60 サイモンの怪我
ケインは駆け寄ってきたアイリスを見て驚いた顔をしたが、アイリスには小さくうなずいただけで奥に向かって声を張り上げた。
「医務室を開けてくれ!」
奥にいた人が動き、通路の奥のドアを開けてケインを通した。
ケインが医務室の真っ白なベッドにサイモンを横たえると、たちまちシーツが血で染まっていく。サイモンの顔、傷は眉間から鼻の右脇を通り、口の脇まで続いている。
傷はそれだけではない。
右腿の前面にも大きな太刀傷が口を開けていて、ズボンはぐっしょりとどす黒く血で染まっている。
アイリスは医務室までは入ったものの、治療する人々の動きを邪魔しないように壁際に立ってサイモンを見つめた。
本当は駆け寄って手を握って励ましたいが、それは両手をグッと握り締めて我慢した。
(女神様、どうか、どうか、サイモンを連れて行かないでください。お願いします)
目を閉じ、唇を噛んで心で祈る。
祈りながらも取り乱さないよう自制した。ここで自分が取り乱して泣いたところで治療の邪魔にしかならない。
「アイリス、落ち着け。サイモンなら大丈夫だ」
ケインがサイモンの血であちこちを赤く染めた姿で慰めてくれる。
しかしアイリスの目には全く大丈夫そうに見えない。衣服を濡らしている血の量が多い。
サイモンの顔色があまりにも白くて、胸が上下しているのを見ていなかったら、息絶えているようにさえ見える。サイモンの胸は、空気を求めて浅く速く動いていた。
医務室に入ってきた白衣の中年の男性が、サイモンの右脚のズボンをハサミで一気に切り裂いた。
「アイリス、俺はまた海に戻る。人手が足りないんだ。お前がサイモンに付いていてやってくれるか」
「はいっ」
「頼んだ。じゃ!」
ケインは早足で出て行き、建物を出るとすぐにフェザーで飛び去った。
医務室では医師の治療が進められている。
サイモンの右腿の太刀傷はパクリと開いていた。出血は治まりつつあるのだろうが、今もまだ血がジワジワと出ている。
助手の男性がすかさず瓶から透明な液体をジャバジャバと傷にかけた。たちまち部屋に強い酒精の香りが立ち込める。
医師がアイリスに向かって声をかけてきた。
「これから傷を縫い合わせる。そこにいてもいいが、気分が悪くなったら部屋から出てくれ。ここで吐かれては迷惑だ。患者の命にかかわる」
「大丈夫です」
アイリスの返事を聞いて、医師は傷の縫合に取りかかった。
深い傷の中から縫い、筋肉を縫い合わせてから皮膚を縫い合わせてた。それから顔の傷を細かく縫い合わせている。
サイモンは最後まで意識を失ったままだった。
両手も白衣も血だらけにした医師が、手に持っていた縫い針とハサミを台に置いてアイリスを見た。
「やるべきことは終わったよ。あとは傷が腐らないことと、患者の体力が持つことを期待するだけだ。付き添いたいなら付き添っていい。この若者が目を覚ましたら、私に知らせてほしい。私がやれることは、いったん完了だ」
「わかりました。私が付き添います。なにかあればお声がけします。サイモンを治療してくださって、ありがとうございました」
「じゃ、頼んだ」
医者が出て行った。
久しぶりに見るサイモンは少し痩せていた。アイリスはサイモンの手を握って顔を眺め続けた。一時間ほどそうしていただろうか。
「サイモン、ここで戦ってるなんて知らなかった。あなたは訓練生なのになぜ……」
サイモンの額の汗には脂汗が滲んでいる。アイリスはその汗をそっとハンカチで拭った。
「私も頑張ってるわよ。絶対に大人の都合に負けないぞって、朝から晩まで働いているの。聞こえているかな。私がここでしゃべっていたらうるさいかな。でも、黙ってあなたを見ているだけでは、あなたがどこかに行ってしまいそうで怖い。話しかけていてもいいかな」
サイモンは反応しない。
このまま神に召されるのではないかという不安が頭から離れない。アイリスはそっとサイモンの手を握り、小声で話し続けた。
「サイモン、あなた、人間相手に戦っていたのね。空賊に斬られたんでしょう? 私もあなたの隣で戦いたかった」
「……ス」
「あっ。サイモン?」
サイモンが目を閉じたままかすれた声を出した。
「アイ、リス」
「意識が戻ったのね! よかった!」
「水……」
「ここにあるわ。飲める?」
アイリスがサイモンの頭を少しだけ持ち上げ、グラスをサイモンの口に当て、少しずつ水を飲ませた。サイモンはけだるそうに瞼を持ち上げて水を飲んだ。
顔色は相変わらず不自然なほど白い。
「空賊に、やられた。二人、がかりで、挟ま、れて、そして……」
「わかった。無理にしゃべらなくていいわ。お医者さんが傷を縫い合わせてくれたから、あとは身体が傷を治してくれるのを待つだけよ」
「よかった。生きて、いたん、だな」
「当り前よ。生きていてくれなきゃ困るわ。サイモン。今、先生に知らせてくるわね」
治療室を出て医師を探した。医師は向かいの部屋にいた。中年の医師は白衣の前ボタンを全部開けてお茶を飲んでいた。テーブルの上にはそっけない丸いパンと硬そうな干し魚。
「サイモンの意識が戻りました」
「そうか。ありがとう」
医師が治療室に戻る。アイリスも医師に続いて治療室に入った。医者はサイモンを見おろし、手首で脈を取った。
「意識が戻ったか。まずはひと安心だな。傷口が痛いだろうが、それは我慢してくれ」
「は、い」
「君はまだ若いからおそらく大丈夫だとは思うが、無理をすれば傷口が開くし腐る。安静にして傷が塞がるのを待て。食べる、眠る。君が今すべきことはそれだけだ」
「助けて、くださって、あり、がとう、ござ、います」
かすれた小声で受け答えするサイモンを見て医師は、「血が完全に止まったらシーツと衣服を交換しよう。今はとにかく動かないように」と言って部屋を出て行った。
サイモンは再び目を閉じて眠った。しばらく様子を見ていたが目を覚ます気配はない。
アイリスは音を立てないように治療室を出た。フェザーに乗り上空からジェイコブを捜す。かなり上空から下を見ながら捜すと、ジェイコブは港の上空に浮かんでいた。
アイリスは急降下し、近づいた。ジェイコブは気配で気づいたらしく、剣を片手に構えてアイリスを見上げながら近寄るのを待っていた。
「どうした?」
「サイモンが斬られたのは海の上ですか?」
「そうだな」
「私が行ったら迷惑でしょうか」
ジェイコブは少しの間考え込み、首を振った。
「やめたほうがいい。君は武器を使えるのかい?」
「いいえ」
「待て待て。奴らは全員、武器を持って振り回すんだが?」
「ええ。なので彼らの武器を避けつつ……」
ジェイコブがアイリスの言葉を遮った。
「だめだ。君が怪我をしたら、いろいろな意味で厄介だ。やめてくれ」
「そうですか……。わかりました。お仕事中失礼いたしました」
それ以上押し問答するのは無駄と判断して、詰め所に引き返した。
サイモンは眠っている。アイリスはサイモンの枕元に椅子を運び、無言で大好きな人の顔を見つめた。
出血が完全に止まり、シーツが交換された。
サイモンも薄い患者用の服に着替えさせてもらい、水を飲んでまた眠った。
無言で枕元に座っているアイリスの耳に、大勢の人間の気配と物音が聞こえてきた。
「帰ってきた」
アイリスは立ち上がり、玄関まで小走りで進んで王空騎士団を出迎えた。
団長ウィルを先頭に、百人近い王空騎士団員がフェザーで次々と空から降りて来た。ウィルたちはアイリスを見て驚いた。
ウィルの隣に着地した副団長カミーユが声をかけてきた。
「アイリス。どうした?」
「お伝えしたいことがあり、ここまで飛んで参りました、それと、私からのお願いがあります」
「中で聞こう」
全員がホールに入り、フェザーをラックに収納し、解散して部屋へと散っていく。ホールでお茶を飲みながら座っている者もいる。
ウィルが椅子に腰かけた。脇にはカミーユ、ヒロ、ケイン、第三分隊長のギャズ。全員がアイリスを見守って話を待っている。
団長がアイリスに「伝えたいこととはなんだ?」と尋ねた。
「この冬の暖かさが、巨大鳥の渡りを早める可能性がある、と神殿長が心配していました」
ざわざわしていたホールがシン、と静かになった。
「そうか。しかし、二月の終わりまでは、輸出船の警護を投げ出すわけにはいかないんだ。空賊は今が一番出没する時期だからね。仮定の話で空賊退治を早期にやめるわけにはいかない」
「空賊退治に私を使ってください。必ずお役に立てます」
「以前言っていたあの作戦か」
「必ずやり遂げます。団長、私を使ってください」
ウィルとカミーユが顔を見合わせ、迷っている。
「団長、俺は賛成です。アイリスは並外れた能力を持っています。使わなきゃもったいないですよ」
「ヒロ、だが……」
迷うウィルにアイリスがさらに言いつのった。
「最初の十分で空賊を五人はやっつけます。それができなかったら、怪我をしてご迷惑をかける前に大人しく引き下がります」
ウィルがアイリスを見ながら考えている。
「お願いします! 私を使ってください!」
「よし、五分だ。五分で三人。それができなかったら引き下がれ」
「ありがとうございます!」
こうして明日朝、アイリスが輸出船の護衛につくことが決まった。