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【アップ】男山教会2022年10月30日礼拝説教/『思記』〜「湖畔の記(き)より

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782


【カクヨム】

https://kakuyomu.jp/my/works


【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=fq93Dr4cATE&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12772699168.html

(ブログを見てくださると聖書と歌詞も閲覧できます)


前奏

招詞 哀歌3章22~25節

詩 編 歌 24番(1節)

開 会 祈祷

主 の 祈り

十戒・祈祷

子ども説教

子どもと親のカテキズム問7

「聖書の語っていること」

こどもさんびか

たたえよ、このひ[改92(5節)]

牧 会 祈祷

聖書

ローマの信徒への手紙1章8~17節(新P273)

イザヤ書61章6~11節(旧P1162)

説教

「福音に生きる教会

~キリストの義と賛美の衣を着て」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 262番(1節)

みことばの交読文

コリント二5章19~21節

聖餐式

感謝のささげもの・祈祷 

頌 栄 539番

祝 祷

執り成しの祈祷

報 告



2022年10月30日 礼拝説教 中心聖句


福音には、神の義が啓示され…初めから終わりまで信仰を通して実現される…「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです

ローマの信徒への手紙1章17節


わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。…

イザヤ書61章10節  


はじめに

主の宣教50年を記念する「今日」、主の恵みの聖餐を共に感謝したい。

「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」とは、使徒パウロ自身、ローマの教会に向けて、感謝の言葉を伝えるもの。主の聖餐も、過越の食事という感謝の食事の場で制定された。それは、出エジプトの御業に代えて、主の贖いの御業を感謝して覚える時とされたことを意味する。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」(出エジプト12章14節)と、主が、エジプトの国で、すべての初子を撃たれたとき、イスラエルの民が、過越の犠牲を屠ることによって、その災を過ぎ越すことを定められた(出エジプト12章21節)。わたしたちのささげる礼拝は、神と人の間の唯一の仲保者となられた、「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献」(ヘブライ13章15節)げるもの。

「あなたがたの信仰が全世界に伝えられているから」とは、ただローマ帝国の首都であるだけではなく、全世界の主、キリストの業において。パウロ自身、イスパニア訪問を望み、その途中、ローマに立ち寄ることを希望した(ローマ15章24節)。地上の教会おける伝道の働きに完成はない。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださること」こそ、パウロの祈りと希望。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいから」「互に持っている信仰によって、励まし合いたい」から。「“霊”の賜物」とは、「キリストの賜物」(エフェソ4章7節)。キリストの賜物が分け与えられることにおいて、キリストの教会を、霊的に健全に建て上げることに共に仕える。教会の諸組織(大中会、小会と執事会、伝道所委員会等)もそのためにある。

「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい」ことは、ローマに行くことを今日まで何回も妨げられながら、「ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任」があること、「ローマにいるあながたがにもぜひ福音を告げ知らせたい」こと。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だから」。パウロは、同胞ユダヤ人の救いを祈り(ローマ9章)、異邦人伝道者として、ローマ教会に行くことを切望する。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリスト」「ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」(コリント第一1章22,23節)。「福音には、神の義が啓示され」「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現」する。「『正しい者は信仰によって生きる』(ハバクク2章4節)と書いてあるとおり」。律法(功徳・善行等)によってはだれ一人救いに至ることはできない。キリストの満たされた義を信じるのみ。これが自己吟味の要点(コリント二13章4節)

おわりに

キリストの義と救いにあずかる信仰は、「救いの衣を着る」と譬えられる。聖餐の礼典を共にする「今日」、キリストの救いと一致と伝道を祈り求めたい。



思記〜『湖畔の記』より


皆、この世で感動が続かない事を何処かで知って居る。感謝も続かない事をそれ迄の経験により知って居るのか。だから皆それを諦め、元の穏健の日々に戻る。そして何も無いかの様な、退屈で、罪に誘惑され易い、そんな無謀・無益な生活に戻るのである。しかしそこでこそ信仰の強さを祈り願い、神様に縋り付き、真っ当な信仰生活から離れないよう努めねば成らない。それは連続した信仰生活であり、罪と誘惑との戦いに在る。人はその退屈からとかくその罪・誘惑に負け易く、それで良しとして仕舞う弱さを持つ。その弱さをなんとか信仰の土台に依り強さに変えて、神様に喜ばれる人に成れるよう自力でも闊歩せねば成らない。その闊歩は文字通りに大胆で良い。大胆且つ豪胆に信仰に歩み、神様のもとに立ち返れる事だけに一途と成り、神様と自分との間だけに於いても信仰に歩み続けられるよう努力せねば成らない。その後の事は、その後に備えられる。先ずはそう信じる事だ。


他人の批評を言う際には理想を描くが、いざ自分がその段に立って見ると、所詮は岡目八目、似た様な事をして居る。周りの時勢、人間の流れ、それから来る刺激や粛清のかど、そんなものを矢張り恐れて仕舞い、保身に徹する余り、似た様な事を仕出かすものだ。理想は理想、現実は現実。この言葉が活きるのもそうした分野に他成らない。自分の部屋の中だけで描いたその理想を、世間で貫き通せる者はそう居ない。その独房の中では世界を転覆させて見たり、殺人すら犯して居るのだから。勝海舟『大勢順応』を読み。


新しい言葉を書いて覚えるのも良いが、書く方に気が集中してしまい、覚える事が疎かに成る…こんな経験を君もした事があるだろう。俺はそうだった。だから読んで覚える、見て覚える、感覚で覚える、その時のタイミングを利用して覚える、この方が幾分効果的な事が多かったものだ。子供の頃に見た景色や出来事は、書いて覚えたものには無いだろう。それが今でも心に残って居るのだから、その事の証明の一には成ろう。又どうしても書くのが好きなら空に書いて覚えても良い。それなら感覚で覚えるのに近いからである。

言葉などは自分で造れば良い。そんなの通用しない・意味が無いなんて言うなら、それを通用するように仕向けて行けば良い。言葉は元々、その点から始まって居るのだから。既成のものに頼り過ぎる現代人。これでは進歩が無い。進歩とは常に成長し続けるものなのだ。人間と同じ様に。見知らぬ難語の読み方も、君はそれを認めた覚えが無かっただろう。誰かが造ったその言葉と意味と読み方に、君はその時、従わされて居るに過ぎない。同じ事をやれば良いのだ。誰かに出来て君にそれが出来ない、なんて事は有り得ない。騙されちゃいけない。人は全て平等、ならばそこから出る知恵や文化、発展、成長も平等に在る。この点を本当に誤り易い現代人ながら、常にその事を心に留め、正しい行動をして行かなければ成らないのである。


子供の鋭さには言い返せない時がある。この鋭さが作家にとっても大事なんだ。


信仰に於いてはそれほど多い知識は要らない。ただ神様に喜ばれる人間に成る事、その上で信仰生活を全うする事、それだけを思い、努力すれば良い。知識は時に傲慢を呼び、勘違いを生み、頑なを呼ぶ。それは単純に、子供が持つ純粋から離れるものであろう。


自立・独立も、度を過ぎれば我儘に成る。また度を過ぎた確信も、時と場合により傲慢に成る。


幕末…それ以前から続いて居た事だが、日本国内だけでごちゃごちゃ紛争が起きるならまだ良い。しかし外国が入って来た今となれば、話は全く別になる。日本そのものが傀儡政権・傀儡国家と成り、日本と言う国が無くなるのだ。戦国時代の世ならまだ日本を舞台にし、日本と言う国を存続させようと皆は思って居た。その土台そのものが無くなるのである。これは時代を問わず、日本国内と外とに目を向けた普遍的な論説に在る。


イスカリオテのユダを英雄視して、彼が居たからこそイエス様が十字架に付けられ、人類救済計画が起きた、だからユダはその計画に最も貢献した人物だ、だからからこそ英雄である…その様に言う牧師や学者が居ると言う。しかしN・K牧師はこの前提が大間違いだとして、譬えユダが居なくてもイエス様は初めから十字架に付けられる人生を歩まされて居たと言い、その人裏切りの人物がユダじゃなくても、ローマの誰かの手によって行われた、必ずそう成って居た、と言う。しかしやはり思う。その他の誰でもなく裏切りの人物がユダだったのだと。これはタラレバの話と成り、歴史に「もし」は無い、その言葉に行き着くのである。詰りそこに解説者の主観が入り、間違って居るかも知れないと言う曖昧が生まれるのである。この運命論の様なものに成るが、ユダがその裏切りの人物に選ばれたのは、これは何の仕業か。人には自由な選択肢が与えられて居ると言うが、それは全員に言える事に在り、その選択肢を与えられるのは神様であろう。神様は全ての物事を知って居るのではなかったか。それならばユダの裏切りも当然その計画の内に在り、知って居られた。これを言えば、エデンの出来事も全てそうである。しかしユダは、イエス様に悪魔と言われた。これをどう解決すれば良いのか。消化すれば良いか。これはユダにこそ当てられる、切羽詰まった、目の前の出来事に成ろう。どうでも解決せねば成らない、信仰に於いては重大な問題と成る。ユダも使徒だったのだから。ユダも一個の人格を以て神様から生まれた。その運命をあの様な形で計画されて居たと成ると、本当に「生まれて来ない方が良かった」と成ろう。その立場の挽回はどう成るのか。他人事ではない。全ての人に、このユダのイエス様への裏切りが降り掛かる。その運命を背負わされて居るとやはり思うのである。敬虔な牧師でも、あのユダに成る事は充分にある。神様を何度裏切って来たか。その人生で信仰から外れた事があったか。それを思えば(思い当たる節が在るのなら)それだけで充分である。結局、ユダの運命、命を説明する事、立ち位置を説明する事、ユダの存在全てを解決する事、説明付ける事は、人間には出来ない。それは神様とイエス様の言われた事、その御心に於いて、また奥義に於いてしか解決されず、説明付けられないものに在ろう。あの使徒ですら、ユダにはその役割が与えられて居たと言ったのだ。人間があれこれ詮索し、その解決・釈明・説明を図るものではない。ユダを裁く者は、既に他人を裁いて居る。その立場に在る。特定のクリスチャンは人を裁きたがる。独善的に成り、自分は完全な正義で、他人は完全な悪魔だ、その様に決定付けたがる習癖を持つ。それは人間の習癖である。完全にその時点でユダと言う人を見捨て、自分がその側に立って居らず、自分だけは正義の側に立って居る。だから自分とユダはまるで違う、人間であるのにまるで違う、その上で他人を徹底的にこき下ろし、裁き、人が皆以て居る罪の部分、その悪の部分だけをユダの中から抽出し、それだけを見て裁き続ける。これは歳を取った人間が得てしてよく遣る事だ(今では若い人も先回りしてこれをする)。頑なである。自分はどうなのだ?聖書に書かれて在る事を百パーセント理解しその通りに語ると言うが、本当に理解し、表現し、その意味が解って居るか。奥義を知って居るか。間違う人間だ。人である以上、それは言えないものになかろうか。どの場合でも人を裁くべきではない。その裁きは神様に任せるものである。そしてただ自分は信仰に於いて正当を尽し、その為だけに努力し、一途にそう成れるよう祈り願うのみである。神様に正直を以て本能を以て縋り付き「自分もイエス様を、神様を裏切らない様にして下さい」と「そうして欲しい!」と本気で祈り願うのみであろう。


自分に就いてすら説明できない人間が存在して居る事。これを思う上では、神様が存在して居る事を信じる事、それが最も合理的で論理的な考えであると自ずと知るであろう。それをまだ知らないと言う人は、ただその事に就いてきちんと考えて居ないだけである。


この現実の世界がどうやって存在したか?これを疑問に思う人が居る。この「人」と言うのは全ての人であろう。詰り今生かされて居るこの現実が、どうやって始まったのかと言う事である。今「始まった」という言葉を遣ったが、人は大抵この理論を考える時、その始まりを考える。ビックバンもそうである。しかしその始まりが如何なるものか、それを人は知らない。人は初めから存在した者では無いからである。もし無から存在できるなら、人はおそらく、自分の生まれる前とこの世を去った後の事を知って居るだろうか。例えば何かの目的を持ってこの世界に誕生した、それも自分で誕生した、その様に言えるだろうか。セルフクリエーションと言う言葉がある。詰りそれは創造できる者がこの世界を創造した…とするその者とは人間である、この世に存在する生き物である、その様な考え方だ。しかしそれには当然矛盾がある。先に話した無から存在する者でなければそれは有り得ない事。人間はその存在に値するものか?自分の事を思い出してみれば良い。自分がどうやって生まれたか。生まれる前の事を知って居たのか。目的を持って自分でこの世界に生まれたのか。それを答えられなければ、このセルフクリエーションは成り立たない。そして自然により始まりがあるこの世界と言うのも成り立たない。その自然の始まりを、人間は説明できないからだ。説明できないものをどうやって立証すると言うのか。そして三つ目の答えは、永遠に存在する何者かがこの現実・世界・生き物を創造されたと言う事である。この何者かと言うのが人の知る神様である。唯一神である。これをクリスチャンはキリスト教の神様と知る。その様な人知を超えた存在が無ければ、この世界は成り立たない、この論が最も有力だろうか。その理由は、先に話した二つの論を説明できてしまうからだ。セルフクリエーションも、始まりがあったこの世界も、永遠に存在する神様が居て下されば、その二つとも創造により成り立つのである。詰りセルフクリエーションも始まりがある世界も人間の創造が生み出した、と言う事に成る。人間を創られたのは神様である。だからその二つの論も神様の御業から来て居るのである。人間を通してその二つの論が生まれたと言って良いだろうか。


今日、またウォーキングへ行った。その時、橙色の空がとても美しかった。まるで懐かしく、天国に居るかの様な、そんな暖かさを知り、あの時に見知ったレトロを彷彿させてくれる様な、そんな嬉しさが漂って居た。あの様な天気がずっと続けば良い、そんな事も思いながら歩いて行ったのだ。周りに居る人達もその天気・空気に喜んで居たのか、何か嬉しそうで、いつもよりウキウキ・ワクワクしたような、そんな雰囲気に在るように見て取れた。本当に不思議な天気だったのだ(二〇二二年一〇月三一日《一八時一四分》記)。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教1 「まず第一にしなければならないこと」

https://www.youtube.com/watch?v=q0lc_w0zV-I&t=1s


「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

https://www.youtube.com/watch?v=nfQPrZUPbn0


星野富弘さん「特集 詩画作家・星野富弘 ②」

https://www.youtube.com/watch?v=E2x2A4S87Vo


使徒の働き(61)―ベレアでの伝道― 使徒17:10~15

https://www.youtube.com/watch?v=FkenCcHvxKg


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)





少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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