61 行ってくるわね
アイリスが王空騎士団の仕事で戻れなくなったため、国境空域警備隊のジェイコブが神殿へ連絡に飛ぶことになった。
「ジェイコブさん、私のために長距離を飛ぶことになって申し訳ありません」
「気にするな。それより……死ぬな。生き延びろ」
「はい。気をつけます。絶対に死にません」
ジェイコブが夜の闇の中に飛び立ち、消えていく。
それを見送って、アイリスは建物に戻った。
そんなアイリスに一人のファイターが近づいてきた。顔は見たことがあるが、まだ名前を憶えていない人だ。
ニ十歳くらいのその男性は、細い顔立ちの物静かな雰囲気の人だった。
いきなりその団員が頭を下げた。
「すまなかった。サイモンが怪我をしたのは僕のせいなんだ」
「えっと……どういうことでしょうか」
「空賊と戦闘中、僕が四人の空賊に囲まれたんだ。もうダメかと思ったときに、サイモンがそこに突入して二人を斬ってくれた。おかげで僕は助かったけどサイモンが斬られてしまった」
損得を計算しない、正義感の強いサイモンらしいと思う。
「そうでしたか。サイモンが自分で判断したことですから。ええと……?」
「僕の名前はリュカだ」
「リュカさんの責任じゃありません。私に謝らなくても大丈夫です」
「とにかくごめんっ!」
「わかりましたから、もう謝らないでください」
年上の先輩騎士団員のリュカだが、アイリスはリュカに対して、思うことは特にない。サイモンなら相手が誰であっても飛び込んだだろうと思う。彼はそういう人だ。リュカに責任はない。
アイリスはその場にいたのが自分だったら、自分もサイモンと同じことをしただろうと思う。
「リュカさん。明日は私も参戦します」
「アイリスは武器の訓練をしていないだろう?」
「ええ。でも、私ならできることがあります。見ていてください。五分で三人倒したら、この先も空賊退治に参加させてもらえるのです」
「怖くないの?」
アイリスが少し考え込んだ。
「怖さはもちろんあります。でも、それより怒りが大きいから」
「怒りって、なにに対して?」
「それは、言わないでおきます。言葉に出したら止まらなくなりそうなので。リュカさんへの怒りじゃありません。私自身のことです。では、失礼します。本当にサイモンのことは気にしないでください。彼が望んでやったことです」
アイリスは会釈をしてその場を離れ、用意された小部屋で一人、明日にやるべきことを繰り返し頭の中で手順を考えていた。
「絶対に許さない。サイモンのことをよくも斬ったわね。五分で三人なんてケチくさいことは言わないわ。全員……」
そこで頭を振った。
「冷静に。冷静に戦うのよ。サイモンの分まで、きっちり思い知らせてやる」
夕飯を他の団員たちと食べ、再びサイモンの枕元に座った。サイモンは昏々と眠っている。白衣の医師が入って来た。アイリスがいるのに気づくと、診察用の椅子に座って小声で話しかけてきた。
「彼は君の恋人かい?」
「婚約者、でした」
「でした?」
「マウロワ王国の王太子に私のことを知らせた人がいて、私は連れて行かれるかもしれないのです。それを防ぐために、私は神殿預かりとなりました」
「なるほど。たしか神殿は、婚約者や結婚相手がいては受け入れない規則だな」
「ええ、それです」
「名のり遅れた。俺はキースだ」
「アイリスです」
キースは四十歳ぐらいだろうか。日焼けした肌に細身の身体。それが癖なのか、短く刈り上げた茶色の髪を額から後ろへと撫でつけた。
「アイリスは何歳だ?」
「十五歳です」
「そうか。まだ十五歳か。すっかり大人の顔になっているのは、そういう経験のせいかな」
「私は大人の顔をしていますか?」
「している。若くて生命力にあふれているが、怒り、絶望、そんなものが少々滲んでいる。七百年ぶりに生まれた女性能力者は、あんまり幸せではないらしい」
アイリスはキースを見た。強い意志を滲ませてキースに答える。
「今のところは、です。私、大人に振り回されるだけには終わりません。必ずサイモンと幸せになります」
愛らしい顔立ちのアイリスから思いがけず強い言葉が紡がれたことに、キースは驚いた。
「そうか。空賊はたいして訓練されていない。だから逆に思いがけない動きをするらしい。油断するな。君は武器で戦えるわけじゃないんだろう?」
「ええ」
「なにか作戦があるのだろうが、今夜は早く寝たほうがいい。じゃ、恋人たちの邪魔をしたくないから失礼する」
キースが出て行き、再び治療室は二人きりになった。
アイリスはサイモンの手を握り、顔を見つめ続けた。端正な顔は今、眉間から口の脇まで傷が走り、糸で縫い合わされている。
「サイモン。早く元気になって。私……」
そこまで言って耐えきれなくなり、泣き出した。今までずっと泣くものかと意地を張ってきた。
自分を奪いに来るかもしれない大国の王子。
わざわざ自分の存在を王子に教えたミレーヌ。
自分を目の敵にするマリオとソラル。
アイリスの祖父を持ち逃げ呼ばわりしたアガタ。
悔しかったことを思い出しながら、しばらく泣き続けた。泣くだけ泣いて、深呼吸をして泣き止んだ。
「私は空を飛びたかっただけなのに、夢が叶ったとたんにつらいことが多いんだもの。泣いたら負けと思って笑ってきたけど、サイモン、私、少し疲れたわ。でも明日は頑張る。あなたを傷つけた奴がどんな見た目なのか、わかったらいいのに」
アイリスが握っていたサイモンの手がピクリと動いた。
「アイ、リス」
「サイモン。喉は乾いていない? 水を飲む?」
「うん」
「待ってね、今飲ませてあげる」
アイリスが水差しの水をグラスに入れて、サイモンの頭だけを起こしてグラスを口元に運んだ。サイモンは少しずつ飲み、「ふうぅ」と息を吐いた。
「顔と脚が痛いな。斬られた場所はどうなっている?」
「盛大に斬られているから顔は触らないでね。傷口が腐ったら困るから」
「そうか。顔に、傷がある男は嫌いかい?」
アイリスの深い緑色の目から、いきなりぽろぽろと涙がこぼれた。
「大好きよ。顔に傷があったって、サイモンのことが大好きに決まってる」
「よかった」
「おなかは? 空いていない?」
「少し、かな」
「わかった。何か貰ってくるわ」
立ち上がろうとしたアイリスの手を、サイモンが握った。
「もう少し、ここにいて」
「ええ。それはかまわないけれど。どうしたの? どこか痛いの?」
「もう夜だけど、神殿に戻らなくていいの?」
「ええ。明日、空賊退治に行くから」
サイモンの顔が歪んだ。
「君が? やめてくれ」
「いいえ。行くわ。ねえ、サイモン、あなたを斬った相手はどんなやつ?」
「アイリス、やめてくれ、頼む」
「サイモン、私は女だからと守られているつもりはないの。教えて。あなたを斬ったやつのこと」
「はぁぁ」
サイモンが目を閉じてため息をついた。
「いいわ。教えたくないなら諦める。全員を攻撃したら、いつかそいつに当たるわね」
「やめてくれ」
「いいえ。戦うわ。ごめんなさい、サイモン。それは譲れない」
「どうしても行くのか?」
「ええ」
「団長の許可は?」
「取ったわ」
もう一度サイモンがため息をついた。
「くそっ、こんな時に寝ているなんて」
「サイモン、教えて、あなたを斬ったのは、どんな奴?」
「……長い茶髪を高い位置で縛っている」
「それで?」
「背が高い。細身で、ジャラジャラとネックレスと腕輪をしていた」
「ふうん。覚えたわ」
「俺を、笑いながら斬ったよ。笑うと口の右側だけが上がってた」
「へえ……」
アイリスの声があまりに冷え冷えとしているので、サイモンは閉じていた瞼を開けてアイリスの顔を見た。アイリスはサイモンの胸のあたりをぼんやりと見ていた。ほんのわずかに唇が微笑んでいるが、目は全く笑っていなかった。
「サイモン、食べ物を貰ってくるわ。待っていてね」
握っていたサイモンの手をそっとベッドに置いて立ち上がり、部屋を出る。そのアイリスの全身から怒りが滲み出ていた。サイモンは自嘲的につぶやいた。
「こんなときに寝ているなんて」
サイモンは先輩を助けに行ったことは後悔していなかった。怪我はしたが、先輩が背後から斬られて殺されるのを防げた。本当は傷跡ぐらいなんでもない。
今一番恐れているのは、怪我が治ったあと、元通りに飛べるのかということだった。
サイモンはアイリスが運んできた軽い食事を食べた。
噛むたびに顔の傷が酷く痛んだが、「失った分の血液を食べて取り戻さなければ」と自分を叱咤して食べた。
「よかったわ。食欲が出て。きっとすぐに傷は塞がるわよ」
「そうだね。さあアイリス、明日は戦闘だ。早く眠って身体を休めてくれ」
「ええ。そうします。おやすみ、サイモン」
「おやすみ、アイリス」
アイリスはサイモンの額に口づけて部屋を出て行った。サイモンは傷の痛みとアイリスへの心配で眠れない。
数時間後、まだ日の出までだいぶある時刻にアイリスはサイモンの部屋に向かった。サイモンは直前に眠ったところだった。
アイリスは眠っているサイモンに小声で「行ってくるわね」と話しかけ、額に口づけて部屋を出た。