80 巨大鳥の匂い
フェリックスとミダスを乗せた馬車は、マウロワの護衛兵とグラスフィール王国の軍人たちとともに西の港に向けて出発した。
それを見送っているアイリスにゾーエが話しかけてきた。
「アイリス。私はミダスのことを腹黒い人間でしかないと思ってきたけれど、今回じっくり話し合ったら見方が変わりました。あなたのおかげです」
「私ですか? なぜでしょう」
「あなたがいなければ、フェリックス殿下はこの国に来ることはなかった。殿下が来なければ、ミダスが同行して来ることもなかった。ミダスがね、この私に頭を下げたわ」
(エルシア教の頂点にいる人物が頭を? なぜ?)
「とある事情で、ミダスは私が邪魔だったのです。だから国を閉じているグラスフィールド王国の神殿長に私を選んだのですよ。国を閉じているだけではなく、年に二回も巨大鳥がやって来る危険な国。ミダスは私が死んでくれたら上々、くらいに思っていたはず。でも、年月は人を変えるわね。自分は間違っていた、お前に悪いことをした、と深々と頭を下げたわ。だからこう答えたの」
ゾーエは常より穏やかな表情で言葉を続ける。
「最初は恨んでおりました。ですが今は、この国の神殿長であることが誇りであり、あなたに感謝をしています、とね。私はこの国に来たおかげで、あなたに会えた。その素晴らしい御業をこの目で見ることができる。ミダスのおかげで、私は歴史の証人になれるのです」
「神殿長……」
「アイリス、女神が与えてくださったその力を、思う存分使いなさい。それと、今夜からでも自宅に帰っていいわよ。もう、あなたを縛っていた面倒な大人の思惑は消えたのだから」
アイリスは嬉しくて、思わずゾーエに抱きついた。
「神殿長! ありがとうございます! これから家に帰ります!」
「ちょっと、これ、アイリス!」
「あっ、すみません。嬉しくてつい」
アイリスが赤くなってゾーエを抱きしめていた腕を放した。ゾーエは笑っている。最初に会ったときの厳しそうな人という印象は、すっかり塗り替えられている。
「アイリス。もうサイモンと婚約しようが結婚しようが、自由になったのよ。おめでとう」
アイリスはさっき放したばかりのゾーエをもう一度抱きしめた。ゾーエは怒らない。
「幸せになりなさい。恋も結婚も知らないまま人生を終えたアンジェリーナの真似をしてはだめよ。私たちの申し子様には、幸せになってもらわないと困ります」
「はい……はい」
「それと、たまには神殿にも来てくれると助かります。信者の皆さんがあなたに会いたいでしょうからね。追ってこの日に、と王空騎士団に連絡します。来てくれるかしら?」
「はい! はい! 必ず来ます!」
嬉しくて涙が込み上げるが、「さあ、早く帰って家族を安心させなさい」と背中を押されて神殿を後にした。
突然帰ってきたアイリスを見て、家族は全員驚き喜んだ。リトラー家の三人も、のぞき窓からアイリスの活躍を見ていた。サイモンとの婚約を元に戻せることも泣いて喜んでくれた。
「明日、サイモンに会って報告して来るわ」
「アイリス、本当によかったわね。今朝、巨大鳥があんなに怒っているのを見て、私はこの世の終わりだと思ったわ。なのに、あなたが全ての巨大鳥を誘導して飛んで行った姿を見たら、私は別の恐ろしさで泣いてしまったわ」
「そうよ、母さんだけじゃないわ。私も父さんも全員が心配で泣いちゃったんだから」
「ルビーお姉ちゃん……」
その夜は家族で泣いたり笑ったりを繰り返し、アイリスは久しぶりの実家を楽しんだ。
翌日。
巨大鳥たちはいつも通りに広場に来て、家畜をつかんで去って行った。その中に傷ついた個体を見つけ出そうとしたが、誰も見分けられなかった。
第三小隊長のギャズは「矢傷では死んではいないだろう。治りが早かったのかもな」と言う。
王空騎士団は通常通りに見守りと誘導に力を注いだ。ただ、アイリスだけはいつも通りにはいかなかった。
白首が遊びに誘ってくるのだ。
白首は餌に向かおうともせず、アイリスの周囲を飛ぶ。「クルルルル」と可愛らしい声で鳴きながら、アイリスを中心に円を描いて飛んでいる。
(私がここにいては危ない)と判断して、アイリスは上空へとフェザーで飛んだ。白首はぴったりくっついてくる。
上空二百メートルくらいの位置で追いかけっこをして、他の巨大鳥がいなくなるのを待った。一人と一羽で飛び回っている間に、白首以外の巨大鳥は全て森へと帰って行った。
最後に白首は家畜のいる柵の中ではなく、柵の外の石畳に下りた。そしてジッとアイリスを見ている。(どうしよう)と迷っていると、ギャズがスウッとフェザーで隣に来た。
「どうする? 白首に近寄るなら、俺が援護に立つが」
「いえ……ギャズさんが近くにいると、白首が警戒するような気がします。大丈夫です。フェザーに乗ったまま近寄りますから。いざとなったら全速力で逃げます」
「わかった。いつでも飛んで逃げる準備はしておけよ」
「はい」
フェザーに乗り、アイリスは白首に近寄った。
白首は動かない。正面から向かい合い、目と目を見合わせる。以前はあんなに恐怖を感じた黒く丸い目が自分を見つめているのに、恐怖心は湧かなかった。
「白首、もっと可愛い名前をつけてあげればよかったわね」
「クルルルル」
「あなたはオスなの? メスなの?」
「クルルルル」
少しだけ迷って手をゆっくり持ち上げた。
「触ってもいい?」
「クルルルル」
(動物相手に緊張したら伝わってしまうわよね)と思うが、やはり緊張する。恐怖はあるものの、(白首がここまで懐いているのなら大丈夫)とも思う。
フェザーに乗ったまま、ゆっくり近づき、白首の隣に立った。白首が少し首を動かしてアイリスを見る。
(優しく。ゆっくり)
白首はアイリスよりはるかに大きく、頭の位置は二メートル半くらいだろうか。見上げる高さだ。ちらりと周囲を見ると、全ファイターたちが、いつでも飛び出せるように構えてこちらを見ている。
アイリスは白首を驚かさないよう、ゆっくり腕を伸ばして翼に触れた。硬そうに見える翼は、思っていたよりもずっと柔らかい。
「クルルルル」
「触らせてくれてありがとう」
なぜか小声になってしまう。もう一度撫でてみようと腕を動かしたところで、白首が頭を下げてアイリスの顔にグッと嘴を近づけてきた。
(襲われるっ!)
あの日と同じように、全身の皮膚がチリチリした。
だが、白首はグリッとその頭をアイリスの顔に押し付けてきた。
「え」
白首がアイリスにグリグリと頭をこすり付けている。
「ありがとう」
そっとその頭を撫でると、「クルルルル」と鳴く。アイリスは嬉しくて、爪先立って巨大鳥の体に抱きつき、自分からも顔を翼にこすり付けた。
巨大鳥の体は、日向に置いておいた毛布みたいないい匂いがした。





