57 聖女巡礼
グラスフィールド大神殿を訪れる信者が、日に日に増えている。
週に一度の『信仰の日』も増えているが、それ以外の日も信者の数が増えている。
そもそも、この国では週に一度の『信仰の日』は強制ではない。
王都は別だが、地方では主な輸出品である石炭と鉱石の採掘は三交代制で行われていることから、この国では週に一度の信仰の日に出られない者が多い。
信者は行けるときに行く。
説話の日に休みなら行く。
神殿側がそのゆるさを受け入れなければ、信者は離れる。グラスフィールドの神殿はそう判断し、信者が説話の日に来なくても非難することはない。ゾーエが神殿長になってから、それをはっきり打ち出していた。
「それでは信者の信仰心が薄れる」と言う意見もあるが、ゾーエはその方針を譲らなかった。
「収入を犠牲にしてでも神殿に来いと言えば、いずれは信者に見限られる」というのがゾーエの考えだ。
その考えに表立って反対する者はいなかったものの、納得しない者も少なくなかった。
そこへアイリスが登場した。
ゾーエにとって、アイリスは二重三重の意味で幸運の女神だ。
ゾーエは説話の最後には必ずアイリスを登場させ、信者に向かって話をさせている。
アイリスは王空騎士団の仕事ぶりを話し、自分が囮役として巨大鳥のすぐ前に飛び出して相手を引きつけ、民を守るために飛んでいることを話した。
最初の頃こそたどたどしかった話し方も、回数を重ねるうちに上手くなっていった。
聴衆は手に汗を握って聴き、「この華奢な少女がそんな危険な役目を引き受けてくれている」「我々のために働いている」と感動した。
説話は毎回、盛大な拍手で締めくくられていた。
ある日、説話を聞いて帰ろうとしていた女性が、見送りに出ていたアイリスに声をかけた。
彼女は、ようやく首が据わったくらいの赤ん坊を抱いていた。
「アイリス様、この子を抱いていただけますか? どうかお願いいたします」
アイリスは戸惑いを見せず、そーっと赤ん坊を受け取り、腕の中の赤子に微笑んだ。若い母親は興奮して目を潤ませ、その様子を見た年老いた男性も声をかけて来た。
「アイリス様、わたくしと握手していただけませんか?」
「もちろんです」
アイリスが握手をすると、老人は右手を大切そうに左手で包んで感動した様子で目を閉じる。
わらわらと集まってきた信者たちは、アイリスに触れてもらうことをありがたがって帰って行く。
『女神エルシアの申し子アイリス様』の話題は、みるみるうちに王都から地方まで伝わっていく。
信者たちはあっという間に『女神の申し子アイリス様』という呼び方に馴染み、アイリスの話題は王都から四方八方に広がった。
アイリスに会いたくて地方から王都に出てくる者も増えてきた。
王都に続く街道を歩いている人物に、近くを歩いていた男が話しかけた。
「あなたはどちらへ?」
「王都の大神殿まで」
「あなたもアイリス様に会いに行くのですか?」
「ええ。巨大鳥がいない時しか王都には来られませんから」
「では、聖女巡礼仲間ですね」
「ええ、聖女巡礼です。なにしろ申し子が誕生したのは七百年ぶりですから。せっかく同時代に生きているのですから、一度はお姿を拝見しておかないと」
「わかりますよ。私も同じ思いです」
聖地巡礼ではなく、『聖女巡礼』という言葉と行動も、アイリスの名前と一緒に民の間に広まっている。
ゾーエ神殿長は二階の窓から敷地にあふれる信者たちを眺め、満足そうに微笑んだ。見ていると、アイリスが信者たちと笑顔で言葉を交わし、上空を飛んで見せている。
「よくやっているわね。期待以上だわ」
夜、掃除を終えて自分の部屋に戻ろうとしたアイリスに、シーナが話しかけてきた。
「アイリスさん、毎日頑張っていますね。疲れてはいませんか?」
「大丈夫ですよ。そうだ、シーナさん、せっかく神殿で生活しているのですから、神殿でしか読めない本があったら読みたいのですが」
「ここでしか読めない本、ですか? 一番重要なものは神殿長の部屋にありますが、それ以外もいろいろな本があります。見に行きますか?」
「はい!」
シーナに案内されて、アイリスは初めてその部屋に入った。
「うわあ、たくさんの本が」
「ええ、どれでも好きな本を読んでいいのですよ。神殿の外に持ち出すのは禁止です」
「わかりました。ありがとうございます、シーナさん」
シーナは「では失礼」と言って部屋から出て行った。アイリスは部屋の中に何列にも並べられている本棚をじっくり見て回り、古そうな本が詰まっている本棚を選んだ。
だいたいはエルシア教にまつわる内容のタイトルだった。
「うちは本を買う余裕がなかったから、ありがたいわ」
その日からアイリスは少しの時間ができると、蔵書室と書かれている部屋に通い続けて片っ端から読んだ。最初はこだわりなく適当に選んで読んでいたが、そのうち、聖アンジェリーナについて書いてある本を選んで読むようになった。
そうしている間にも『聖女巡礼』の人々は王都に集まって来て、神殿に押し寄せる。アイリスは人々の前で飛び、笑いかけ、握手やハグを繰り返していた。
シーナがたびたび心配してくれる。
「アイリスさん、大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
「大丈夫です。楽しいですよ」
アイリスはそう言って笑った。
(マウロワの王太子に連れて行かれないためなら、こんなことなんでもない。私はこの国で、王空騎士団で役に立ちたい。サイモンと一緒に生きていきたい。今はやるべきことひとつひとつを積み重ねていくとき。私を利用しようとする人がいるなら、私もその人たちを利用する。最後には、誰も私を利用できなくなるくらい大きな存在になってやる)
神殿の敷地には入れ代わり立ち代わりして、常に民衆が詰めかけているが、生活も仕事もある者ばかりだから長居をすることはない。アイリスを見、声を聞いて満足して帰っていく。
最近は、聖女巡礼の人々を目当てに屋台が並び始めた。神殿の周囲は屋台村状態だ。屋台で食べ物や土産物を売っている者たちの表情は明るい。
「ここに来てから客がひっきりなしだ」
「うちの屋台も大繁盛だよ。アイリス様のおかげだな」
「王空騎士団が活躍するときは外に出られないし、あんなふうに仕事の話をしてもらえることもなかった。話を聞くたびに俺は感動するね」
「俺もだ。あんな細っこいお嬢さんが俺たちを守って飛んでくれているんだな」
『神殿の周囲には屋台村が生まれた』と、それもまた人々のアイリスの話題に勢いをつける。
聖女巡礼を終えた人々は、アイリスの姿を記憶に収め、優雅に飛ぶ姿に感心し、優しい笑顔と言葉に感動して故郷に帰る。
そして故郷で周囲の人々に熱く語るのだ。「アイリス様を見てきたぞ!」と。
神殿が売り出したアイリスの絵姿は飛ぶように売れている。
版画の絵姿は、神殿にだけ許された独占販売だ。アイリスを見に来た人々は、ほぼ全員がその姿絵を買い求める。中には一人で数十枚も買っていく者もいた。
アイリスの存在がグラスフィールド王国の隅々まで知れ渡るのにそれほど時間はかからなかった。
何時間も群集の相手をしてから神殿に入ってきたアイリスに、ゾーエ神殿長が声をかけた。
「アイリス、よくやっているわね」
「はい、神殿長」
「これほど早くあなたのことが知れ渡るとは思わなかったわ。今日は国の東端と西端の人々まで、あなたに会いに来ていましたよ」
「そうでしたか。お役に立ててよかったです」
「アイリス」
「はい?」
「いずれマウロワ王国から人が来るでしょう。どの程度の地位の人間が来るかわかりませんが、その者に見せつけてやるのです。『アイリスはこの国では聖女として敬愛され、尊敬され、必要とされている』と」
「はい。そのつもりです。お任せください」
迷いなく「任せろ」と返答するアイリスを見て、ゾーエは感心する。
「惜しいわね。あなたが神殿の人間になったのなら、間違いなく階段を昇り詰めることができるのに」
アイリスは意識して愛らしく笑った。
「ゾーエ神殿長、ありがたいお言葉ですが、私は囮役として必要とされていると自負しております。王空騎士団員を辞めるわけにはいきませんので」
「そうね。そこは諦めましょう。明日からも信者の対応を頼みます」
「はい!」
次の日にアイリスがまた王空騎士団に行く。騎士団は人が出払っていて、訓練をもう一週間もしていない。今日こそはと来てみたが、騎士団員たちは今日も出払っていた。
事務員のマヤが出てきて、アイリスを気の毒そうに見て説明してくれる。
「今年は空賊が例年よりも頻発しているの」
「私も空賊退治に行きたかったです」
「なに言っているの。あなたが神殿でどれほど働いているか、聞いているわよ。アイリスは全力で頑張っているじゃない。もう十分よ」
「いいえ。まだです。私、もっと頑張れます」
「どうしてそんなに?」
「今のままでは、私はいいように使われているうちに自分の人生が終わってしまいますから」
マヤが驚いてアイリスを見た。
「この国には巨大鳥が来ますから。私は人々を守るために飛び続けるつもりです。それに、もうこれ以上自分の人生をむしり取られたくありません。そのために、私はもっと努力するつもりです」
「アイリス……」
「大丈夫。どうしてもどうにもならなかったら、そのときは……」
『そのときは全力で飛んで国外に逃げます』という言葉はのみ込んで「泣いて暴れちゃうかも」と笑ってごまかした。
(私はおそらく、王空騎士団の中で一番速い。逃げようと思えばいつでも、棒に乗っても逃げられる。だけど、王空騎士団員の身分を捨てるのは、最後の最後の、そのまた最後だわ)
アイリスは「じゃ、神殿にもどりますね」といって引き返した。
同じころ、海の上では、サイモンが空賊と戦っていた。訓練生の身でありながらサイモンが空賊退治に参加していたのには理由がある。
サイモンは団長ウィルに直訴し、「訓練生は参加させられない」と却下されたのだが、「空賊の秘密をもう知っている自分は、対人戦の技術さえあれば参加できるはず」と譲らなかった。
理屈はその通りなので、副団長カミーユがサイモンの腕前を確認し、許可が出たのだ。
ただし訓練生たちには秘密だ。
許可を出さざるを得ないほど、今年は空賊が頻繁に出没していたのだ。