74 晩餐会
上空へ。上空へ。もっともっと上空へ。
アイリスと白首は、並んで上昇している。恐怖心よりも楽しさのほうがはるかに大きい。思わず顔が緩んでしまう。
「楽しい! こんな日が来るなんて! 嘘みたい!」
「クルルルルル」
「あなたも楽しいの?」
通じるはずがないと思いながらも白首に話しかけてしまう。
アイリスと白首は低層の雲を抜け、さらに上昇する。やがて薄い雲が散在する空域に出た。空気が冷たく、息が苦しい。マスクをずらして口でハァハァと息をした。
「空気が薄い。そろそろ戻らなきゃ」
アイリスが空中で止まると白首はアイリスを中心にしてゆっくりと旋回している。
「白首! 戻ろうよ! ヤギを持ち帰るといいわ」
「クルルルルル」
白首を大きく引き離さないよう気をつけながら、地上を目指す。白首は昇ってきたときと同じように、アイリスに寄り添い、一定の間隔を保って下降している。それだけでも巨大鳥の知能の高さを感じられる。
広場と柵の中にいる家畜たちが見えてきた。
だが白首は家畜を捕まえず、ゆっくりと羽ばたいて巨大鳥の森に帰って行く。
「おなかは空いていなかったってこと? じゃあ、なんのために来たの?」
「アイリス! よかった、無事だったか」
「ギャズ小隊長」
ギャズが両膝を軽く曲げた独特の姿勢で飛んできた。
「一体、なにがどうした? 白首がお前に懐いているように見えたぞ」
「私にもなにがなんだか。可愛い声で鳴いたんです。クルルルルルって」
「巨大鳥が?」
「巨大鳥が」
ギャズは納得いかない表情ながらも「とりあえず仕事に戻ろう」と下降していく。その背中を見ながら、アイリスは小声でつぶやいた。
「そうなんです。巨大鳥が私に懐いたみたいに遊んでくれたんです」
アイリスは自分でも今の出来事が信じられない。心が浮き立って空中でジタバタしたいぐらいだ。
『特別な巨大鳥が生まれるとき、特別な能力者もまた誕生する』という言い伝えを思い出す。
「あの言い伝えが『人間と仲良くできる巨大鳥』という意味だったら嬉しいけど。でも、油断して近づきすぎたら、パクリと食べられちゃったりしてね」
苦笑して自分の仕事に戻った。
交代で短い休憩を取りながら、その日も日没まで飛び続けた。アイリスはさほど疲れていないが、ぐったりしているファイターも少なくない。疲れを見せているファイターたちは一様に三十代後半だ。
(三十八歳でファイターを引退する規則は、実情に合わせている、ということなのかな)
若い自分がそんな言葉をうっかり口にすれば、ベテランたちの神経を逆なでする。だから言葉に出さず、胸の中の独り言にした。先輩たちが地上に戻って行くのを待って、アイリスも王空騎士団の建物に戻った。建物の前にウィルが立っていて、声をかけてきた。
「アイリス、ちょっと来い」
「はい、団長」
小走りになって団長室に向かうと、団長ウィル、副団長カミーユ、ゾーエ神殿長が座っていた。
「本日の王家主催の晩餐会にお前が招待された」
「ぐっ。ゴホッ! ンンッ!」
思わず喉の奥から変な音を出してしまい、ごまかすために咳払いをした。
「それはお断りできないんですよね?」
「陛下のご招待だからな。だが、ゾーエ神殿長に考えがあるらしい。ここから先は神殿長が」
「アイリス、聞きなさい」
ゾーエが落ち着いた様子で話し始めた。
「今夜の晩餐会の途中で、民たちが広場に集まります。あなたの名前を呼んで称えるでしょう。そのときに民たちの上をフェザーで飛べるよう、フェザーを忘れずに準備しておきなさい」
「はい」
「あなたはゆっくり民たちの上を飛べばいい。できれば申し子の真っ白な衣装が望ましいけれど、王空騎士団員として招かれているから、騎士団服なのは仕方ないわね」
そこでウィルが口を挟む。
「神殿長、ではアイリスにマントを使わせましょう。白に金糸で刺繍してある騎士団の正装で飛べばよいのでは?」
「それがいいわ。風にマントを翻しながら飛ぶ申し子。いいわね。アイリス、あなたがこの国の民たちにどれほど慕われているか、見せつけてやりなさい。そのあとのことは、私に任せて」
そう言ってゾーエは薄く笑った。
団長室を出ると、事務員のマヤが待っていた。
「アイリス、晩餐会の服装はどうするって?」
「騎士団の制服です」
「そう。ならいいわ。あなたがピンクのドレスで参加したら、『こりゃ可愛い』って連れて行かれるもの」
「可愛くはないですけど」
「何言ってるのよ。アイリスは可愛いわよ! いい加減気がつきなさいよ! 全くもう、サイモンの心労がしのばれるわ」
アイリスは苦笑して神殿に帰った。
なにやら神殿のなかがザワザワして神官の女性たちが走り回っている。理由がわからないまま晩餐会の時間になったのでアイリスは騎士団の制服を着て城に向かった。
城までフェザーで移動して門番の前に着地すると、「アイリス!」と声がかかった。
「どこ?」とつぶやきつつ見回すと、上からカミーユが下りて来た。
「団長に頼まれた。これを付けろ」
「マントって、食事のときはどうすればいいのでしょう?」
「つけたままにしておけ」
「わかりました。王空騎士団からは、他に誰が参加するんですか?」
「お前だけだ」
「……そうですか」
「ま、安心しろ」
カミーユはそう言ってニヤリと笑うとアイリスの肩にマントをボタンで留めた。そして「これでよし。頑張れよ! 堂々とな!」とだけ言って飛び去った。それを見送り、「ふうう」と困った顔でため息をつく。
「王家主催の晩餐会で堂々と頑張る方法なんて、学院でも家でも習っていないんですけど」
王城の中に入るアイリスの足取りが重い。つけ慣れない真っ白で長いマントを翻しながらフェザーを右腕に抱えて歩くのも落ち着かない。
待っていた文官に案内されて晩餐会の会場に入った。白と金を基調とした広い晩餐室には数えきれないほどのロウソクが灯され、室内は昼のように明るい。案内してくれた文官がアイリスの青いフェザーに視線を向けた。
「フェザーをお預かりいたします」
「いえ、これは必ず近くに置けと団長に指示されました」
「そうですか……。では他の人から見えないテーブルの下に置いていただけますか?」
「はい」
真っ白なテーブルクロスをかけられた長方形の大きなテーブルには、秋のバラが四人にひとつの割合で豪華に飾られている。薄いグラスは完璧に磨かれて並べられ、銀のカトラリーが鈍くロウソクの光を反射している。
陛下から一番遠い席に座るのだろうと思っていたら大きなテーブルの中ほどの席に案内された。
「私がここですか?」
「はい。ここで間違いありません」
文官は手元のメモを見ながらそう言って去っていく。フェザーをテーブルの下のいつでも取り出せるような位置に置いて着席する。
まだテーブルに座っている人はほとんどいない。着席している人にも知っている顔がない。
居心地の悪さを感じつつも背筋だけはぴしりと伸ばした。母に教わった貴族のマナーを思い出して頭の中でおさらいをする。食事のマナーを知っているだけでも心細さはだいぶ違う。
続々と貴族たちが入って来た。
全員が着席したところでマウロワの王太子らしき若者と老人が入ってくる。
続いて国王夫妻。ジェイデン王子は現れず、絵姿でしか見たことがないディラン第二王子がミレーヌと一緒に最後に登場した。
他の貴族たちに合わせて起立し、国王の挨拶に耳を傾けるアイリスは落ち着かない。国王の挨拶が頭の中を素通りしていく。続けてマウロワの王子も挨拶をしたが、形式的な挨拶だった。
全員でグラスを掲げ、「グラスフィールドとマウロワの繁栄を願って!」の掛け声を、アイリスも小声で唱えてから形だけ口をつけた。
(早く終わりますように)
そう願いながら小さく切った肉を口に入れたところで視線を感じた。そちらに視線を動かすと、マウロワの王太子フェリックスが自分をジッと見ている。
アイリスはごくわずかに頭を下げた。フェリックスも笑い返してくる。
(気持ち悪い)
口の中の肉の味が一気にわからなくなった。
(私のことを珍しい動物みたいに思っている人と目を合わせてしまった)
ただただサイモンに会いたかった。
食事が途中まで進んだところで、窓に近い席の貴族たちがソワソワし始めた。皆が一様に窓の方を見ているが、窓は鎧戸で塞がれている。
(まさか巨大鳥の飛来じゃないわよね)
持っていたナイフとフォークをテーブルに置き、いつでも飛び出せるようにフェザーの位置を確かめた。国王に侍従が近寄り耳打ちすると、ヴァランタン国王はおもむろに立ち上がり、窓に近寄った。ディラン第二王子も続く。
「窓を開けよ」
護衛騎士が一瞬躊躇したが、命令に従って窓を手前に開け、次に鎧戸を外に向かって押し開けた。
途端に声の波が室内に流れ込んできた。
「アイリス様!」
「アイリス様!」
「女神の申し子、アイリス様!」
ごうごうと轟くたくさんの声。アイリスは立ち上がり、テーブルの下からフェザーを取り出した。
「おい! 娘! そんなものを持って、どうするつもりだ? 晩餐会の途中だぞ」
フェリックスが咎めると、すかさずヴァランタン国王が声をかけてきた。
「アイリス、民がお前を待っているようだ。姿を見せてやりなさい」
「はい、陛下」
アイリスは作り笑顔で振り向いた。母仕込みの優雅なお辞儀をする。
「民が私を呼んでおりますので、行かねばなりません。これにて失礼いたします」
そう返事をしてフェザーに乗り、開け放たれた大きな窓からスウッと夜空に向かって移動する。国王の前を通り過ぎるとき、「御前を失礼いたします」と声をかけながら頭を下げた。ヴァランタン国王とディラン第二王子が楽しそうに笑っているのに気がついた。
窓から夜空に飛び出ると「ワアアアッ!」という歓声が自分に向かって放たれる。
「堂々と。ただひたすら堂々と」
自分に言い聞かせながら、数千人はいそうな群衆の上をゆっくりと飛ぶと、白いマントが翻る。アイリスは右手を大きく降りながら人々に愛想を振りまいた。毎日毎日神殿でやってきたことだ。
低速で優雅に飛び、笑顔を見せる。
人々は松明をかかげていた。群衆の中の松明の位置が均等で、この群衆が動員されたものであることが察せられた。
「ゾーエ神殿長、やりますね」
白いマントをなびかせながら夜空を飛ぶアイリス。松明で照らされた姿は本当に女神の申し子のように優雅で美しかった。人々は興奮し、手を振り、笑顔と歓声をアイリスに送る。
「アイリス様あっ!」
その声を聞きながらアイリスは飛び続けた。窓際でフェリックスが自分を見ていることに気づいた。同時に、ウィル、カミーユ、ヒロ、ケイン、マイケル、他にも多くの王空騎士団員が群衆の端に立っていることに気がついた。
「みんな、疲れているのに。ありがとうございます。私は王空騎士団の囮役。相手が誰であっても、かごの鳥になる気はないわ」
群衆に笑顔を向けながら、アイリスは自分にだけ聞こえる声で宣言した。