75 白首とアイリスとフェリックス
晩餐会会場の窓が閉められたのを見て、アイリスはホッとした。
(あそこが鎧戸まで閉められた以上、私はもう戻らなくていいのよね?)
それから安心して人々を見おろすと、みんなが笑っている。これから二週間から三週間は家の中に閉じこもる日々と思っていた彼らだ。こうして外に出て集まる機会は貴重な喜びなのだろう。
「アイリス様! お会いできてよかったです!」
「巨大鳥に気をつけてください!」
「また神殿に参ります!」
全ての声に笑顔を向けて手を振り、アイリスは飛び続けた。
「よおし、アイリス、そろそろ終わりだ。みんなに帰宅を促そう」
「はい!」
王空騎士団のファイターたちが神殿の指示で集まった人々に声をかけながら低空で飛ぶ。
「本日の集会はこれで終わりです! さあ、家に帰りましょう。集まってくださり、ありがとうございました。渡りが終わったら、また神殿にどうぞ!」
「みなさん! また神殿でお会いしましょう!」
王都民が帰って行くのを見届けて、王空騎士団も解散した。
「アイリス、ごくろうさんだったな」
「ヒロさん。疲れているところをありがとうございました」
「優秀な囮役を奪われないためなら、このくらいどうってことないさ。さて、俺も帰る。お前も早く寝たほうがいい。明日も白首が『遊んで!』って来るかもしれないぞ」
「そうですね。えへへ」
アイリスとヒロもフェザーで飛び去り、王城前広場は誰もいなくなった。
一方城の中では、中断された晩餐会が再開したものの、ぎこちない雰囲気のまま終わった。
今、ヴァランタン国王と第二王子のディラン、フェリックス、フェリックスの妹ミレーヌが比較的小さな部屋で話し合いをしている。
「フェリックス殿下、ご覧になったように、アイリスはこの国の民にとってなくてはならない存在です。彼女は特別な巨大鳥が生まれたときとほぼ同時に能力が開花した特別な能力者。まさに言い伝えの飛翔能力者なのです。アイリスをマウロワに連れて行けば、我が国の民の間に根強い恨みを残しますよ」
先ほどの景色を思い出したか、フェリックスが一瞬詰まった。しかし気を取り直して反論する。
「ずいぶん大げさですね。確かに多くの民に慕われているようですが、彼女はただの飛翔能力者でしょう。女性の能力者は珍しいですが、それだけのことではありませんか」
ヴァランタンは笑顔を崩さなかったものの、ヒリヒリした空気になった。すかさずディラン第二王子がやんわりと間に入る。
「今日、彼女は巨大鳥と仲睦まじい様子で飛んでいました。フェリックス殿下もご覧になったでしょう? 彼女が誘導したのは群れの中でも特別大きく若い巨大鳥です。あの巨大鳥が群れのリーダーになったら、彼女はこの国を救う女神になるかもしれませんよ」
フェリックスの顔に嘲りの表情が生まれる。
「ほう? どうやって?」
「あの特別大きな巨大鳥がアイリスの指示に従うほど懐けば、巨大鳥の群れ全てを我が国以外の場所に誘導できるかもしれません。そして巨大鳥は千キロの距離を楽に飛べます」
「何が言いたい?」
苛立ちを含んだ声でフェリックスが尋ねると、ディランがチラリと父を見た。ヴァランタンがうなずいた。
「巨大鳥島とグラスフィールド島間の距離はおよそ千キロ。巨大鳥島と大陸間もほぼ同じ千キロです」
ディランがそう言って穏やかに微笑むと、フェリックスが思わず立ち上がった。
「我が国に巨大鳥の群れを誘導すると、そう脅しているのか!」
「そんなことは申しておりませんよ。距離を考えればそれもあり得ると言うだけの話です。どうぞ落ち着いてください」
「貴様!」
ディランに殴りかかるかのような勢いで詰め寄るフェリックス。ミレーヌが兄の身体にしがみついて動きを止めた。
「お兄様、やめてっ!」
「ミレーヌ、まだ間に合うぞ。私と一緒にマウロワに帰ろう。ジェイデンは流行り病だと言うではないか。お前にまで病がうつる前に兄と帰ろう」
「嫌です! ねえ、お兄様、巨大鳥なんてマウロワの軍隊で全滅させればいいのですよ。私のためにそうしてくださませ。あの巨大鳥さえいなければ、私も安心してジェイデン様とこの国で暮らせます」
「お断りします!」
ディランが毅然とした声でミレーヌの言葉を遮ると、フェリックスがニヤリと笑う。
「ディラン殿は我が国の軍が入るのは困るか」
「当然です。どこの国に他国の軍隊を喜んで迎え入れる国がありましょうか」
「フェリックス殿下、その辺で」
背後から声がして、全員が振り返った。マウロワの神殿長ミダスだ。
「お話の途中で失礼致します。殿下、あの娘を連れ帰るのは考え直されるのがよろしいと存じます。どうも間尺に合いませぬ」
「なぜだ!」
ミダスはヴァランタンが視線で椅子をすすめるとゆっくり座り、語る。
「女神の申し子としてあれほど民に愛されている娘を連れ帰れば、この国の民たちの憎しみを買うだけではありません。マウロワの信者たちからも反感を買うでしょう。命懸けで戦場に立つ兵士たちは女神の怒りを恐れるものです」
「いいや。女神の申し子を連れ帰れば、むしろ喜ぶのではないか?」
ミダスがやんわりと首を振る。
「民を侮ってはなりません。何か不都合なことがあるたびに『殿下が無理にあの娘を連れて来たから』と言い出しますぞ」
フェリックスが怯んだ。
「民だけにあらず。玉座を狙うお身内は、嵐が来ても洪水が起きても『それ見たことか』『嫌がるあの娘を故郷から連れて来たから』と殿下を批判するでしょう。それほどの憂いと引き換えに連れ帰る価値があるとはとても思えませぬ」
それは先ほどまで別室で、ゾーエがミダスに言い募った言葉だ。ミダスは自分の隠し子であり、国を閉じているグラスフィールド王国に追いやったゾーエに詰め寄られたのだ。
「ミダス様、あの子を連れ帰るというなら、私にも考えがあります。どんな手を使ってでも、あの子を守りますよ」
「なぜそこまであの娘にこだわる!」
「国が滅びるときに『ああ、あの時が運命の分かれ道だったのか』と後悔したくないからです。後悔を抱えながら女神の御前に出たくはありません。ミダス様にも、覚えがございましょう? 道を間違えなければ、この私は存在しなかったことですし」
「ゾーエ! 軽々しくそのようなことを口にするな! 誰が聞いているかわからぬ!」
「ほほほほ。これは失礼」
あちこちで大人たちが火花を散らす原因となったアイリスはというと、この日から毎日のように白首と一緒に飛ぶようになっていた。
白首は森からやって来ると、まずはアイリスと一緒に飛ぶ。高く上昇したり遠くまで飛んだり。
時には広場に下りて見つめ合うこともあった。
「いつかあなたに触れたらいいんだけど。背中に乗るのは無理でしょうね」
「クルルルルル」
白首とアイリスの様子は『巨大鳥は恐ろしい鳥』『凶暴な生き物』とのみ思って生きてきたファイターたちには、なんとも不思議極まる景色だった。
一日の仕事を終えて騎士団の建物に入ろうとしているギャズとマイケルが立ち話をしている。他の団員が全員玄関を通り抜けるのを待っているのだ。
「特別な巨大鳥と特別な能力者って、敵対するものだとばかり思っていたよ」
「ギャズ小隊長もですか。僕もです。あの景色を画家に描かせたいですね」
「侯爵家の広間に飾るってか? マイケル」
「違いますよ。僕の個室に飾るんです」
「サイモンが嫌がるわな」
「あっ、そうでした」
そこにサイモンがゆっくり歩いてきた。
「僕はそれほど心が狭くありません、マイケルさん。でも、アイリスは後ろ姿だけにしてくださいね」
「十分心が狭いよ、サイモン」
日々神経を張り詰めるような状況で働いているファイターたちも思わず笑って聞いている。
穏やかな空気の中をファイターたちが自分の寝床へと消えて行った。
事件が起きたのは、フェリックスたちが王都に来て五日目。ディラン第二王子が「帰国にも一ヶ月はかかります。あまりお国を留守にするのも政務に差し障りが出るでしょう。差し出がましいのは承知しておりますが、そろそろお国にお帰りいただいたほうがよろしいのでは」と帰国を促した日だった。