81 アイリスの胸騒ぎ
その日から白首は広場に下りてアイリスに体を触らせるようになった。
目を半分閉じてグリグリと頭をこすりつけてくる。体の大きさが全く違うから、アイリスが両足を踏ん張っていないとあっさり押し倒されてしまう。
だが、すぐに白首のほうが力を加減するようになった。
「あなたは賢いのね」
「クルルルル」
「白首って名前は可愛くないから、私だけはルルって呼ぼうかな。ルルって名前はどう?」
「クルルルル」
何度か白首に「ルル」と声をかけると返事をするようになった。体は大きくてもアイリスにとっては可愛い相棒のような存在になっている。
広場でアイリスと白首が触れ合っている姿を目にしているのは、広場にいる王空騎士団員と訓練生、周辺に屋敷を構えている貴族たちだけ。だが、その話はあっという間に身分を超えて人々の間に広まった。
「アイリス様は巨大鳥と触れあうことができるらしい。貴族家の使用人が買い物に来て教えてくれた」
「特別に大きな巨大鳥が、アイリス様に懐いたそうだ」
「俺はアイリス様と巨大鳥が楽しそうに飛んでいるのを見た」
「私も見たわ。巨大鳥がアイリス様と、仲良さそうに飛んでいたの」
渡りの期間中、いつもなら家の奥深くで静かに夜を待つ人々が、『巨大鳥に懐かれたアイリス様』を見たくて、のぞき窓から外を見るようになっていた。結果、アイリスと白首が楽しそうに空中で戯れる姿をたくさんの人々が目撃した。
「やはりアイリス様は女神様の申し子。聖アンジェリーナの再来だ」
渡りの期間は夜だけしか家を出られない生活なのにもかかわらず、アイリス宛てに菓子の箱や花の鉢植えなどが続々と届く。こんなことはマヤが王空騎士団で事務員として勤め始めて以来初のことで、マヤは贈り物を受け取りながら「アイリスはすっかり多くの人々に慕われているのね」と喜んだ。
当のアイリスは毎日白首と遊ぶのが楽しいものの、囮役の仕事をできていないのが悩みの種だ。
だが団長のウィルには考えがあった。
「囮役はアイリスほど速くなくても他の団員が務められるが、白首の相手はアイリスにしかできない。白首が近い将来に群れのリーダーになった場合、アイリスが仲良くなっておいて損はない」
「私はこのままでいいんですか?」
「ああ、かまわない。白首と心を通わせるのもアイリスの仕事のうちだ」
団長の許可が出たのでアイリスは心置きなく白首と戯れることができるようになった。
サイモンがリトラー家にやって来たのは、団長とアイリスの会話の数日後である。アイリスの部屋に通されて二人になると、サイモンは緊張した顔で話を切り出した。
「明日、ジュール侯爵家から正式な婚約の申し込みがリトラー家に来る。それまで待つように言われたけど、僕はまず自分の口からアイリスに申し込みたいんだ。アイリス、もう一度僕と婚約してくれる?」
そう言われてアイリスが泣き笑いの顔になった。だが返事がない。サイモンが焦ってアイリスの顔を覗き込んだ。
「アイリス? もう一度婚約してくれるよね?」
「私でいいのかしら」
「えっ? どういうこと?」
喜んでくれると思っていたサイモンは本気で慌てた。
「私は嬉しい。でもね、また横やりが入るような気がしてならないの」
「そんなことはないよ。フェリックス王子は帰国したじゃないか。もう心配いらないさ」
「私も頭ではわかってる。だけど、この前ゾーエ神殿長に婚約も……その、結婚も自由だと言われて大喜びしたあとで、なぜだか横やりが入る気がするようになったの。変なこと言ってるわよね。だけど、このあたりが……」
アイリスはそっと自分の胸に手を当てた。
「気のせいだ。いろんなことがあったから、不安になっているだけだよ」
「そう……よね」
「もう大人の事情に振り回されることはないと思うけど」
「ええ、そうよね。ごめんなさい、変なことを言ったわ。サイモン、喜んで婚約の申し込みをお受けします」
「ありがとう、アイリス」
サイモンはまだ不安そうな顔をしているアイリスを励まし、王空騎士団へと帰った。
(私はきっと心配しすぎなんだ)
アイリスは不安が消えない心に蓋をして、家族に婚約の申し込みを受けた報告をした。もちろん家族は大喜びである。
翌日の夜、ジュール侯爵家からリトラー家に使いが来た。
『侯爵家で婚約式を行いたい』との手紙を受け取って、夜間にリトラー家の全員でジュール侯爵家に足を運び、今回は両家の家族全員揃っての婚約式となった。
サイモンは黒のスーツの上下、アイリスはジュール侯爵家で用意した青いドレス。
二人で書類にサインをして、あらためて婚約のし直しとなった。サイモンの顔の傷は完全に塞がってはいるものの、整った顔立ちに縦に走る傷が痛々しい。
久しぶりに会ったサイモンの顔の変わりようにアイリスの家族は皆驚いた。そんなリトラー家の前で、サイモンが自分からその話題に触れてきた。
「驚かせてしまいましたね。詳しいことは言えませんが、仕事でついた傷です。もう痛みは全くありません。アイリスさえ嫌だと言わない限り、僕はこの傷を気にしません。むしろ貫禄がついたなと思っているくらいです」
そう笑って説明するサイモンにアイリスの父ハリーは真面目な顔でこう返事をした。
「騎士の顔の傷は敵に背を向けなかった勇気の証です。尊敬しております、サイモン様」
「そうだよ、サイモン。騎士に傷はつきものだ。私はお前を誇りに思っている」
ハリーに続き、ジュール侯爵も本音を述べる。それを聞いている侯爵夫人もアイリスの母も小さくうなずいている。
こうしてアイリスとサイモンの婚約は結び直され、翌日も夜明け前から仕事があるアイリスに配慮して、夕食を兼ねた簡単なお祝いの席が設けられた。和やかに夕食会は進み、笑い声が何度も起きる。
アイリスは(そうよね。大丈夫。これで全てうまくいく)と自分に言い聞かせた。
最後に侯爵が挨拶をして締めくくった。
「慌ただしくて申し訳ないが、今夜はこれでお開きといたしましょう。アイリスは明日も早くから仕事だ」
「侯爵様、どうぞアイリスをよろしくお願いいたします」
「安心してお任せください。渡りが終わって落ち着いたら、あらためて皆で集まりましょう」
馬車に乗って帰るリトラー家をサイモンがフェザーに乗って護衛し、その夜は和やかな雰囲気のまま終わりとなった。
・・・・・
その頃、王都から百キロほど離れた漁村を目指して、三隻の船が航行していた。
船は、輸出入の玄関口である『西の港』からあえて離れた場所を目指している。国旗を示す旗も所有者を表す旗もない。一見普通の漁船だ。
だが、乗っているのは全員、大陸の飛翔能力者であり『空賊』と呼ばれる男たち。
空賊の首領ギヨムは船室で酒を飲みながら、古参の手下を相手に話をしていた。ギヨムは今も、自分が可愛がっていた部下を大勢失った怒りを忘れないでいる。
「巨大鳥が来る前にグラスフィールド王国に行って、あの女を奪う。多くの仲間を海に落としたあの女に復讐してやらなきゃ気が済まねえ」
「しかし親分、王空騎士団が大人しく仲間を差し出すとは思えねえんですが」
「まあな、あっちは子供のころから戦闘訓練をみっちりやってる。俺たちみたいな寄せ集め所帯とは違う。だからここを使うのさ」
ギヨムは自分のこめかみを指でトントンと叩いた。
ギヨムたち空賊は、最近までずっと大陸の南岸を中心に船を襲っていた。だから今年に限って、巨大鳥の群れが一ヶ月以上も早く来ていることを知らなかった。





