と一緒にお茶を飲むなんて今までなかったから」

 そう言って目を細めるアイリーンの言葉に、私は少し驚いた。

「あなたなら、お茶会の誘いはたくさんあるでしょう?」

 それに、公爵家でお茶会を開くことも多いはずだ。

「あるけど、あまり行かないの。この屋敷にお友達を招いたのも初めてよ?」

「う、嘘でしょう?」

「どうして、そんなに驚くの?」

「だって、私より仲の良い友達なんて、あなたにはたくさんいるでしょう? お茶会をしたりしないの?」

 私は思わず身を乗り出して尋ねる。

「しないわ。あなたの他に友達なんていないもの。だから、今日はドリスが来てくれてすごく嬉しいの」

「私が招かれたのは、すごく光栄なことだったのね……」

 ニコニコしながらお茶を飲んでいるアイリーンを見て、私は「まあいいわ」と肩の力を抜いた。とりあえず、服装やお菓子のことを恥ずかしがる必要はなかったようだ。


「それで、昨日話してた……〝月の舟〟のことよね」

「私やあなたでは、場所が場所だけに正面から乗り込むというわけにもいかないでしょう?」

 アイリーンはカップの縁を撫でながら、考え込むような表情で口を開く。

「そのことなんだけど、私が店で働かせてもらうっていうのはどうかしら?」

 昨晩、考えて思いついた案だ。けれど、アイリーンは無言になってから、「それはダメ」と妙に真剣な顔をする。


「どうして? 疑われずに店で働いている人たちから話を聞けるじゃない」

 それに、女の私たちが娼館に出入りしても疑われない方法は、これ以外にない気がする。

「ドリス……娼館がどんなお店なのか、わかってるの?」

「もちろん、知ってるわ! 夜のお店よ。男の人たちが通ってくる……」

「何をするのかも、ちゃんとわかってる?」

 アイリーンは呆れたように息を吐いて立ち上がると、私の隣にやってきて座る。そしてグイッと寄ってきた。鼻がつきそうなほど顔が近くて、私はびっくりして思わず体を引こうとした。けれど、アイリーンは私のすぐ横に手をついて、さらに顔を寄せてくる。私は押し倒されそうな体勢になっていた。


「わかってるつもりよ……? 行ったことはないけど」

「じゃあ、ダメな理由だって……言わなくてもわかるでしょう?」

 アイリーンのエメラルド色の目が少し怒っているようで怖い。彼女に見つめられることに耐えられず、私は赤くなって視線を逸らした。

「娼婦になろうというわけじゃないわよ! ほら、清掃とか、厨房の手伝いとか、募集しているかもしれないでしょう?」 

「世間知らずなんだから……」

 アイリーンは呆れたように言って、急に体を起こして座り直す。


(び、びっくりした……)

 抱き締められるかと思った。ダイアナとだって嬉しい時とか、驚いた時とか、ギュッと抱きついたりしていたのだから、そういうスキンシップは珍しいことではない。なのに、相手がアイリーンだとどうしてこうも緊張するのだろう。

 胸を押さえると、速くなった心臓の鼓動が伝わっている。

(アイリーンが美人過ぎるせいかしら……)

 多分そうなのだろう。彼女の美貌は男女問わず魅了するのだ。

 私も体を起こして、行儀良く座り直す。咳払いで気まずくなる空気を誤魔化そうとした。


「それなら、私があなたの代わりに行くわ」

 アイリーンがそう言うものだから、私はギョッとして彼女を見る。

「ええっ!? ダメに決まっているでしょう。そんなの!」

「あら、どうして? あなたがやろうとしていたことを、私が代わりにやっても問題ないはずよ?」

「あなたじゃ、売り飛ばされちゃうわよ!」

 私は思わず大きな声を上げる。

「あなたも同じでしょう?」

「私はそんなに大した顔でもないし、魅力なんて少しもないから平気よ」

 今まで男の人に見向きされなかったのがその証拠だ。体型だって薄っぺらだ。お客を取らせたところで大して稼げもしないと店の主人は思うだろう。

(アイリーンなら、あっという間にお店で一番の人気者になっちゃうわ……)

 それに、彼女は有名人だ。貴族や金持ちには顔も知らせている。娼館で働いているなんて知られた日には、大スキャンダルだ。とても、そんなことはさせられない。


「そんなことはないわよ」

「今はお世辞はいいの! わかったわ。やっぱり別の方法を考えましょう。もっといい方法があるはずよ。例えばえっと……私たちの姉妹の一人が幼い頃に行方不明になって捜しているという設定はどう?」

「門前払いされるでしょうね」

 アイリーンにあっさり言われて、「そうよね」と私はがっくりする。やっぱり、あの葬儀に来ていたシェリー=リンドが店を出たところで呼び止めるとかしかないのかも。それで彼女が素直に話を聞いてくれるかどうかはわからないけれど。それも怪しまれて逃げられるのが関の山のような気がする。


「あっ、じゃあ……私が男装するのはどう!? お客の振りをして……」

 私は女にしては背が高いから、厚手のコートを着込んで首にもしっかりマフラーを巻いていればごまかせる。カツラやつけ髭もつけるから、顔も見破られにくいはずだ。

 いい案だと思ったけれど、「無理ね」とアイリーンは首を横に振る。

「どうしてよ?」

 私はムッとして彼女に寄った。


「あなたが少しも男の人に見えないから。すぐに見破られちゃうわ」

「他の方法なんて思いつかないんだもの」

「そうね……そのことなんだけど、他の人に頼んでみようと思うの」

 アイリーンは少し考えてから答える。

「他の人って?」

「えっと……私の知り合い……?」

「もしかして、アイリーンの許婚? 男友達?」

「違うわ。お、お兄様よ……お兄様!」

「お兄様って……体が弱くて引きこもってる?」

 そんな人を娼館に行かせて大丈夫なんだろうかと私は不安になって眉根を寄せる。病人に無理をさせて、体調が悪化するようなことがあれば一大事だ。

「大丈夫。最近は調子も良さそうだし……きっと、私の頼みなら、行ってくれると思うわ」

「確かに、あなたや私が行くよりはずっと不自然じゃないと思うけど……」

 貴族の子弟がこっそり娼館通いをしているなんて、よくあることだ。中には堂々と愛人を囲っている人だっている。


「きっとうまくやってくれるわ。だから、私やあなたは、待っていればいいと思うの。その方が安全でしょう?」

「うーん……そうね。そうかも。でも、あまり無理はさせないでね」

「ええ、お兄様が無理なら、使用人の誰かを代わりに行かせるから。それなら、問題ないでしょう?」

「うまくいったら、あなたのお兄様にもお礼をしなくちゃ……」

「それなら、この手作りのお菓子で十分よ」

 アイリーンはスノーボールクッキーに手を伸ばして、パクッと頬張る。


「そういうわけにはいかないでしょう? もっとちゃんとしたものでなくちゃ」

 アイリーンは喜んで食べてくれたけど、彼女の兄はそうとは限らない。顔を顰められるかもしれない。

「これ以上、嬉しいお菓子なんて、王都のどこにも売ってないわ。特にこのドライフルーツのケーキが気に入るんじゃないかしら。お酒がたっぷり入っているもの」

「それでいいのなら、いくらでも持ってくるけど……アイリーンも気に入ってくれたみたいだし」

「ええ、私も好き。もっと食べたいくらい」

「そんなに気に入ったの?」

 気付けばパウンドケーキの残りはあと一つだけになっていた。他のマドレーヌやクッキーも残りわずか。ほとんどがアイリーンのお腹に入ってしまったようだ。こんなに彼女が甘いもの好きとは知らなかった。貴族の令嬢の大半が、体型を気にしてお菓子類は控えめにしか食べないものだと思っていたけれど、彼女はそうではないらしい。


「ええ、すごく」

 そう言いながらも、アイリーンは物足りないような顔をしてお皿を見つめている。私はクスッと笑って、その皿を彼女に差し出した。

「はい、どうぞ」

「いいの?」

「いいわよ。あなたに食べてもらおうと思って持ってきたんだもの」

「じゃあ、半分にしましょう」

「私はいいわ」


 アイリーンは笑みを浮かべて手に取ったパウンドケーキを半分に割る。「はい」と差し出されたそれを、私はつい口を開いてパクッと食べた。残りの半分をアイリーンは楽しそうに笑って自分の口に入れる。ちょっと行儀が悪かったかもと、私はモグモグと食べながら口を片手で押さえた。


 



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