65 古書『巨大鳥の恩恵』
神殿に戻った翌朝、アイリスは再び神殿長の部屋を訪問した。
「おや、アイリス。どうしましたか?」
「サイモンが大怪我をしたこと、侯爵様に伝えたほうがいいのではないかと思いまして」
「いけません」
ゾーエ神殿長は即座に否定した。
「空賊の存在を、おそらく侯爵はご存じでしょう。ですがその養子であってもサイモンは王空騎士団の一員として参戦した以上、負傷の報告は王空騎士団の団長、または王家がすべきこと。婚約を白紙にしたあなたが報告に行くのは間違いです」
「……おっしゃるとおりでした。出過ぎたことを申し上げました」
「わかればよろしい。ときにアイリス。あなたは古代グラスフィールド文字は読める?」
「はい。母に教わりました」
貴族出身の母から、グラスフィールドで大昔に使われていた言葉や綴りを教わっている。母のグレースは「今では貴族でも古代文字を読める人は少なくなっているけれど、知っていて損なことなどなにもない」と言ってルビーとアイリスに教えてくれた。
「この部屋にある本は、代々このグラスフィールド大神殿の神殿長が保管し、受け継いできたものばかり。王家でさえ持っていない本もあります。あなたが古代文字を読めるのならば、この部屋にある本は全て好きに読むといいわ」
「ほんとですかっ!」
「嘘など言いませんよ」
ゾーエは目元に笑みを浮かべ、一冊の本を本棚から取り出して差し出した。
「ただし、王家が国民に伝えていない事が記されている本もあります。あなたには配慮ある行動を求めます」
「わかりました」
「私がいるときなら、いつでも遠慮せずに本を借りに来なさい。私がこれらの本を無暗に抱え込むよりも、あなたが読んで知識を得るべきと私は思っています。七百年ぶりの女性の飛翔能力者には、できるだけの知識を持ち、十分に活躍してほしいのです」
「ありがとうございます。ではまず、これをお借りします」
渡された本を抱えて、部屋を出た。廊下の明かりで本のタイトルを見て、一瞬動きを止める。
『巨大鳥の恩恵』
ずっしり重い茶色の革表紙。金箔を貼られた文字。優美な飾り文字で、そう綴られている。
パラパラとページをめくれば、その本は限りなく薄く整えられた羊皮紙を綴じたものだ。
「恩恵って、なに」
朝食が終わったら昼食の時間まで、信者たちの前で女神の申し子の役目をしなければならない。時間がもったいなくて、アイリスは部屋まで小走りで戻った。自分の部屋に入り、念のために鍵をかけてから最初のページをめくった。
『巨大鳥は害悪にあらず。女神がもたらす恩恵そのものである』
「どういうこと?」
幼いころ、母親に「巨大鳥なんて滅びればいいのに」と訴えた自分の言葉を思い出した。この国の民は皆、そう思っているはずだ。なのに巨大鳥が恩恵そのものとはどういう意味だろうか。
アイリスは文字自体に装飾が施されて読みにくい手書きの本に集中し、大切だと思われる項目をメモ書きしながら読み進めた。
夢中になって読んでいると、ドアがノックされ、シーナが外から声をかけてきた。
「アイリスさん? もうすぐ信者たちがやってきます。朝食を早く済ませて」
「はいっ! すぐに参ります!」
本の間に自分のメモを栞代わりに挟んだ。部屋を出るにあたり、初めて鍵をかけた。今までは見られて困る物も、万が一盗まれる物もないと考えて鍵を使ったことがなかった。
「誰も盗んだりしないとは思うけど、大切な本だものね」
そう言って食事室まで急ぎ、朝食後に信者の前で女神の申し子役をこなした。
今日も握手を求める人が行列を作っている。言葉を交わしながら信者たちと握手をしていて、ふと列の最後の人の顔を見て「えっ」と思わず声を出した。
列の最後尾に並んでいるのは、従弟のオリバー・スレーターだった。やがてオリバーは何を考えているかわからない表情のない顔で、握手を求めて来た。
「女神様の申し子様にお会いできて光栄です」
「ちょっと、どういうつもりよ。冷やかしに来たの?」
アイリスは周囲の信者たちが去って行くのを確認してから、笑顔のまま小声でオリバーに文句をつけた。目は笑っていない。するとオリバーも薄っすら笑みを浮かべて応じる。
「アイリスが二日間神殿に出てこなかったと聞いたからさ。何かあったかと思って見に来ただけだよ」
「私が留守にしていたこと、なんでオリバーが知っているわけ?」
「僕付きの使用人はやることがなくて暇そうだからさ、毎日神殿に通わせてアイリスの様子を報告させてた。使用人に毎日信仰の時間を与えるなんて、優良な雇い主だろう? どうせ彼は僕が研究している間、控室でダラダラしてるだけなんだし」
「あんたね……。まあいいわ。オリバー、私、今日から神殿長の持っている本を自由に読めることになったの」
オリバーは一度だけ目を大きく見開いてから、にんまりと笑った。
「僕の従姉は有能だなあ。もう神殿長を丸め込んだのか。いや、さすがだよアイリス」
「丸め込んだなんて失礼な。真面目に働いた信頼と実績の積み重ねだから! それと、あなた付きの使用人を雇っているのはオリバーじゃなくて伯父様だからね」
アイリスは憤慨したが、オリバーは聞いていない。
「面白いことがわかったら僕に教えてくれよ」
「神殿長は『王家が国民に隠していることも書いてあるから、配慮を求めます』っておっしゃったわ。だから、どうなんだろう」
「僕に話すことは配慮ある行動だよ。それとね、ぼんくら王子が巨大鳥討伐を唱えているそうじゃないか。貴族の間では王家につくか、討伐反対派につくか、今、水面下で大騒ぎしている。渡りが始まったら、一気に物事が動くはずだ。王空騎士団は討伐反対派なんだろう?」
アイリスは握手していた手を放し、オリバーをまじまじと見た。
「なんだよ」
「ごめんね、さすがにそれは私の口からは何も言えないわ。こう見えても私は王空騎士団員ですからね」
「団体行動に染まっちゃったねえ。そうやって組織に盲従してさ、自分が思考停止に陥っていることに気づかないんだねえ」
「難しい言葉を使ってもだめよ。何も言わないわ。私は団長や副団長を心から尊敬しているんだから」
「ふうん」
オリバーは面白くなさそうな顔になった。
「ただ……。オリバーが天才なのも、鳥や虫や飛翔能力者についてずっと研究を続けていることも私は知っているわ。だから、巨大鳥のことについて書かれていることは教えます。その代わり、誰にも言わないって約束してくれる?」
「約束するよ。そもそも僕はそれを話して聞かせる相手がアイリスしかいないんだから」
「あ……ごめん」
「やめろ。同情するな。僕は貴族の友人なんか必要としていない」
「わかったわよ。怒らないでよ。じゃ、私は掃除を終えたら本を読むわ」
「楽しみに待っているよ。大切なことはメモを書くようにね。アイリスの頭じゃ、大切な項目が漏れ落ちそうだ」
相変わらず遠慮がないオリバーの言葉に苦笑してしまう。
「私、フォード学院に入学以来、ずっと成績では一番だったけどね。わかったわ。じゃ、またね」
そう言ってアイリスはオリバーと別れた。
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