序文~本エッセイの目的と手段ならびに読者への注意~
エッセイの目的
このエッセイの目的は、これから小説を書こうとする人や現在実際に書いている人に、性格についての理解を深めることで執筆に役立ててもらうことである。
世の中の天才と呼ばれる人たちはキャラクターの性格について無意識に理解している。キャラクターがどんな状況に置かれても、どのように感じ、どのように行動するかが分かるのだ。
しかしながら、残念なことに大部分の凡人にはそのような才能はない。
プロットをしっかりと固めて執筆を開始しても、キャラの魅力や行動理念がわからなくなってしまう。結果として、キャラ崩壊を起こしたり、モチベーションを喪失して筆を折ってしまったりする。このような話はよくある話ではないだろうか。
本エッセイは私を含めこうした才能のない人物のために、性格の作り込みを支援するためのものである。
そして、凡人が天才を超えるためのエッセイでもある。
このエッセイの手段
とはいえ、筆者も読者と同じ凡才であるから、あまり筆者の独力に頼るだけでは性格についての説明なんてできそうにない。
そこで、実際に既に存在する性格分類の手段を役立てるという方向性で進んでいきたいとおもう。巨人の肩に乗る作戦である。
巨人の肩に乗る作戦と言っても、MBTI、エニアグラム、ビッグファイブ、体癖、ユングタイプ論、クレッチマー類型論、クロニンジャー理論……といったように様々な性格分類が世間にはある。どの性格理論も一長一短の性を持っていて、どれが優れているということはないと思う。
その上で、私は本エッセイでキャラクターの性格を扱うために、エニアグラムと体癖を参考とすることにした。以下では、その理由を説明する。
引き伸ばしても仕方がないので結論から言ってしまえば、それは「役割の被りが少ない」という理由である。
性格分類には、ビッグファイブのような特性論とクレッチマー類型論のような類型論が存在する。これはある種の性格分類についての分類であるが、これから行いたい性格分類の分類は別の点に視座を置く。
それは、理論において「性格は感情の振る舞い」であるものとして扱うか、それとも「性格は感情の内容」であるものとして扱うかという分類である。
そもそも、感情には内容と振る舞いがあると言われてもあまり読者はピンとこないかもしれない。
感情の振る舞いというのは、感情どうしの繋がりとそれによる生起しやすさを意味している。
例えば、臆病な性格といった場合それは、恐怖感情の発生しやすい性格という意味である。恐怖感情は、リスクが現れたときに生じるが、臆病な性格の場合、何かを期待しただけで失敗可能性の認識に関係なくリスクを想定して恐怖する。すなわち、期待感情が生じてもそれがすぐに恐怖感情に遷移してしまうのが臆病な性格である。
他方で感情の内容に注目した性格の表現としては想像力が豊かな性格といった表現が考えられる。想像力が豊かな人物は具体的な現実に対してより、自分の主観に感情を生起させる。
このときの感情の振る舞いについては定まっていない。もし、その人物が臆病な性格であれば自分の想像した未来に対して恐怖するかもしれない、もしその人物が惚れっぽい性格であれば、恋愛対象のちょっとした行動に性的な意図を見出すかもしれない。
想像力豊かな性格は芸術家や文芸家によくある性格であるが個々の芸術家の作品のイメージが異なるのはその人がもつ感情の振る舞いが異なるからである。同じ花火を見てもある芸術家はそこに愛と情熱を見出し、またある芸術家はそこに儚さと虚しさを想起するのである。想像力豊かという同じ感情の内容を持っていても感情の振る舞いが全く異なれば作品は別物になる。
では、以上の性格についての2つの見方を踏まえて実際に性格分類を分類してみよう。
ビッグファイブについて考えてみる。ビッググッファイブでは「性格は感情の振る舞いである」という立場と、「性格は感情の内容である」という立場が混ざっている。
ビッグファイブにおける神経症傾向の高低は「感情の振る舞い」からの分類である。何らかの危険やストレスが生じたときにどのように感情が振る舞うかを神経症傾向では計っている。神経症傾向が高ければ、恐怖感情や憎悪感情が振る舞いの中に現れやすくそうでなければ低い。
他方で、誠実性の高低は「感情の内容」からの分類である。誠実性が高いほど、高度な目標達成に関する感情が生起し、低ければ低次な快楽的目標に関する感情が発生する。
このように、ビッグファイブ性格論は、それ自体が性格について「感情の振る舞い」と「感情の内容」という異なる立場が混ざっているとわかる。
これはビッグファイブの魅力であり欠点であると私は思う。ビッグファイブはそれ単体で高い精度の性格分類を可能にする。他方でその形成原理の解明がおろそかになってしまうのは複数の性格についての立場が混同されていることにあるのではないだろうか。
では、私が参考にしようとしているエニアグラムと体癖はどうだろうか。
エニアグラムは「感情の内容」に関する立場であり、体癖は「感情の振る舞い」に関する立場である。
エニアグラムの分類において最も重要なことは根源的な恐れである。これは「感情の振る舞い」の視点から言えばすべて「恐怖感情」であるがその中身が異なる。同じ臆病な性格であったとしても、エニアグラムタイプ7は自分のやりたいことが見つからないことを恐れるし、エニアグラムタイプ2は自分が他者の役に立てず愛されないことを恐れる。
一方で、体癖論は「感情の振る舞い」に関する理論である。例えば、一種体癖は厳格な性格であり、感情としては静かな怒りとでもいう処罰感情が発生しやすい。しかし、その厳格な性格の対象となるものははっきりとしない、数学といった抽象的なルールに関心を持つこともあればよりプラクティカルな法律や友人との約束、商品の質に関心を持つということもあるだろう。
さて、このようにエニアグラムと体癖ではその役割が大きく異なる。この役割の違いを活かすことができれば多角的な視点からキャラクターの性格について議論できるようになり、読者の執筆活動に大いに役立ててもらえると思う。
読者への注意
ただし、このエッセイを読んで実際に性格論を使う際に注意してほしいのは、他者へのレッテル貼りには使用しないで欲しいということである。
体癖とエニアグラムはともに優秀な理論ではあるが主流派の科学ではない。これを用いて、〇〇ちゃんは✗✗種のタイプ△△だから、こうしたらこうなるに違いないと決めきってコミュニケーションをとると実際には□□種のタイプ◎◎であるという可能性は十分にある。
そういったリスクを避けるために〇〇ちゃんは✗✗種のタイプ△△だと決め打ちせずに、他の性格の可能性も考えつつ絶対に喜んでもらえるかはわからないけどももしかしたらという気持ちで使用してほしい。
また、良い性格、悪い性格というのは存在しない。自分との相性や相手が低調しているということはあるかもしれないが、それは決して性格の良し悪しといった問題ではないのである。
それから、他者の作品のキャラの性格分析の際も注意が必要である。キャラの性格について、作者や別の読者と認識が異なるということがあるかもしれない。それについて、性格論を知っているからといってキャラ理解で優位に立っていると思ってはいけない。本来の作者や別の読者がキャラを無意識に解釈するときそこには、経験や理論からの根拠がある。
他者の話へ傾聴し、むしろ自分のキャラ理解の吟味に役立てることが重要ではないだろうか。自分の解釈も他者の解釈ももしかしたら性格の一側面を見ているだけかもしれないという心構えが必要である。
「自分の解釈も他者の解釈ももしかしたら性格の一側面を見ているだけかもしれない」という心構えは本エッセイを読んでいく上でも重要である。
私は絶対の神でも宗教の教祖でもないただの凡人である。もしかしたら、不足している部分があるかもしれないし、また間違っている部分もあるかもしれない。
それでも、読者の執筆に役立てて欲しいという私の思いは本心である。私の不完全なエッセイでも読者の役に立ててほしいし、読者をふくめた人類一般には不完全を受け入れ人類みなでよりよい方向へ向かっていく力があるということを信じている。