一段 木曜日の習い事㊂
自宅に戻ったさくやは温かい湯船に浸かった。
「極楽♪ 極楽♪」
使い古された言葉がつい口から出る。古風な事を好むさくやは、お風呂に入るのが好きだった。
「でも尊さん、誰と話していたんだろう……」
縁側には他に人はいなかった。あの家にはさくやの稽古の先生も務める、尊の母親と祖母がいるが、あの声はどちらでもない。
「なんだか様子が変だったような……」
尊は何時もさくやに優しい。そこが好きなのだが……。
――貴方の為なら私、なんでもできる……!
「って私、また尊さんのこと考えてる……っ」
さくやは逆上せ防止に、顔にお湯をパシャリと掛けた。
しかし、先程はテンパっていて気付かなかったが、思えば何時より神妙な面持ちに見えた。付き合いの長さは伊達ではないから分かる。
―― 僕が心中する覚悟で奴等を封じ込めてみせる―
外は風が強くなっていた。お風呂場の窓ガラスがガタガタと揺れる。
それがさくやの不安を煽った。
――さようなら……さくや―
さくやはまだ体が温まっていなかったが、お風呂から上がった。脱いだばかりの服を着て「ちょっと安倍さんの家に忘れ物!」と家を出る。
杞憂ならそれでいい。
しかし、さくやは胸騒ぎを感じた。
「尊! この気配、やはり間違いないっ!」
「ああ! 残念ながら、その時が来てしまったようだね」
喋る狐と尊は屋敷の庭に飛び出した。強風が松や桜の木を揺らし池に細波を立て、雅な庭の雰囲気を殺伐としたものに変えている。
尊は着物の袖から呪符を取り出した。
「悪霊は異界を封じた地であるこの町、その中心であるここから現れる……!」
町に吹き荒れる強風は、奇妙な事にこの屋敷を取り囲むように吹いていた。その中央、丁度池の真ん中で稲妻が走る。
「く、来るぞ!」
狐が叫んだ。
稲妻は池の水面に亀裂を入れた。
そして、そこから餓者髑髏を思わせる怪物が姿を現した。
「こ、これが……」
狐と尊が息を呑む。
「悪霊……!!」
さくやは強烈な向かい風の中、安倍家へ走った。
「もうっ、なんなのこの風!」
家に近付く程、不思議と風が強くなる。ミニスカートがめくれ放題になるが、さくやは諦めて全力疾走した。
時刻は逢魔時と呼ばれる不吉な時間帯。さくやは益々、不安になった。
木花家から安倍家に真っ直ぐ向かっても、まず裏手に出る。さくやは今度は表口から入るべきだと思ったが、垣根の向こうに白い大きなものがいるのが目に入る。
「え!?」
それは、十メートルは有に超える骸骨。目を疑うような光景だった。
「なに……あれ……」
さくやは恐怖で体が固まった。
しかし、巨大骸骨と対峙するように、尊と昼間追い掛けた狐が庭にいるのが見え、さくやは咄嗟に裏口を使った。
「み、尊さんっ!!」
「さくやっ!?」
「これは一体……!?」
「直ぐに離れろ! ここは危ない!」
さくやを見るなり尊が叫んだ。
「オオオオッハアァァー!!」
餓者髑髏が奇声を発し、大きな腕を振り回す。もの凄い怪力で、地面が割れ、塀が叩き壊される。さくやは恐怖で腰が抜けた。
「くっ、陰陽魔導陣―五芒呪縛!」
尊が手にした札を掲げて術を唱えた。星マークが札に浮かぶと、餓者髑髏に大きな魔法陣が、浮き輪のように装着される。
「アア!?」
餓者髑髏は魔法陣に身動きを封じられ困惑した。
「……!??」
「さくや、こいつは悪霊と言ってね。異界に棲む化け物さ!」
「悪霊っ!?」
「そうだ。そして陰陽道を受け継ぐ僕の家系は、コイツらを封印する役目を担っているんだ!」
訳の分からない状態のさくやに尊が説明するが、やはり訳が分からない。
「君はこの事は忘れて家に帰るんだ! 頼む! そしておサキ、君も行くんだ! 巫を探して来てくれ!」
言われた狐は蔵に入り、昼間見た紅入れ貝を咥えた。それを首に巻いた風呂敷に器用に入れると、さくやの方へ来る。
「さあ、小娘立て! 敷地から出るのじゃ!」
「あなた喋って……!? ただの狐じゃないの!? おサキ?」
「ガアアアッ!!」
悪霊が魔法陣から抜け出そうと、もがき出した。
「君達が出たら敷地に結界を張る! さぁ行け!」
新たな呪符を取り出し尊が叫んだ。
「すまん尊……必ず戻る!」
「ま、待って!」
狐が走り出そうとしたので、さくやは慌ててその尾っぽを掴んだ。狐―おサキが「ぎゃ!」と言った。
「なにをするんじゃ!?」
「なんだか分からないけど、だめだよっ。尊さん一人を置いて行くなんてっ!」
「わしらではどうする事もできんのじゃ! 悪霊に対抗できるのは、巫だけなのじゃ!」
「カンナギ? それはどこにいるの!?」
「それが分からぬのじゃ! 素質を持つ者だけがこの天貝紅の口を開き、力をその身に賜る。ああっ、直ぐに見付け出さねば!」
「素質ってどんな……!?」
「さぁな……わしが長年旅をしても見付からない程の異能じゃ……。少なくとも、そなたのような小娘にはない……!」
「その貝の口から光が見えたとかじゃだめ……?」
「その位分かり易ければのう……。じゃが、わしとて一度たりとも天貝紅が輝いた所など―」
「私……見たよ……! 昼間、蔵にあったそれが光っているのを見たの……!」
「なんじゃと!?」
その時、悪霊が凄まじい波動を発した。強風が吹き荒れ、さくやはミニスカートを押さえる間もなくおサキと共に宙を舞う。
「きゃああああ!!」
「ぬぁああああ!!」
「くっ、悪霊め……! 想像以上の力だ……っ!」
尊が膝を突いた。
吹き飛ばされたさくやが顔を上げると、悪霊を封じていた魔法陣に、ひびが入っているのが見えた。今にも抜け出してきそうだ。
「尊さんっ!」
「さくや……僕は大丈夫だ……! 早く逃げろっ!」
「尊さん……っ」
悪霊を押さえ込むのには余程、力を使うのだろう、尊は苦しそうだ。
気付くとさくやの目の前に、おサキが落とした天貝紅があった。さくやは縋るようにそれ拾う。
「お願い、また光ってっ!」
貝殻はうんともすんとも言わない。
「巫……。なんだか分からないけど、私に、私に……」
ついに魔法陣が破壊され、悪霊が自由になる。悪霊は怒り狂って尊に向かった。
さくやは切に願う。
――好きな人を―
「尊さんを助ける力を下さい!!」
その瞬間、天貝紅の口から強烈な光が放たれた。
「なっ!?」
「!?」
突然、周囲が明るく照らし出され、おサキも尊も驚いた。悪霊も足を止める。
「まさか、この娘に本当に素質が……!? まぁよい、さくやとやら! 行け! 巫、変身じゃあ!!」
「は、はい!」
おサキに言われ、さくやは光を放つ天貝紅を開いた。
変身の口上が口を衝いて出る。
「巫、舞初め―春うらら!!」
さくやが唱えた瞬間、天貝紅から眩ゆいばかりの光が全て解き放たれる。
さくやは光の世界いた。
すっと衣服が溶け消える。
「きゃあっ!」と、とっさにカラダを隠したが、不思議な力が彼女の手足を優しく広げさせる。
さくやは生まれたままの姿を曝け出すように、宙に浮かんだ。
すると、髪が平安貴族のように長く伸び、一部が結われ、髪飾りとかんざしで彩られる。
光が足を包み、足袋と下駄を履く。
輝くの衣を纏うと、それがミニスカート丈の桜色の振袖着物に変化し、菫色の帯が締められる。
唇をなぞり紅を差すと、天貝紅は帯に下げられた。
光の世界が消え、さくやは新たな姿で地に舞い降りる。
「色めく桜花! ナデシコ。参ります!!」