79 鍵
その夜は渡りの期間中にしては珍しく、外に出る人が多かった。
朝に見た一連の景色を、皆、誰かと語り合いたくてたまらないのだ。
男女を問わず、買い物をする店先や食堂、夜道のそこかしこで、人々が興奮気味に語り合っている。
「見たか?」
「アイリス様だろう? 見たよ! いや、あれはすごかった……」
「うちの女房なんて、『女神の申し子様をこの目で見られた。ありがたい』って泣いてたよ」
「実は俺も涙が止まらなかった。十五歳の少女が巨大鳥の大群を引き連れて飛ぶなんてさあ。ちょっと間違えたら食われてしまうのに、すごい勇気だよなあ。俺たちのためなんだぜ? ちくしょう、思い出したら涙が……」
「俺たちは家の中で静かにしているだけなのにな。アイリス様はあんな……普通はできることじゃないよ。うちの息子と同じくらいの歳なのに、あの勇気は……すごいよなあ」
涙ぐみながら熱く語り合う男たちの会話に、たまたま通りかかった老人が参加してきた。
「たった一人の女性能力者ってだけでもご苦労がおありだろうに、身を挺してあのように群れを誘導してくださった。本当に神々しいお姿だった。まさに申し子様だったなあ」
「それに比べて、聞いたか? あの騒ぎを引き起こしたのは、第一王子だって噂だよ」
「その噂、さっき市場で聞いたところだ。王子は、討伐派なんだろ? ミレーヌ様の影響らしいじゃないか」
「婚約者が大陸のお方だからな。大陸の人間にはわからないんだよ、この国の根っこが!」
そこで三人は心に込み上げてきたやり場のない怒りを吐き出し始める。
「この国は何千年も昔から巨大鳥と共に生きてきたんだ。それをわからない人間は、口出ししないで黙っていてほしい」
「全くだ。この国の人間は、あの教えを信じて生きてるんだ。それを……」
「強弓で射るなんてもってのほかだ! あの騒ぎを見たら、俺は言い伝えは本当だったと心から思ったね!」
「大陸の人間が四の五の言うのなら、アイリス様に巨大鳥を全部大陸まで誘導してもらうぞこの野郎、ってな」
「そうだそうだ。あの群れに敵う軍隊なんか、この世にはなかろうよ」
食料を入れた布袋を肩から下げた女性が、その男たちの脇を通り過ぎながら聞き耳を立て「うんうん」とうなずいて去っていく。
王都の民は今朝、怒りに染まった巨大鳥の群れを見、空気を震わせるような鳴き声を聞いた。
「このまま食われて人生が終わるのかも」と親子、夫婦で抱き合って震えた者も多かった。
それをたった一人で事態を収拾したアイリスは、今や崇められる存在だ。神殿に通っていなかった人々の心も、一気につかんだ。
アイリスは王空騎士団の宿舎に戻ったあと、ファイターたちの手荒い歓迎を受けた。
近寄ってきた男たちは全員、アイリスの頭をごしごしと強く撫で、背中をバシバシたたきながら褒める。
「よくやった!」
「素晴らしかった!」
「アイリスは王空騎士団の誉れだな」
もみくちゃにされているアイリスに、カミーユが近寄ってきた。
「アイリス、団長がお呼びだ」
「はい! カミーユさん」
団長室ではウィルが微笑みを浮かべて出迎え、自分からアイリスに手を差し出した。アイリスが戸惑いながら右手を差し出すと、ガシッと強くアイリスの手を握った。
「アイリス、王空騎士団員を代表して、君の勇気と能力に深く感謝する」
「えっ、あっ、はい……ありがとうございます」
「アイリスは我が王空騎士団の誇りだ。よくやった。あのままにしておけば、興奮した巨大鳥たちが王都の家々を襲ったかもしれない。どの家もそれなりに巨大鳥対策はしてあるが、複数の巨大鳥が同時に一ヶ所を襲えばどうなっていたか」
「はい……」
ウィルがアイリスの手を放し、座るよう促した。
「だがな、今回のアイリスの一番の功績は『巨大鳥を殺すな』の意味を、四十万人の王都民、貴族、軍人に叩き込んだことだ。一本の矢が、あのような事態を引き起こすとはな……」
「私も、驚きました」
「アイリス、さきほど城から連絡が来た。フェリックス王子は今夜にも帰国の途に就くそうだ」
「そうなんですか! よかったです!」
「お前を諦めたかどうかは不明だがな」
苦い顔で笑うウィルに、アイリスはどう返事をしていいかわからず、黙り込んだ。
「どうしてもお前を連れて行くと言うのなら、私にも考えはある。どうするかはアイリスにも言えないが、安心しろ。さ、明日も仕事だ。今夜はゆっくり休め。本日はご苦労だった」
「はいっ。失礼いたします」
濃い一日を終えたアイリスが神殿に戻った。
神殿も窓という窓、ドアというドアに巨大鳥対策の板が打ち付けられている。たった一か所板を打ち付けていない裏口の狭いドアをすり抜けて、アイリスは中に入った。
「ただいま帰りました!」
「アイリス様!」
「シーナさん、様づけなんて……どうしたんですか?」
シーナは今までもアイリスに優しく接してくれていたが、今は表情の奥にアイリスに対する畏怖の念が感じられた。
「当然のことです。アイリス様、王都をお守りくださり、ありがとうございました」
「いえ、そんなこと」
背後からゾーエが話しかけてきた。
「素晴らしかったわ、アイリス。あなたは私の計算や演出など、必要なかったのね。自らの勇気と能力で、女神の申し子であることを証明してくれました。生きている間に女神の申し子に出会えて、私は幸せです。さあ、こちらへ」
神殿長室に招かれると、真っ赤な髪の若者と老人がいた。晩餐会で見た覚えがある。マウロワの王子と神殿長だ。
「マウロワ王国王太子、フェリックス様です。そしてこちらはマウロワの神殿長ミダス様。アイリス、自己紹介を」
「王空騎士団のアイリス・リトラーです。お目にかかれて光栄でございます」
「フェリックスだ。座ってくれ。晩餐会では会話をする暇もなかったのが残念だったよ」
アイリスが座ると、フェリックスは興味深そうにアイリスを眺めてくる。アイリスは自分を連れ去ろうとしている男の視線に怯むことなく、無表情に正面を向いたまま、相手の喉のあたりに視線を向けたままだ。
(どんな愚かな人かと思っていたけれど、そんな感じはしない。陽気で活発そうな感じだわ)
「今朝の活躍、見事だった。まさかあの状態で飛ぶ者がいるとはと、我が目を疑った。そして見覚えのある青いフェザー、小柄な体格で君だと気づいた。だからもう一度わが目を疑った」
(この話はどこに着地するの? 大国の王太子だもの。やっぱり油断はできない)
「そう警戒しないでくれ。と、言っても無駄か」
「はい」
「はっはっは。正直なんだな。私は君を連れ帰るつもりで一ヶ月の船旅を経てここへ来た。今朝のあの景色を見るまでは、そのつもりだった。けれど、あれを見て気が変わったよ。そんなことをしたら、私は子々孫々まで『愚王』の誹りを受けそうな気がしてね。そなたもそう思ったのだろう? ミダス」
口を閉じてアイリスをじっと見ていたミダスは、そこで初めて口を開いた。
「わたくしも女性の能力者という珍しさだけの存在だと思い違いをしておりました。ですが、空を覆うほどの巨大鳥の群れを、この少女はたった一人で鎮め、誘導しました。ただ飛べるというだけではなく、この少女は鍵のような存在だと感じました」
「私が鍵……」
「はい。あなたはこの国の鍵です。封印されている扉を開き、この国に新たな未来と可能性をもたらすような」
ゾーエが驚いたような顔でミダスを見ている。ミダスはそれに気づき、苦笑した。
「ゾーエ、私が策略だけでマウロワの神殿長になったと思っているのだろうだが、そうではないぞ。私には人の未来を見通す力が、少しだけあるのだ。ほんの少しだがな。もっとも、『策を弄したことなどない』とも言えないが。ふふふ」
ミダスが笑い、ゾーエはきまり悪そうな顔になった。
「ゾーエ、持てる力を全て使ってこのお方をお守りせよ。そしてグラスフィールド王国の民に伝えるのだ。このお方が何を見て、何をして、どうこの国の未来を拓いたか。しかと見届け、記録し、後世に伝えるのだ。それがお前の役目のようだ」
「はい……ミダス様」
再びフェリックスが口を開いた。
「私は今日の夜には帰ることにしたよ。妹を連れてね。ジェイデンがこの国の王にならないのなら、ここに置いて帰るわけにはいかない。妹のことでもめないよう、父には私が口添えをする」
「殿下、ありがとうございます!」
「君を連れ去ろうとした私に礼を言ってくれるんだね」
「はいっ」
アイリスが本心の笑みで返事をすると、フェリックスは一瞬その笑顔に見とれた。
「殿下」
「わかっているよ、ミダス。諦めた小鳥が思いのほか美しいと思っただけだ。見とれるぐらい、許せ」
その夜、フェリックスは妹のミレーヌを連れて王都を出発した。





