九段 苦しみの先㊄
夜の帳が下りている。
安倍家の池にある要石は再び封印され、池には水が戻っていた。美しい月を反射する水面の下を、鯉達が悠々と泳いでいる。
現世と地獄の門は閉ざされ、今は穏やかな時間が流れていた。
「あぁ、もうこんなもんで良い。本当に毛が抜けてしまいそうじゃ」
「もう少し綺麗に整えようよ。女の子でしょ!」
蔵では、おサキの毛を千代がブラッシングしていた。
おサキは毛の先まで神経を張り巡らせ、ナデシコを追跡した所為か、ハリネズミのように逆立ったまま、元に戻らなくなってしまっていた。それを、千代と楓が、どうにか梳かして撫で付けようとしている。
「おサキちゃんは本当に良く頑張りました☆」
千代は感謝の気持ちも込めて、おサキの毛を繕った。
「尻尾にリボンを付けてみたけど、どうかな? かわいいでしょ?」
「わぁ、いいねいいね!」
「あぁん? 何を勝手な事をしとるんじゃー!」
楓が、尾っぽの付け根に赤いリボンを結び、千代の共感を得た。
お気に召さないおサキは、立ち上がって自分でリボンを取ろうとしたが、口が届かず、その場でグルグル回り出すので、二人が笑った。
「ふんっ。……所で、もうこの度の危機は去ったのじゃ。夜も遅い。そなた達は帰っても良いのだぞ?」
諦めて座布団に座り直し、おサキが言った。
「そうなんだけど。さくやちゃんのこと、まだ心配だし……」
「もう少しだけ、様子を見てから帰ろかなって」
二人は、さくやがいる屋敷の方を、心配そうに見て言った。さくやは疲労で倒れ、そのまま安倍家に運ばれ休んでいる。
「ならばこんな所に居らんで、近くに居てやれば良いではないか」
おサキがやれやれと言った。
「だってぇ……尊さんが看病してるし……。わたし達は……ねぇ?」
千代が頬を染めながら言い、楓に同意を求める。
「お邪魔かなって……。おサキだって、遠慮してるからこんな所にいるんでしょ?」
楓も赤くなりながら、そう答えた。
おサキも、さくやと尊の事を想うと、微笑ましい気持ちになったが、同時に溜め息が出る。
「ふん。まったく……あの二人には気を揉まされるのう!」
千代と楓は顔を見合わせると、自然と笑顔が溢れた。
「ぅう……」
さくやが目を覚ますと、和室の天井が目に入った。壁は漆喰で障子に襖。誰かが着替えさせてくれたのだろう、白い寝間着姿で、畳に敷かれた布団に横になっていた。
自分の家ではないが、さくやにとっては、とても落ち着く空間だった。
「さくや、目が覚めたかい?」
枕元にいた尊が心配そうな表情で、さくやの顔を覗き込む。
「尊さん……ぅ」
さくやは義務感に駆られ起きようとしたが、もの凄い疲労感に襲われ、脳が全力で布団から出たくないと叫ぶのを感じた。
「まだ夜になったばかりだよ。ゆっくり休むんだ。お家の人には連絡してある」
尊がさくやを布団に留める。さくやは脱力すると、また吸い込まれるように眠りに堕ちそうになった。
「……ぁっ」
しかし、さくやは突然、怖くなった。
眠ってしまうと、ここを抜け出して、また一人真っ暗な地獄に戻されるような恐怖を覚えた。
「尊さんっ」
さくやは思わず布団から手を伸ばす。その手を尊が素早く取って、優しく握った。
さくやの手に、尊の手の温もりが伝わる。
これなら目を閉じても、眠ってしまっても「自分はここにいる」と自覚できる気がした。
「さくや。大丈夫、安心するんだ。僕が側にいるよ……!」
尊の声を聞き、さくやはほっこりする。
同時に、胸の内に秘めた想いが溢れそうになる。
長年、押し留めてきた恋心。
「……」
着物が乱れていて、谷間が覗いてしまっていた。この胸は、まるで想いが具現化するかのように、一緒に成長してきた。
苦しい。
全て曝け出してしまいたい。
夜、好きな人に手を握って貰い横になっている。そんな状況では、とても我慢できない。
「尊さん……」
さくやは疲労に負けじと目を開ける。
「何だい? さくや」
尊がさくやを見ている。
さくやはまじまじと尊を見つめた。
「私……小さい頃から、ずっと……ずっと……貴方のことが…………」
夢を見ているかのようだった。
そう思える程、心地の良い気分。
「好き―」
これにて完結です。機会があったら続きも書きますが、今のところは未定。
これまで、お読み頂き、ありがとうございます。
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