憧れは恋にはならない
自惚れていた。たぶん、それがすべての始まりだ。
私には好きな人がいた。兄の友人クリストファー・ヒューム公爵子息だ。
煌めく金髪に碧い目、すっと通った鼻筋に、少し厚みのある唇、均整の取れた肉体――物語に登場する王子様像まんまだ。我が国の皇太子は私よりも一回り以上も上になるので、私たちの年齢の令嬢にとって、公爵家という王家の血筋の彼こそ王子様だった。みんながうっとりと憧れる。私も例にもれず憧れを抱いた。そして、幸運なことにその憧れの人と兄が友人だったおかげで、身近に関わることができたのだ。
クリストファー様は、見た目だけではなくて、言動も王子様だった。
優しくて親切で紳士的。
はじめて会ったときからそうだった。
当時、私は五歳で、三歳年上の兄のあとをついて回っていた。だから、兄の友人としてクリストファー様が屋敷に来たときも当然のように兄の元へ押しかけた。――今日はお客様が来るので部屋にいるようにと言われていたのも忘れて。
ノックもせずに応接室へ飛び込むと兄は目を大きく見開いて、珍しく怒りの声を上げた。当然である。我が家は侯爵、あちらは公爵、格上の貴族のもてなし中に、礼儀も弁えぬ者が乱入したのだ。
私は硬直した。兄は私に甘かったので、見たことない怒りに動けなくなった。
「ごめんなさい。おにいさまと、あそびたかったの……」
それでもかろうじて述べると、ため息が聞こえてきてますます泣きたくなった。
「そう。お兄様と遊びたかったのだね。では、一緒に庭を見に行こうか。案内してくれるかな?」
重たい空気を払拭するよう、クリストファー様がにっこりと笑って手を差し伸べてくれた。
曾祖母が大変な植物好きで、我が家の薔薇園は有名だった。彼はそれを見にきたらしい。
私は手をつないで歩いたことはあれど、きちんとしたエスコートを受けたことがなかった。でも、見たことはあったので、おずおずとその手に自分の手を重ねた。
「さぁ行こうか、レディ」
彼は満足そうに微笑んで、私はぽぅっとなった。
はじめて淑女として接してもらえたこと、その相手がとても格好いい人であったこと、何もかもに夢見心地になった。
以降も、彼は悉く私に優しかった。
とても優しくて、だから彼も私を好きなのだろうと思った。もちろん恋愛対象としてという意味ではない。そこまで厚かましい考えは流石に持ってはいない。ただ、友人の妹というのを度外視しても、一人の人間として認識してもらえているだろうと。
ずっと、そのように勘違いできていたら、どれほど幸せだっただろう。
誰にも迷惑をかけるわけでもなく――いや、そう思われているというだけで彼には不愉快かもしれないけれど――心の内でひっそりニマニマするくらい許されてもよかったのではないか。
でも、それは許されなかった。
人の好感度が見えるようになったから。
きっかけは従姉のミシェルだ。
彼女は優秀な頭脳と魔力を持ち、まだ学生の身でありながら国から支援を受けて個人研究室を持っている。その能力を駆使して「自分への好意が数値化して見える薬」を作ったのだ。
何故、そんなものを?
まず浮かんだ疑問だった。
ミシェルは他人からどう思われているかなんてまったく興味がない。人の心がわからない研究狂などとよろしくない評価まで受けている。彼女が作るにしては意外すぎる。
「頼まれたのよ」
「誰に?」
「それは教えられないわ。守秘義務です」
ただ、その人は恋をしていて、相手が自分をどう思っているのか知りたいので、好意の有無がわかる薬を作ってほしいと依頼された。ミシェルは面白そうだと好奇心から作ってみたのだという。
「好奇心で作れるものなの?」
「当然です」
「知られたら厄介なことになりそうな予感しかないんだけど……」
「だから、内密に進めているのよ」
「……それならどうして私に言うの?」
「協力してほしいから」
つまるところ、薬の治験者になってほしいということだ。
当然だが、私は断った。
「え。どうして? 安全だよ。変な成分は入っていないから」
「いや、薬の副作用を気にしているわけじゃなくて……好意を数値化して見るなんて嫌だからだよ」
「なぜ? 人が自分をどう思ってるか普通の人は気になるんでしょ?」
「気になるけど、じゃあ本当に知りたいかと言えば別でしょ。もしわかって、仲良いと思っていた人が実はそんなに好意を持ってくれてなかったとわかったりしたら悲しいし」
余程自分に自信がない限り、そんなもの飲めない。
世の中知らなければいいことは山ほどある。自分に都合よく生きていた方がいいことが。
で、あるのに。
「あー、そうなんだ。ごめんね、でも、もう手遅れだわ」
「はい?」
「飲み物に入れちゃった」
曰く、薬の効果が発揮されるまでには三十分ほど要するので、説明してから飲むよりも、先に飲ませて、説明しているうちに効力が出てくる方が時間効率的に合理的との判断だったらしい。断られるかもというのは一切考慮しなかったと。
そういうところ~~~~~~!! と私はげんなりしたが、飲んでしまったものはどうしようもない。そうこうしているうちに、ミシェルの胸元のあたりに「数値」が浮かんでいるのが見え始めた。
「92ってある」
「50を超えたらだいぶ好感度が高い数値よ」
「じゃあ、ミシェルはだいぶ私を好きなんだね」
「当たり前じゃない。そうでないなら、こんなこと頼まないよ」
私なら好きな人に迷惑かけたくないと思うけれど、ミシェルとしては信頼しているから頼んできたのだとわかり毒気を抜かれてしまった。
このような経緯により、私は薬の効果がきれるまでのおおよそ十日間を、人の好意が数値化する状態で過ごさなければならなくなったのである。
故に、十日間、極力人と会わないようにしようと思った。
ミシェルの数値が見えたことで薬の効果は証明できたのだし、これからの生活を考えて人の心の内など知るべきではない――とはいっても、家族や使用人の数値は見てしまったが(みんな50を超えていたのでほっとした)。
けれど、早々うまくいかないのが世の中というものだ。
こんな状態のときに限って、絶対に出席しなければならない夜会が催されたりする。隣国の公爵を歓迎するためのパーティだ。
そこで、私は会ってしまったのである。彼に。クリストファー様に。
家族と一緒に会場についたが、両親とはすぐに分かれ、私は兄のエスコートで、友人のところへ向かった。
途中で、見知った顔とすれ違う。その中に、クリストファー様がいた。
011
彼の胸に表示されていた数字を見て心臓がぎゅっとなった。
会えば嫌味を言ってくるオーランド伯爵家のミランダは21、とあるパーティで悪酔いして友人に絡んできたのを助けるために割って入ったら「しゃしゃり出てくるな!」と言われ、以降嫌われているドナルド伯爵家のジダンでさえ14あったのに、クリストファー様は11である。
衝撃は、ほんの少しだけ期待していただけに強かった。正直、50以上は当然にあると思って自惚れていた。だから、人に会って数字を見たくないという気持ちとは裏腹に、彼の数字を見たいと心のどこかにあって、夜会で鉢合わせて不可抗力であれば、見てしまってもいいだろうとわくわくしていたのだ。
それが――。
「どうかしたの? 顔色が悪いようだけど……」
クリストファー様に心配そうに問われて、私は悲鳴を上げそうになった。
(こんなに低い好感度で、こんなに親切そうにしてくれるの?)
混乱、しかない。
貴族は感情――特に負の感情は――表に出さない。相手を嫌っていることを悟らせてもいいことなんてないので、いかに穏便にうまく立ち回るかは大事な教養、或いは処世術だが、数値と接し方の乖離に身体が竦んだ。
「本当だな。真っ青だぞ……ここ数日、変だったけど体調が悪いなら早く言いなさい」
兄が、私の顔を覗き込んできた。
私は視線を下げて兄の胸元を見る。87と表示された数字に小さく息を吐く。
自分のことを好きでいてくれる。はっきりと好意を持ってくれている。それがこれほど安心できるものとは。
「ごめんなさい、お兄様。少しテラスで休憩することにするわ」
「そうか。なら、一緒に行くよ」
「いいえ、一人で大丈夫です。お兄様はパーティを楽しんで」
「お前を放って楽しめないだろう」
「お兄様はご予定がおありでしょう!」
私は強めに言った。
気分が悪いのは事実だし、一刻も早くここから去りたいけれど、兄を巻き込みたくはなかった。兄には片思いの相手がいる。彼女の方も満更ではない様子だが、まだパーティのエスコートを申し込めるほどの仲ではない。少しずつ距離を詰めている段階で、何度か会場でダンスに誘ったりしている。故に今宵はチャンスである。こういう大きなパーティで相手を誘うというのはいいアピールだ。私が邪魔するわけにいかない。
兄は一瞬怯んだ。何のことを言われているのか理解したのと、私に知られていることに動揺しているのだろう。
「お兄様には幸せになってほしいのです。素敵な人はみんなが狙っているのですから」
続けると、兄はわかりやすく狼狽えた。
しっかり者の顔をして世話を焼いてくれる姿とはかけ離れた兄に妙な充足感を覚え、私も少し冷静さを取り戻す。
「それでは、私は」
私は兄の手を離してクリストファー様に軽くお辞儀する。すると、ばちっと目が合った。彼は何か言おうとしているように思えたが、それを遮るように「クリストファー様!」と華やかな声が響いた。アーデルハイド公爵令嬢だった。彼女は私と兄の存在など無視してぐいぐいとクリストファー様に話しかけている。私はその隙にそそくさと退散した。
パーティが始まったばかりなのでテラスに人もそれほどいないだろう。風に当たれば少しは気分転換になるし、気持ちも落ち着くはず。
心なしか早足になって歩く。一度足を止めてしまえば、その場にうずくまってしまいそうだったから、安全な場所へと急いでいた。
そうであるのに、
「イザベル」
長い廊下では幾人もの出席者とすれ違い、そのうちの一人が私の名前を呼んできた。
うげぇ、と私の心は真っ黒に塗りつぶされた。
オーランド・アンダーソン侯爵子息。
彼は幼馴染と呼べる存在だが、いかんせん相性が悪い。出会った頃こそ、気が合って仲良くしていたのだが、年齢を重ねるとうまくいかなくなった。
その理由には心当たりがある。
私にはもう一人ディアナ・デズモンド侯爵令嬢という幼馴染がいるのだが、オーランドはディアナと私が一緒にいると、彼女ばかりに話しかけ、私を邪険にする。おそらく彼女が好きなのだろう。自分が好きな相手と親しい人間を性別問わず憎らしく思う独占欲が強い人はいる。彼がそうで、私が目障りなのだ。
そう考えれば、彼の一連の私への振る舞いの理屈は理解できた。とはいえ、私を一切無視するような形でアプローチをする姿に、存在の否定に、とても惨めな気持ちになり居心地が悪かった。いつ、いかなるときも、私が世界の中心でいられるわけはないとはわかっているが、それでも、仲がいいと思っていた相手に、お前よりも彼女が大事、とまざまざと見せつけられ、それをうまく呑み込めなかった。
「何?」
話しかけてこないでよ、という威圧を込めて、しかし、無視するのは礼儀としてどうかと思うので、一応の反応を返した。
「どこにいくんだ?」
「テラスだけど」
「え? 誰かと会うのか?」
「気分が悪いから風に当たりに行くんだけど」
言ってから、しまったな、と思った。
テラスは恋人たちが愛を語らう場としても使われたりする。それはもっと深い時間で、開場されたばかりの今の時間帯で行われることは稀だが、オーランドが私にそういう相手がいると勘違いしたのなら否定することはなかった。そんな相手はいるわけないか、と揶揄られる可能性を与えてしまった。
何を言われるのかと身構える。
じっと見つめられるのが心地悪くて思わず視線をそらす。途端、数値が視界を横切った。嫌われているとわかっている相手でも、数値としてはっきりと好感がないことを知るのは嫌なものだから、胸元を見ないようにしていたのに。でも、
「え」
83、と表示されている。
間違いなく、83、とある。
どういうこと?
「ふーん、まぁ、お前にそんな相手がいるわけないか」
呆然としているうちに、オーランドは案の定な台詞を言った。
「俺もちょうどテラスに行くつもりだったんだ。気分が悪いっていうなら付き合ってやるよ。知らん顔するのは後味が悪い」
腹立たしい言い方だが、彼は気分が悪い人間を放置するほど非道ではないのは知っている。
私への態度が硬化しはじめてからも、調子の悪いときや本当に困っているときなどは不思議と心配して気遣ってくれたりする。そういうところと、幼い頃の仲の良かった記憶とがあるから、私は彼を嫌いきることができなかった。
だけど、どうやら彼の方も私を嫌ってはいなかったらしい。ただ、それよりもディアナの方が大事なだけで、彼女を思うあまりに私を目障りに思っていただけで、私個人を嫌っていたわけでは。
(なによ、それ)
胸の内に、蠢いた。
何が、なのかはよくわからない。何もかも、なのかもしれない。
認めたくはなかったけれど、傷ついていたこと。
選ばれなかったという現実に、強く強く傷ついていたこと。
そんなにあからさまな区別をしなくてもいいのではないかと泣きたかったこと。
「なんだよ。本当に気分が悪そうだな。テラスよりも帰った方がいいんじゃないか?」
オーランドは一歩、近づいてきて私の顔を見つめてきたが。
「イザベル嬢」
それを遮る声があった。
私たちの間に割って入るようにして立ったのは、さっき別れたばかりのクリストファー様だ。
「大丈夫かい?」
私は驚いて、右手を胸元にあてた。
「気になって」
彼はそう続けた。
気になって追いかけてきたと最後までは言わなかったが、意味はわかった。
意味はわかったが、何故彼が追いかけてくるのか、頭がついていかない。好感度なんてものが見えなければ「なんて優しいのだろう」と喜び、こんなに優しくしてくれるなんてやはり好かれているのね、と自惚れていただろうけれど、今は違う。
強い感情が、目の前でチカチカと明滅している。
クリストファー様とオーランド。二人の、言動と好感度が逆ならば、私は混乱などしなかったのに、人の腹の内はわからない。わからないことは、恐ろしい。
「ご心配していただかなくても、大丈夫です」
言葉はすんなりと出た。
思考と、発言の回路が切れて独立しているみたいに、無難な返事が。
そして、脳内では思考が加速していた。
ああ、そういえば、私がクリストファー様の優しさに傾倒したのは、オーランドの態度の変化が強く影響していたのかもしれない――それまで独立していた出来事が急に結びついていく。一度引っ付けば、そこには新しい意味と理由が誕生する。
クリストファー様はずっと優しかったが、その優しさを特別なのではないかと思った。そう思いたかった。オーランドから無視された分、誰かの特別であることで慰められるような気がした。事実、慰められてきた。こんなに素敵な人から、特別に優しくされる私は、無価値ではないと支えられてきた。
その何もかもが、真実が、ここで暴かれ、瓦解した。
私はオーランドの言動に傷つくことはなかった。彼の悪手に私の存在価値を絡ませる必要など全然なかった。だから、誰かの特別になって、自分に価値があると証明するような真似もしなくてよかった。証明しなくていいなら、クリストファー様の優しさに縋ることもない。
だから、大丈夫――何も大丈夫じゃないけれど――きっと、大丈夫。
「平気です。それに、オーランドが付き添ってくれるので」
私は、クリストファー様越しにオーランドに視線を向けた。
好感度数を見ていなければ、彼に頼るなど絶対にしたくないと思っただろうけれど、今は、私を嫌うクリストファー様よりも、たとえ態度が悪くても私に好意のあるオーランドといる方が安心できた。
クリストファー様が来たから、任せる相手がいるならば自分はしないと言われたらどうしようと少しだけ心配になったが、オーランドは、じゃあ行くか、と手を差し出してくれた。まさか、彼からエスコートを受ける日がくるとは、人生何があるかわからない。
私は、本日二度目となる別れの言葉をクリストファー様に告げてバルコニーへ向かった。
しばらく歩いて、やがて人気が少なくなってくると、
「やめたのか?」
「……何を?」
「あの男に懐いていただろう」
懐く……というほど露骨な態度をとっているつもりはなかったのでドキリとした。
人の目にそのように映っていたのなら恥ずかしい。それでも彼からも好かれていたなら幾分マシだろうけど、彼の方は冷ややかに思っていたわけで、そのことに余計に心がささくれだった。
「別に。兄の友人だから、その延長で親し気にしてしまっていただけよ。でも、兄ではないのだし、いつまでも勘違いしているわけにもいかないでしょう」
言いながら自虐的な気持ちになった。
バルコニーは少しだけ風が吹き抜けて、首筋がひんやりとする。日が暮れ始めていて、日の名残りで近くの木々が濃い陰影をつくって、枝葉が揺れている。見方によって豊かにも鬱蒼としても見える。それは何事にもいえる。ならば、何をどのように見たいか、好きに選んだらいい。傷つく方向に舵を取る必要はない。それでも、知ってしまった真実を無視することなどできない。
「そうだな。取り返しがつかなくなる前に、そうした方がいい。今ならまだ間に合うだろう」
まだ間に合うだなんて、私はそれほど熱を上げていたと思われているのか。それとも遠回しに、見込みのない恋をしていたことをからかってきているのか。いずれにせよ、この話題をオーランドと続ける気はまったくなかったので。
「ここまで連れてきてくれたことには感謝するけど、もう会場に戻ったら? ディアナも着いている頃だろうし」
「気分が悪いんだろう?」
「あなたがいても、良くなるものでもないから」
「なんだよ、それ」
「いいから、行って」
彼は少しだけ何か言いたそうにしたが、結局は何も言わずにため息をついて去っていった。
一人きりになって、設置された椅子に腰かける。普段はないはずのものだが、人が集まるときはこうして置かれる。即ちそれは、ここが密会場所になるという意味でもある。
デビュタントを終えて、パーティの暗黙の了解を知り、いつか私も誰かと恋をして、バルコニーで愛を語り合ったりするのだろうか……なんて話を友人たちとしていたことが思い出された。
(失恋、したんだ)
失恋という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、身体中の力が抜け落ちていく。
彼からの親切を特別だと思いながら、私を異性として好きになるなんてことはないわ、自惚れてはいけないわ、そこは弁えていると繰り返し唱えてきた。けれど、それは期待をしているからこそ生じる否定でもあった。何より、私は彼に好かれることを望んでいたのだ。望みが叶わなかったら悲しいから、否定することで自分を守ってきた。――そのようにして防御しながら「でも、もしかしたら」が根底にあった。その望みが完全に喪失し、失恋したのだ。私がいくら好きでいても、相手から好きは返されない。
好かれたかった。
素直になれなかった感情を、もう叶わないとはっきりしてからようやく認められたことが滑稽だ。人は失ってから大切なものに気づくというけれど、その気持ちがよく理解できた。後から気づくことは悲しいけれど、でも、私はとても臆病な人間で、期待が、希望が、ある中ではそれがうまくいかないときのことに重きを置いてしまうのだ。自分という人間の思考の癖が、一つ明瞭になって、ふと吐息が零れ落ちる。同時に、涙も。
ポロリと流れたそれに気づくと、もう止まらなかった。
いろいろと思考が動いているので、案外冷静だなと思っていたのに、それは単に感情を抑圧しているだけで、それでも抑え込めなかったものがとめどなくあふれている。私はなす術もなく呆然と受け入れていたが。
「イザベル嬢」
声がした。
聞きなれた、そして、今日も何度も聞いたよく知っている人のもの――だけれど、私の身体は硬直した。
「どうしたの? 何があったの?」
驚いたように、聞いてくる。
私は瞬きを繰り返し、瞳に浮かんでいた涙が、ポロリと剥がれるように落ちたら、視界がクリアになり、クリストファー様が立っているのが見えた。
「え? どうしてここに?」
「……何か飲み物があった方がいいだろうと思って。それより彼は? 君を一人にしていなくなったの? それとも、彼に何かされたの?」
私は、両手で頬の涙のあとと目元を拭った。指先がひんやりと湿っている。目を乱暴にごしごしと擦ってしまいたかったが、化粧が落ちるので我慢した。チークや、最近流行っている目尻に載せる白く光るパウダーが流れたくらいで、瞼の淡いピンク色のシャドウには触れてはいないはずなので、ひどいことにはなっていないだろう。――とはいえ、泣いていることを誤魔化すことはできないけれど。
彼は流れるように近づいてきて私の隣に腰かけた。
手渡されたグラスを断ることもできずに受け取る。口を付けたら、ほんのりと酸っぱい香りがした。レモン水だった。嗚咽するほど泣いてはいなかったが、それでも涙として水分を出してしまったせいか、喉は乾いていた。ほどよい冷たさのレモン水が喉を伝い胃に落ちていく。
「もしかして……乱暴な真似をされたの?」
心配そうな顔とは裏腹に、彼の声は低く威圧のようなものまで感じられた。
怒っているのだろう。だが、純粋に私を心配してというより、面倒ごとに巻き込まれたいらだちという風にどうしても思えてしまう。――いや、私が巻き込んだわけではなくて、彼が自分からきたのだけれど。
そもそもどうして追いかけてくるのか。それも、二度も。放っておいてくれたらいいのに……すべては彼が善良だからということか。個人的な好き嫌いは別にして、困っている人がいたら手を貸す。立派な行為だし道徳的である。嫌いな相手にも親切にするなんて偽善者め! などと罵る方がどうかしている。理屈では……けれど、やはり好意を数値として認識できてしまった以上、その点を無視しきることも難しい。落ち着きかけた思考がまた乱れ始めた。
「何があったか話してもらえないかな」
返事をできずにいると重ねて問われた。
出会ったときから、私を「淑女」として尊重してくれていたのに、今はまるで聞き分けのない子をあやすような、それでいて聞きたいことを聞くまでは絶対に逃さないという執念まで感じる凄みまであり、何かまずいことになっているという恐怖が増していった。
「何もされていません。一人で休むから大丈夫と言って会場に戻ってもらっただけです」
私はこの奇妙な緊張感から解放されたくて言った。
嘘は一つもついていない。だが、彼はゆったりと笑った。
「じゃあ、どうして泣いているの? 何かあったからだよね?」
「これはオーランドとは関係ありません」
「関係ないというなら、泣いている理由はどうして?」
「それは……」
あなたに嫌われていると知ったからです、など言えるはずもない。
私は考えた。考えたが、何も言うことが浮かばない。黙っていると、彼の長く骨ばった指先が伸びてきて、私が持っているグラスのふちをなぞる。その所作にどういう意図があるのかはわからないけれど、ただ、動きの艶めかしさに息が詰まった。元々、美しい容姿に、優雅な動きを兼ね揃えていて、人を圧倒するようなところはあったけれど、今はもっと、違った――冷酷で冷淡な、逆らうべきではないという何かがあるが。
「クリストファー様にお聞かせするようなことではないので、大丈夫です」
正直に言った。
聞かせられる話ではないというのが正しいけれど、私が言うことのできる範囲での本当のことを述べた。これが私の言える精一杯だ。内心はどうであれ、こうして心配をして尋ねてくれた相手を拒絶するのもどうかとは思うが、話さないなら仕方ない、できることはしたのだからと引いてくれるだろう。
「誰になら聞かせるの?」
「え?」
「話すことはあるってことだよね。どうして私には話せないのかな? 私は頼りない?」
「いえ、そういうわけではないです、けど……」
予想した会話の展開に、まったくなってくれずに、私は動揺していた。
心配というには度を越している。話したくないと意思表示をしているのだから、引くのがマナーというものではないのだろうか。
クリストファー様は、笑っている。
先程よりもずっと。
その笑顔が、怖い。
「困ったことがあれば話してと、これまでずっと言ってきたし、君もそうしてくれていたのに……私は嫌がられるようなことをしてしまったのかな?」
ああ、そうか。これまで親切にしてきたのに急に素っ気なくされたことが彼は気に入らないのだ。
嫌いな相手に親切にするのは忍耐がいる。我慢してやってきて、私は何も知らずに好意を示していた。騙せていることは彼にとって満足のいく結果だった……それが急に態度を変えられて、これまでの努力は何であったのかと不快に思っている。
唐突に理解した真実に、私の心は水を打ったように静まり返った。
理不尽な怒りなのか、当然の怒りなのか、ただ私にしてみれば悲しい現実だった。そして、自分の思うとおりにならないからと追い詰めてくる彼の幼稚な一面に、これまで感じていた彼への完全性とそれゆえの憧れがしぼんでいく。
わからないことは恐ろしい。でも、わかったなら怖くはない。
「私は、そんなに愚かではないのですよ。いえ……愚かだったのかもしれませんが、もう愚かではなくなったのです。だからクリストファー様を頼ることはしません」
私も笑った。
こういう形で決別をするとはまったく考えてはいなかったけれど、下手にずるずると好意を抱き続けて夢を見ているよりもいいのかもしれない。
私は立ち上がり、カーテシーをしてバルコニーから出た。
今度こそ、彼が追いかけてくることはなかった。
◇
「……なんと言えばいいのかわからないわね……」
ミシェルはそう言うと紅茶に口をつけた。
クリストファー様とのことを話せる相手が他にいなかったので、聞いてもらったのだけれど、人の心の機微に疎い彼女からの返答は、わかっていたけれど困惑だった。
「でもこれって私のせいよね……ごめんね」
「ミシェルを責めるために言ったわけじゃないよ。まぁ、今後はこういうことはしないでほしいけど」
本心だ。
たしかに好感度が見える薬なんてものを飲まなければ、クリストファー様との関係はこんな風な終わり方をしなかっただろう。何も気づかずに、かといって自分から関係を進展させようとすることもなかったから、いずれ彼が誰かと結婚したときにひっそりと涙して、綺麗な思い出に昇華していただろう。自ら行動して何が何でも叶えようとしていたわけでもなく、あわよくば、彼に好かれているなら、愛されたいなぁとぼんやりと思っていた。憧れを超えて、恋になるほどの、傷ついてもいいからと思えるほどの、そんな強さをもっていたわけではない。そんな夢想が打ちひしがれたからと被害者ぶるのも違うなと思う。
とはいえ、やはり傷ついたものは傷ついた。
「でも、彼の胸元に『011』って数字が見えたときは本当に頭が真っ白になったよ」
あの凍り付いた瞬間のことはきっと生涯忘れないだろう。
今思い出しても動悸がする。世界から音が消えて、さぁっと光も消えて、数字だけがぼうっと浮かんだように見えた。呼吸も忘れて、兄に声を掛けられて時が動き出した途端、心臓が悲鳴を上げた。
「待って。『011』ってどういうこと?」
悲しみの記憶にぼうっとしていると大きな声がした。
ミシェルがテーブルの向こうで身を乗り出すようにしている。
「え? どういうとは?」
「あなたさっきは好感度が『11』だったって言っていたじゃない」
「ええ……だからそうだってば」
「でも今は『011』って」
「うん。だから『11』だよ」
「違う!」
ミシェルはさっきよりも大きな声を上げた。
「『11』と『011』は違うでしょ!!!?」
「えっと、違うの?」
「11は二桁、011は三桁じゃない!」
「うん?」
「二桁と三桁は違うでしょ?」
「まぁ、二桁と三桁は違うけど、ゼロとついていたところで、ゼロはなしなのだから、この場合は同じでしょう?」
「いやいやいやいや、他の人は二桁なのに、わざわざ『011』って表示されてるってことはこのゼロはなしのゼロじゃないと考えるべきでしょう? なんで考えないのかわからない」
「そっちこそ何言ってるの? ゼロじゃないゼロって何? 三桁だったとして何がどう違うのよ?」
あなた馬鹿なの? ぐらいの勢いで言われては私も面白くはない。
むすっとしていると、
「ふくれっ面してる場合じゃないわよ。あなた、ことの重大さをちっともわかってないわね」
とミシェルは呆れたように言った。
「魔力メーターを知っているでしょ?」
「もちろん知っているわ。魔力の大きさを測定するものでしょう?」
「じゃあ、メーターに限界があることは知ってる?」
「限界?」
「そう。メーターは無限に数字が増えるわけじゃない。最初は『1』から始まって『9』までいったら次の位に繰り上がって『10』になるわよね。それが進んで『99』になったあとどうなるか知ってる?」
「100にはならないの?」
一体何の話なのか要領を得ないが、私は聞かれたことに答えた。
「リセットされて、また1から始めるの。でもね、そのときの表示は『01』となる。これは単なる『1』ではなくて0の前に1がありますって意味。つまり『101』を表しているの」
それは知らなかった。
私の魔力は67という一般的なものだったから……でもミシェルは120あったというから実際にメーターがリセットされたのを見たのだろう。
たしかに、その理屈なら11と011は違う。
「つまり、クリストファー様の数字は『11』ではなくて『111』だって言いたいの?」
「いえ、この場合は『1011』でしょうね」
「え?」
「リセットされたときは0の前に1をつけるから『011』なら『1011』と考えるべき」
「『1011』なんてそんなことありえるの? ミシェルだって『50』を超えたら好感度が高いって言ってたじゃない! 『1000』まであるなら『50』なんて好感度なしみたいなものになるでしょう!!!?」
「だから、ことの重要さを理解していないって言ってるんじゃない。私も限界値は『100』と思っていたのよ。でも現実問題『1011』という結果が出たのだから、それを認めるしかないでしょう?」
「じゃあ、この薬がおかしいってことじゃないの?」
「その可能性もあるけど、彼だけこんな数字になったというのが腑に落ちない。だから数字は間違っていないと思うのよ」
そう言われても信じることもできない。『111』ならまだしも『1011』である。桁が違う。
「でも、よかったじゃない」
「え?」
「低い数字ではないとわかって嬉しいんじゃないの?」
言われてみれば……喜ぶべきことなのだろう。低いと思っていた数値がそうではないかもしれないとわかったのだ。けれど、嬉しいという気持ちは私にはなかった。
不思議な感覚である。
あまりにも現実的ではない数を前に実感が持てないというのもあるけれど、あの人、実は私をそんなに好きだったの!? という理性なんてすっぽ抜けてしまって、前後不覚になって、打ち震えてもいいのではないか。信じられないはずのものを信じてしまうのが恋心というものではないか。そういう感情が芽生えなかったことへの不思議さだ。
(彼に恋をしていたと認めたのは、彼が私を好きではなかったからなんだわ)
改めてその矛盾したような真実の重みに背中が冷えた。
恋という事象を定義するというのは難しいが、相手に会いたい、話したい、触れたいという具体的な行動が伴うのだと思う。でも、私にはそういったものがなかった。ただ、好きでいるだけで満足……彼に恋人ができたら悲しむだろうけれど、これでやっとおしまいにできるという安堵が混ざっていた。どうしようともしていないし、どうにもならないと思っているものを、いつまでも抱えていることはそれほど好ましいことではないから、解放されて安心していたことがわかってしまった。
それに、
「これは好感度であって、好感がそのまま恋愛感情とは限らないでしょう?」
好意と一口にいっても、家族として、友人として、人してと様々だ。
「うーん、言われてみればそうね。好感度でわかるのは好かれている度合いであって、どういう意味合いの好意かまではわからないもの。そこまでの性能には到達してない」
ミシェルは腕組みをした。
「……あと、その人物の感情の大きさも調整されてないわ」
「感情の大きさ?」
「ええ……自分で試したときも数値が『100』を超える人はいなかったから、その範囲で収まるようにできているのだとばかり思っていたのだけれど……そうじゃないことがわかったでしょ。で、その原因として、あなたのことをとんでもなく好きか、もしくは、彼自身の人に向ける感情が他の人よりも大きいという可能性もあるかもって思ってね」
人が人に向ける感情の強さも様々で、淡白な人もいれば感情過多な人もいる。つまり、クリストファー様が全般的に人への感情が強い人だったという可能性である。
「でも、そっちの可能性も低いと思うけど」
「どうして?」
「だって、もしそうなら、100を超える人がもっといてもいいでしょ?」
「感情が強くても、私のことはそれほど興味ない人ばかりだから、そういう人はいなかったってだけじゃないの?」
「感情が強い人が全員あなたに興味がないってことはないでしょ。思ってもなかった人がめちゃくちゃ好感度が高かったってケースはあったの?」
「……あった!」
「え? あるの?」
「うん……嫌われてると思っていたのに数値が高くて、なんで? と思ったけど……彼も感情の強いタイプだったのなら納得する」
オーランドのディアナに対する強い恋慕を間近で見ていたので、妙に腑に落ちた。彼も感情が強いタイプで、だから嫌っている私への感情も強いのだ。オーランドにとって83は高い数字ではないのだろう。……ディアナに薬を飲んでもらい彼の数値がどれだけ高いかを確認すればこの考え方が正しいかはよりはっきりするはずだ。それだけのために巻き込むわけにはいかないけれど。
しかし、たぶんこの仮説は正しい。
クリストファー様のこともそうであるなら辻褄が合う。彼の紳士的な振る舞いは誰もが認めるところである。あれは正真正銘の、人を思いやる気持ちが強いからこそなせる業だったのだ。
(いろいろと思い込みだけで突っ走って失礼な態度を取ってしまったわ……)
悲劇のヒロインぶっていたことが急激に恥ずかしくなった。
優しい彼を無下にする振る舞いをして、私は人でなしだ。許してもらえるかどうかはわからないが、謝罪は必要だろう。
とはいえ、やはりもう以前のような気持ちを抱くようなことはないと思う。私にとって彼は、憧れではあったが、向き合って自分の臆病さを乗り越えようと思える相手ではなかった。対個人としては怖気づいて逃げ出す対象であり、自覚してしまったらいたたまれなさの方が勝ってしまう。分不相応だと自ら認めて尻尾を巻いて逃げたのを認めるのは辛いけれど、私は逃げる自分を選んだのだ。
そのようなことをつらつら考えていると、ミシェルは唸った。
「ダメだわ。この薬は失敗ね。個人の感情の振れ幅を平均値に置き換えて、その上で自分をどう思っているかを算出できなけば意味ないものね……だから好感度がわかる薬っていうのはこれまで作られなかったんだわ!」
何故、誰も作らなかったのかしら? くらいに思っていた「好感度が数値化して見える薬」の欠陥がわかり、更にはそれを補うための方法を思いつかなかったらしい。そして、これまでそういう薬が作られなかった理由を理解して深く頷いている。
私にも似た経験があるのでよくわかる。どうしてやらないのだろう? と思って自分がやってみると、それがいかに困難なことかをやっと理解できるということが。
「それでもおおまかにでも好感のあるなしを数値として出せるところまでの薬を作ったことは、とてもすごいことだと思うけどね」
だから、私は言った。慰めではなくて、心からの賞賛である。
ミシェルは珍しく照れ臭そうに笑い、ありがとう、と礼を述べた。
そんなわけで、好感度が見える薬については新事実が分かり、数値は絶対値ではなくて、相対値だから、あまり参考にしすぎるのは危険である。好意のあるなしがわかる程度に思うくらいが良い――そういう結論でこの騒動は片が付いた。
私はそれ以上は考えなかった。
数値が相対値で、感情過多の傾向にある人間は全体的に高くなるらしいといっても、「1011」なんて数字はいくらなんでも高すぎるということを。
考えたくなかったのだ。
何かを、期待して、期待した先にあるどうしていいかわからなくなる不安を感じるのを避けるために、何もかも終わったことにした。
◇◇◇
「作れないとはどういうことかな? 順調と聞いていたが?」
報告書に目を通してクリストファーは楽しそうに目を細めた。だが、目の奥は少しも笑っておらず、鈍い光を放っている。
彼は退屈していた。幼い頃から、できないことなど何もなかった。そして、自惚れてもいたし、高慢でもあった。わずらわしさを回避するために愛想よくはしていたが、他人を見下してつまらないものと馬鹿にしていた。
そんな彼に転機が訪れたのは八歳のとき。家柄の釣り合う令息と「お友達」になり、社交の為に各家を訪問する。公爵家の跡取りとしての務めを果たしていた。そこで一人の女児と出会う。女児はクリストファーが来訪しているにもかかわらず、兄と遊ぶために突撃してきて、こっぴどく叱られていた。
普段は優しい兄の剣幕に、はじめはぽかんとしていたが、だんだんおろおろとしはじめて、最後はぎゅっと目を瞑って立ち尽くしていた。それでも絞り出すような声で、「おにいさまとあそびたかったの」と自分の気持ちを主張した。
クリストファーはギャーギャーやかましい幼児は嫌いだが、侯爵家とは友好関係を築いておくべきと判断して声をかけてやった。叱られているところに現れ、優しく慰めてくれる――見た目も王子様のようなクリストファーに、女児はぽっと頬を赤らめた。幼くても女だなと、クリストファーは内心で冷笑した。
その後も、クリストファーは女児と顔を合わせると優しく接した。
第一印象は大事というが、彼女は女児から少女へと成長する過程でも、クリストファーに最初に抱いた憧れを抱き続けた。それは、クリストファーも感じていた。というよりも、そうなるようにクリストファー自身が意識して振舞った。自分を王子様のようだと信じている彼女が滑稽であり、可愛らしくもあった。彼女は自分に好意を持っているのに、どうこうなろうとしてこないところもよかった。優しくすれば勘違いして、欲を出してくる者が多い中、彼女だけは一定の距離で憧れを抱くのみである。それが心地よかったのだが。
ある日、見てしまった。
彼女には幼馴染がいた。その幼馴染に向ける眼差しに、見知った色があった。――恋情。見間違うはずもない。たしかに、彼女は恋をしていた。
身体中から力が抜けていくような喪失感にクリストファーは襲われた。
彼女の好意は自分にあるとばかり思っていた。慎ましい、けして一線を越えない、憧れという好意。それが心地よくて、変わらない彼女の姿を可愛いと思っていた。
その彼女が、恋をしている。
自分ではない他の男に。
その男に対する感情は、自分へ向けられた好意とはけして相いれないもので、そういう質のものを向けられることを嫌悪していたはずなのに。彼女はそうではないから、それがよかったと思っていたはずなのに。それが、自分ではない者に向けられていると知った途端、まるで天地がひっくり返ったような、腸が煮えくり返り、同時に途方もない喪失を感じている。
自惚れていたのだ。
彼女の憧れは、やがて恋慕に到達する。今はまだ幼いだけで、だから欲のようなものがないのだと。花開かぬ蕾のままで、純粋に焦がれてくる姿が、愛おしくて仕方なかったが、それも時が来れば、よい香りの花になると信じていた。
それが。
裏切られたと思った。
裏切られたので、絶対に許さないし、絶対に逃がさないと誓った。
それからは、これまで以上に優しく接した。心の中の禍々しい独占欲など微塵も見せず、完璧な王子様として接し続けた。優しく、優しく、誰よりも、何よりも、この世で一番、彼女に甘い男は自分である。やがて彼女も気づくだろう。この世で一番、彼女を甘やかし大切にしてくれるのは誰なのか。そうして思い知ればいいと思った。
だというのに彼女の態度は一向に変わらない。クリストファーの思いに気づく素振りもない。ただ、優しく紳士的な兄の友人ぐらいにしか思われていない。ならば、一層、冷たく突き放してみようかとも考えた。いい人から抜け出さなければ憧れからも抜け出せない。しかし、今更である。今更冷たくなんて、あの子に冷たくするだなんて、そんなことが出来ようはずもない。
おそらく、自分は、失敗したのだ――その事実に行きついたとき、彼は心底動揺した。
動揺し、そうして現実逃避をした。
少なくとも嫌われてはいないのだから、どれくらい好かれているかを知りたい。たとえ恋情でなくとも好意を持たれている事実に縋ろうとしたのだが。
「申し訳ありません。試作品が思った効果を発揮せず、実用的ではないと判断したとのことです」
公爵家お抱えの影に命じて、幾人かの有能な研究者に「好感度がわかる薬」の開発を依頼したが、一番見込みのあった者からも頓挫したとの報告を受けた。
「もういい。さがれ」
その言葉に、影は音もなく消えた。
それにしても、なぜ、こうもうまくいかないのか。彼女に関するすべてが悉く思う通りにならない。
先日も、夜会で会ったとき、彼女の様子がおかしかった。ありえないことだが、彼女はクリストファーを拒絶したのだ。
考えられない振る舞いに、目の前が赤く染まり、獰猛な感情が湧き上がってきたが、それでも彼女に乱暴な真似はどうしてもできなかった。
なぜ。なぜ、こんなことになったのか。最初は単なる社交の一環で、それからは面白半分だったはず。本当に大切になるなど思ってもなかった。こんなはずでは全然、少しも、これっぽっちもなかった。こんな風になるなら、もっと違った態度で接していたのに――すべては後の祭りである。とはいえ、だからといって諦める気もないのだが。
幸い彼は公爵家の嫡男で、彼女は侯爵令嬢で、釣り合いがとれており、互いに婚約者もいない。クリストファーが一言告げれば、すぐさま婚約することは可能だろう。
でも、それで、万が一にも拒絶されたら? 公爵家の威光を以てしても、否定されたら?
恋は人を臆病にする。
彼女が自分を好きでなくてもそばに置いておきたいと思うほどに執着はしていたが、彼女から嫌われたくない気持ちが上回った。だから、今一歩強引には出られない。
「どうしたら?」
つぶやきは、虚しく消えていった。
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