6 いとこのオリバー・スレーター
オリバー・スレーターは今年九歳。アイリスのひとつ年下だ。
アイリスの母グレースの姉の子で、伯爵家の次男。幼児期からずっと、口数がとても少ない。家族ともあまり会話をしない彼だが、不思議とアイリスに懐いている。
オリバーがアイリスにだけはよく話をするのを見て、オリバーの両親はアイリスにオリバーの相手をしてくれるよう頼んでいる。
裏庭のベンチに腰を下ろし、アイリスはオリバーの方を向いた。
「それで、空気についてわかったことって、なあに?」
「僕たちはここに何もないと思っているだろ?」
「うん。何も見えないし」
「でも、ここには空気がある。空気は目には見えないけど、土や水と同じ『物』だと思うんだ」
「空気は物、ね。覚えておく。それで?」
「人間や魚が水の中で泳ぐように、鳥は空気を使って空を飛ぶんだと思う」
「人間が泳ぐときは水の中で手足をばたつかせるし、魚は水の中で体をくねらせている。そして鳥は空で羽ばたいている。でも、ファイターたちは? あの人たちは羽ばたかないで空を飛ぶわよね?」
「そうなんだよ。ファイターがなぜ空を飛べるかは、どんな偉い学者でもわからない謎だ。それでね、僕はこれからは鳥と魚の研究をしようと思う」
「ねえオリバー、いつか飛翔能力者じゃなくても空を飛べる方法がわかったら、一番初めに私に教えてくれる?」
オリバーは目を丸くしてアイリスを見た。
「アイリスは空を飛びたいの?」
「もちろんよ。フェザーを使って、どこまでも高く飛びたい。空の高いところから、この国の景色を見てみたいわ。あっ、もちろん渡りの季節以外でね」
「怖くないの? 落ちたら死ぬんだよ?」
「フェザーがあれば大丈夫でしょう?」
「馬鹿だな。ファイターだって訓練中や出動中にフェザーが外れて死ぬことがあるじゃないか」
「ほんとに? 知らなかった」
「僕も不思議に思って調べたことがある。フェザーを使って飛ぶことができるなら、自分の靴や服を使って飛べるんじゃないかと思ったんだ」
「へえ! それで?」
「お父様に頼んでお城の書庫に連れて行ってもらったんだよ。そこで調べたら同じことを考えた人は過去にもいた。フェザーの大きさをどこまで小さくできるか、どこまで大きくできるか、実験したらしい」
「それでそれで?」
オリバーは嬉しくなる。アイリスはいつだって自分の話を夢中になって聞いてくれるからだ。
「わかったのは、フェザーは飛翔能力者の身長と同じ長さが一番効率よく飛べるらしい。幅はだいたいだけど、その人の指先から肘までくらい。それ以上でもそれ以下でも能力者は疲れるらしいよ」
「へえ! へえ! 形は? ファイターが乗っているフェザーは鳥の羽の形よね?」
「あれは見た目重視で、本当は細長い楕円形でも長方形でもいいらしい」
「なるほどねえ。オリバーも空を飛びたいの?」
「僕は嫌だね。興味はあるけど。だから判定の日に飛べてしまったらどうしようと思うよ」
アイリスは思わずクスッと笑ってしまった。
飛翔能力を持って生まれた子は、三歳四歳の頃にはたいてい飛べるのだそうだ。どんなに遅くとも全員が六歳までには能力が開花するらしい。
だから国は大きく余裕を見て十歳で判定試験を受けさせる。九歳のオリバーに能力が現れていないのなら、そんな心配は不要だ。
「笑わなくてもいいのに。僕、もう帰る」
「えっ。オリバー、怒ったの? ごめんね?」
オリバーは顔を赤くしたまま返事もせず、振り返ることもなく馬車に乗って帰ってしまった。
アイリスは馬鹿にして笑ったのではなく、『こんなに頭がいい子でも子供らしい心配をするのが可愛い』と思って笑ったのだが。
そのオリバー・スレーターは馬車置き場に向かいながら早くも後悔している。
アイリスはオリバーの話を感心して聞いてくれるただ一人の子で、他の貴族の子供たちのように変人を見るような嫌な目つきをしない。いつだって真剣に話を聞いてくれるし、的を射た質問を返してくれる貴重な存在だ。
オリバーは大変に知識欲がある子で、ハイハイをするようになるころから絵本に興味を持った。それだけならままある話だが、オリバーが常人と違っていたのは、乳母が読んでくれる絵本を見ているうちに絵本の文字と言葉を結び付けて覚えてしまい、誰に教わるともなく読み書きができるようになったことだ。
教わらずに覚えたので文字を書く順番はめちゃくちゃだったが、ある日、オムツも取れない幼児が文字を書いているのを見た父親は仰天した。父親は「この子は天才なんじゃなかろうか」と思い、三歳になる前のオリバーに家庭教師をつけた。
「旦那様、オリバー様は文字を完全にご理解なさっています」
家庭教師も驚き、「これは我が家に天才が生まれた」と一家は大喜びしたものだ。
しかし神様はそう甘くはなく、五歳になる頃にはオリバーが対人関係を上手く築けないことが判明する。どんな子供と引き合わせても、オリバーは相手と協調して遊ぶことができない。
「オリバー、今日も途中で部屋に戻ってしまったそうだね」
「だって、つまらないんだもん。石を投げたり、簡単なボードゲームをしたり、退屈なんだ。それに、僕が全部勝つと泣き出すし。あんな子たちと遊ぶくらいなら、一人で本を読むほうがいい」
そんなことが続き、やがてオリバーは同年代の子供の誰とも会おうとしなくなった。だが例外が一人。アイリス・リトラーだ。
オリバーの母は可愛い息子がひとりぼっちの時間をすごしているのを心配していたから、アイリスの母であり自分の妹であるグレースに頼み込んだ。
「オリバーをあなたの屋敷に行かせるから、アイリスに相手をしてもらってもいいかしら」
「もちろん。アイリスはオリバーを気に入っているもの。我が家はいつでもオリバーを歓迎するわ」
「助かるわ。最近のあの子はおかしなことに夢中なの。鳥と魚に夢中でね。ひたすら鳥と魚の体の構造を調べているのよ。あの子、大丈夫なのかしら」
「将来は学者になるんじゃない?」
仲の良い姉妹はこうして互いの子供を頻繁に会わせることにした。
このときの判断が、のちのちこの国のとある事態を大きく変えることになることを、母親たちはまだ知らない。