プロローグ1 舞踏会にて
絢爛豪華な屋敷の大広間で、着飾った大勢の客人たちが談笑しダンスに興じていた。それを、私――ドリス=ディノア――は少し緊張した面持ちで眺める。これでも、一応はディノア伯爵家の娘。貴族たちが集う舞踏会に出席する資格はあるし、社交界デビューは三年前の十六歳の時に済ませている。
ただ、我がディノア伯爵家は由緒正しい家柄ではあるけれど、領地にある古びた屋敷を管理するのが精一杯の落ちぶれ貴族。祖父も父も蓄財や投資の才もなくて、おまけにお人好しで暢気な気質なものだから、騙されることも多かった。なんとか、祖母や母の実家から援助をしてもらって貴族の体裁を保っている。
「今日のこのドレスも、従姉妹のメアリーにようやく頼んで借りたのよねぇ……」
大広間の隅っこのカーテンの影で、私はそんな呟きと共に溜息を吐いた。従姉妹のメアリーはかなり豊満――というか、ふくよかな体型で、背が高くやせっぽちな私なとは体型が違う。侍女のキャサリンがなんとかリボンで締めて誤魔化してくれたものの、袖も襟元もかなりダボダボ。おまけに丈は短くて、フリルの裾飾りで誤魔化したところで足首まで見えてしまっている。おまけに、夢見がちな少女趣味のデザインで、隅っこにいても変に悪目立ちしてしまっているようだった。他のご令嬢やご夫人たちの視線とヒソヒソした声が、なんともいたたまれない。
もとより、私は華やかな社交の場が苦手だ。田舎の領地で、キャサリンや庭師のロッズと一緒に庭仕事や畑仕事でもして、教会のバザーに出す編み物でも作っているほうが性に合っている。つまりは、社交性に乏しい引きこもりの田舎娘というわけだ。それが王都にまで出向いて、舞踏会に参加しているのにはそれなりの理由がある。
恥を掻いてでも、知りたいことがあった。いいえ、知らなければならないことがあった――。
それは、三ヶ月前に行方を絶ち、十日前に王都の地下道で冷たくなって発見された、親友のダイアナ・エリンコットのことを調べるため。彼女が亡くなった理由を、私は調べなければならない。
彼女から最後の手紙を受け取った私の義務であり、責務だと思うから。
エリンコット男爵家の令嬢であったダイアナと私は、同じ女子寄宿学校に通っていてルームメイトだった。気の合う親友で、小説愛好会の同友。私は彼女の書く小説が好きで、一番のファンだった。いつか、本を出版したいと話していたダイアナ。その夢も近々叶うかもしれないと、心弾むように手紙に書いて送ってきた。そのダイアナが、自殺などするはずがない。なのに、地下道で亡くなっていた彼女の死を、王都の警察は自殺と断定し、新聞の片隅に載った記事にもそう書かれていた。だけど、私はそんな結末に納得などしていない。絶対に、何かある。死にたくなるほどの悩みを抱えていたのだとしても、それをこの私に一言も打ち明けないなんてことはないはずだ。自惚れではなく、私は彼女にとってそれくらい信頼された友人であったと自負している。
険しい顔になっていた私は、「いけない、いけない」と皺の寄っている眉間を手袋をはめた手で軽く揉んだ。楽団がワルツを演奏していて、ホールの中央では紳士や淑女が楽しげに踊っている。今の私は、とりあえず舞踏会に出てきて、適当な結婚相手を捜している落ちぶれ貴族のご令嬢。無垢で善良な貴族令嬢を死に追いやった悪辣な殺人鬼を捜している探偵や警官ではない。怪しまれては、警戒されてしまうじゃない。
この場にダイアナがいたら――。きっと、推理小説みたいだと笑うのかな。
彼女がなくなってまだ十日。胸の痛みは消えていない。むしろ、思い出すたびに苦しくて辛くなる。どうして、救えなかったんだろうと。私が暢気に田舎の屋敷に引きこもっている間、ダイアナはきっととても怖ろしい事件に巻き込まれていたのに。それを知らずに過ごしていた自分にひどく腹が立つ。
もし、少しでも彼女の異変に気付けていて、手紙を受け取った時点ですぐに王都に向かっていれば。アイアナは死なずにすんだかもしれない。私は小さく首を振る。違う。かもしれない、じゃない。死なずにすんだのだ。ここにいる誰もが、男爵家の令嬢一人が亡くなった事件など、もう忘れてしまったように浮かれている。ダイアナも社交的な性格ではなかったから、友人はそれほど多くはなかっただろう。それでも、心を痛める者がいてもいいはずなのに。なんだかひどく悔しくて、私は唇を噛む。
ワルツが終わると、若い男性たちが急に扉の近くへと移動していた。大広間に入ってきた令嬢を取り囲み、我先にと挨拶をしてダンスに誘っているようだ。他の令嬢や年配の女性たちは扇を広げて密かに噂話をしている。気になって見ていた私は、飲み物のグラスを運んできた侍従を呼び止めた。「あの方、どなたでしょう?」とさりげなく尋ねてみる。
「ああ……あの方は、ディオノーク公爵家のご令嬢、アイリーン様です。あの方がいらっしゃる舞踏会はいつも人気なのですよ」
侍従もどこかうっとりした様子で令嬢のことを見ている。「教えてくださって、ありがとう」とお礼を言うと、彼は一礼して離れていった。
「ディオノーク公爵家……」
田舎貴族の私でも、公爵家の名前くらいは知っている。それも、ディオノーク公爵家は、国王陛下の母君でいらっしゃる、王太后様の生家であり、王家とも近しい大貴族。しかも、莫大な資産家としても知られていた。私は「はぁ……なるほど」と、閉じた扇を口許に当てて呟いた。家柄は申し分ない。それこそ、王太子殿下の妃候補でもあるんじゃないかしら。婚約者の座を獲得するのは簡単ではなさそうだ。
しかも――。
私でもディオノーク公爵家の令嬢が、王国随一の美貌の持ち主とは噂で聞いたことはあるけれど。
あの人がそうだったのかと、私は離れた場所から男性たちに囲まれている令嬢を眺める。扇で品良く口許を隠して男性たちの話を聞いているかの令嬢は、薄いレモンイエローと白を基調としたデザインのドレスを着ていた。袖や襟元は金色のリボンや刺繍で飾られていて、胸には薔薇のコサージュをつけている。結い上げた髪にも、宝石をあしらった薔薇の髪飾りがついていた。首から胸元はレースで隠されているのがまた、清楚な雰囲気を漂わせていた。黒のチョーカーの中央には、ゴールデントパーズの蝶の飾りがついている。
妖精という言葉がぴったりで、女の私から見ても思わず見とれてしまうくらいに美しい。男性たちが高嶺の花と分かっていても、夢中になるはずだ。恋をしているという、むしろ崇拝しているような有様だ。
でも――あの方、目が笑ってないのね。
完璧な微笑みなのに、眼差しはどこか冷めているように思えるのは私の気のせいだろうか。ここにいる誰も見ていないようで。それが余計に神秘的に思えた。
不思議な人。自然と目を惹き付けられる。
ふと、アイリーン嬢がゆっくりと振り向く。その視線が自分に向けられたのがわかり焦って窓の外を見る。あんなに綺麗な人の目に、今の野暮ったい自分の姿をあまり映してほしくはない。周りにいた男性たちも彼女が私を見ていることに気付いたようだ。
ほら、他の人たちもこっちを見るじゃないの!
目立ちたくないし、誰かに話しかけられたいわけでもないのに、メアリーのドレスのおかげでとんだ赤っ恥じゃないの。とはいえ、無理を言って借りたドレスを悪者にはできない。
「私が自前のドレスを用意できないのが悪いんですもの……」
独り言をこぼして、「はぁ~」と溜息を吐く。窓のほうを向いているけれど、ガラスにはしっかりと小声で話して嗤っている男性たちの姿が映っていた。きっと、笑い物にされているんだろう。ただ、アイリーンだけは無言で嗤っていなかった。その時、チラッと見えた表情には不快さが浮かんでいる。私みたいな田舎者が同じ舞踏会に参加しているなんて、高貴な御姫様には耐えがたいことなのかもね。
私は額に指を当てて、「ダメだわ……嫌な子になりそう」と呟いた。アイリーン嬢には何一つ非はない。周りの取り巻きたちがちょっと小馬鹿にして嗤っているだけだ。
私は大広間を見回す。ちょうど後ろ側の扉から出て行こうとしている男の後ろ姿を見つけて、私はすぐに足を踏み出した。年齢は二十歳過ぎで、痩せ型、長い金髪の青年。肩を抱いているのはどこかの令嬢のようだ。少し迷惑そうな顔をしている令嬢に話しかけながら、彼女を大広間から連れ出そうとしている。
私はあの男を知っている。
「カルマン・アンダーソン……」
こんな舞踏会に恥を忍んで参加したのも、あいつに会うためだ。ダイアナが亡くなってまだ十日ほどしか経っていないというのに!
そう、あいつはダイアナの婚約者だった男。銀行家のアンダーソン家の次男でベイズモア伯爵の甥。
いつもニヤけ面をして、女性の尻ばかり追いかけている遊び人だ。もちろん、ダイアナがあんな男を好きになるはずもなく、婚約は両親が決めたものだ。私なら、とっくにあんな男は見限って、婚約など破棄し、家を出ていただろう。けれど、ダイアナは両親に心配や迷惑をかけたくはないと、この婚約を受け入れていた。男爵家も金銭的な問題を抱えており、アンダーソン家の支援を受けていたようだから。
私が一番、怪しんでいるのはあの男だ。あの男はダイアナを目障りに思っていて、愛人が多くいた。婚約も仕方なくしてやったのだと、吹聴して回っていたような恥知らずだ。あいつなら、ダイアナを死に追いやるくらい平気でするだろう。犯人でなくても、誰かに依頼したり、そそのかした可能性はある。
私は拳を握り締めて、急ぎ足で後を追う。




