一段 木曜日の習い事㊁
「狐だ……!」
それは道路の先の草むらから、ふらりと現れた。あちらもさくやに気付いたらしく「しまった!」と言うように一瞥すると逃げて行く。
「ま、待って!」
さくやは自分の行動が子供っぽいとは思ったが、思わず追い掛けた。野生の狐が珍しい事もあったが、橙色の艶やかな毛を纏う細身の体に、筆のような尾っぽを持つ狐の姿は、雅やかで惹かれるものがあった。
「おっとっと、見えちゃう見えちゃうっ」
学校指定のスカートはミニ。さくやは裾に手を当てながら、あくまでお淑やかに後を追う。
これ以上の疾走に迫られたり、森にでも入られたらさくやも諦めるつもりだったが、狐は意外にも家々が立ち並ぶ路地へ入って行く。
――この場所って……!
曲がり角を出ると、狐の太い尾っぽが垣根と塀の間に消えるのが、かろうじて見えた。垣根の向こうには大きなお屋敷がある。
「うそ……尊さんの家だ」
ここは家の裏手。小さい頃、自分もこの裏口を通って庭に入った事がある。
さくやは今日、来る予定ではなかった安倍家に、導かれるようにやって来て、不思議な縁を勝手に感じた。
「尊さん、帰ってるかな……?」
――もしかしてあの狐は、縁結びの神様とかかもっ!
淡い期待をしながら、さくやは何気く庭を覗き込む。すると蔵の戸が開いているのが目に入った。
――もしかしてさっきの狐、中に?
今度は心配になったさくやは、まだ行けると思って隙間に体を入れる。成長した胸が垣根を擦ってしまったが、何とか通り抜けた。
「―やっぱり君も不穏な気配を感じ取ったんだね」
「ああ、それで急ぎ戻って来た。しかし、すまん。わしの力が及ばず、契りを結べる者は見つけられなんだ」
急に尊の声がして、さくやはドキリとした。縁側で誰かと話しているらしい。相手の声は女性のようだが、年配者を感じさせる口調だ。
「君はよくやってくれたさ、おサキ。大丈夫、僕の準備は整っている」
「ケンシンが連れ帰って来てくれると信じとるが……それも何時になるやら……」
「いざとなれば、僕が心中する覚悟で奴等を封じ込めてみせるさ」
――なんの話だろう?
さくやは思った。とても深刻に聞こえる。
――心中……する……!?
尊の言葉に、さくやの背筋がざわりとした。
――い、いけない私っ。
さくやは侵入した上に盗み聞きなんて、とても大和撫子ではないと思い、そっとその場を離れようとした。
しかし、またまたさくやの注意が逸れた。
蔵の中だ。予想は外れて狐は中に入らなかったようだが、奥にある机に不思議なものがあった。
――あれ?
不思議な物の正体は貝殻ようだ。蔵という場所には不釣り合いな淡いピンク色の光が、閉じた殻の隙間から漏れている。
――なんだろうあれ? オーナメント……?
さくやの気を引くだけ引くと、貝殻から光が消える。
「さくやじゃないか。どうしたんだい? 今日は稽古がない日じゃ……」
「!」
尊がさくやを見つけた。
さくやは慌てて振り返る。
「き、狐がっ、野生の狐がいて! 追い掛けてっ……この庭に入って行くのを見たんですけど……いないですね……」
さくやは恋心はともかく、尊には隠し事をしたくなかったので正直に言った。
「狐? ああ、好きに探していいよ。君は殆ど毎日家に来ているんだから、どこからでも遠慮せず入りなよ」
尊もさくやの行動を子供っぽいと思ったのか、さくやの髪に付いた葉っぱを取って、笑いながら言った。どこからか押し殺した声で「ば、ばかっ」と聞こえが、羞恥心に苛まれたさくやには聞こえなかった。
「いえ、もう……どこか行っちゃったみたいですからいいです。と、所であれはなんですか?」
「ん? ああ、これかい?」
さくやは話題を変えようと指を差す。尊は蔵に入り貝殻を手に取った。
「これは口紅が入った貝殻だよ。蔵にあるものの中でも特に古いものなんだ」
そんなに古いものなら「発光するなんて変だなぁ」と思いながら、さくやは尊から紅入れ貝を受け取った。貝殻は手の平に乗るサイズだが、入れ物らしくふっくらしている。
しかし、巫という文字に見える紋様が描かれた殻の表面には、桜の花が描かれていて、雅な美しさがあった。
「君にあげたいけど、残念ながら誰も開けられなくてね……」
「そうなんだ」
どうやら何かの見間違いだったようだ。しかし、さくやは美しい紅入れをうっとりと眺めた。
「貴重な物を見せてもらってありがとうございます。それじゃあ私、帰ります」
まだ罪悪感が拭えず、さくやは紅入れを返してお暇しようとした。
「そう? 上がっていってもいいんだよ」
「いえ、また明日、茶道の稽古で来ますから」
さくやは勝手口を使って、そそくさと外へ出る。
「さようなら、尊さん」
「うん。さようなら……さくや」
尊が言った。
さくやが帰ると縁側の下から狐が姿を現した。
「あの娘。しつこく追い掛けて来おってのう。狐汁にされるかと思ったわ」
「うちで色んな習い事をしている子さ。名前はさくや……」
狐が口を聞く。尊はさくやの弁明をするように言った。
「とてもいい子だよ」