56 『魅了しなさい』
アイリスが神殿に出発する朝。
両親と姉、サイモンが同乗した馬車は神殿に向かって進んでいる。
全員沈黙するのだろうと思っていたアイリスだったが、予想に反して馬車の中は賑やかだった。
「アイリス、差し入れしてもいいならお菓子を持っていくわ。お母さんの料理も持っていく」
「嬉しいけど、それはいいわよ。集団で生活しているのに、私だけ美味しいものを食べるわけにいかないもの」
「それもそうか。じゃあ、食べ物以外で欲しいものがあったら、手紙を書いてよ」
「そうするね。私が飛べば家まですぐだけど、家に帰ることは許されないと思う」
「僕に用事を言ってくれれば、僕がリトラー家まで伝えに行くよ」
「サイモン、ありがとう。そうしてくれると助かる」
賑やかなまま馬車は大神殿に到着し、ハグしあって別れた。誰も泣いていない。アイリスにはそれがありがたかった。
(ここでお葬式みたいな雰囲気にならなくてよかった)
アイリスはそう思って胸を撫で下ろした。
アイリスが神殿に入っていく後ろ姿を見送ったサイモンは学院に向かって飛び去った。
ハリーは無言で妻の肩を抱いている。
そんな両親を後ろからみている姉のルビーは心の中でアイリスにエールを送った。
(がんばれアイリス。負けるな。でも、どうしても頑張れなくなったら、逃げておいで。私があなたを連れてどこまでも逃げてあげる)
そう悲壮な覚悟をしているルビーにハリーが声をかけた。
「ルビー、さあ帰ろう。グレース、帰るぞ」
「あなた、お願いがあるの」
「なんだい?」
「あの子はきっと、求められた役目を全力で果たそうとすると思うの。でも、アイリスが使い潰されるようなら、そしてあの子が逃げたいと願うなら、私はあの子を連れて大陸まで逃げるつもりよ」
ハリーは「ほお」という表情で妻を見た。
「いい考えだ。大陸で心機一転、新しい商売を始めるのも悪くないな。そのときは船の全速力で逃げ出すぞ」
「ハリー……やっぱりあなたは私が選んだだけのことはあるわ」
「私に任せなさい、グレース」
ルビーは両親のやり取りを聞き、下を向いて小さく「ふふっ」と笑った。三人は馬車に乗り、家へと帰った。
一方アイリスは神殿長の部屋でゾーエと向かい合って座っている。
「アイリス、今日からここがあなたの家です。王空騎士団にはここから通ってもらいます」
「はい、神殿長」
「私があなたに望むことはただひとつよ」
なんだろう、とアイリスはゾーエ神殿長の言葉の続きを待った。神殿長はたっぷり間を置いて口を開いた。
「民を魅了しなさい」
「魅了、ですか?」
「そうです。あなたが飛ぶ姿、話しかける言葉、微笑みかける表情。全てを使って民を魅了するのです。それがあなたを救い、このグラスフィールド王国を救い、この国の数百万の民の命を救うことに繋がるのです」
アイリスはなぜゾーエ神殿長がここまで自分を熱心に国民に売り込みたいのか、不思議に思う。
あの言い伝えを信じているからか。
自分を利用しようとしているからか。
今はまだゾーエ神殿長の熱量の理由が理解できなかった。
「アイリス、いついかなるときも、人の視線があることを忘れてはいけません。民に慕われ、愛されることを目指しなさい」
「はい、神殿長」
「よろしい。シーナがあなたに神殿の内部を説明します。案内してもらいなさい」
「はい、失礼いたします」
ドアの外には枯れた感じの年配の女性が待っていた。シーナは真っ黒い制服を着て、黒いベールを被っている。
「シーナです。アイリスさん、わからないことがあったらなんでも私に聞いてください」
「よろしくお願いします」
簡素な個室が与えられ、アイリスのグラスフィールド大神殿での生活が始まった。
早朝の祈祷、掃除、朝食を終えてからフェザーに乗って王空騎士団へと飛ぶ。馬車は出ない。学院は神殿預かりである間は休むことになった。
国側はアイリスの重要性を訴えて「護衛をつけて馬車で往復させたい」と訴えたが、ゾーエ神殿長は笑って一蹴した。
「愚かなことを。空を飛べるアイリスをなぜ馬車に乗せるのです? 空を飛ぶ姿を民に見せることが重要なのに。アイリスはフェザーに乗って王空騎士団に通うべきです」
ゾーエ神殿長はそう言い切り、王家が送り付けた使者を帰した。
当のアイリスも飛んで通う方が気楽だ。一人で風を受け、陽の光を浴びながら飛んでいるときだけは、憂いを忘れて晴れ晴れする。
神殿預かりとなった数日後。
アイリスが王空騎士団に向かって飛んでいると、上空から誰かが急降下して近づいてくるのに気がついた。
「よお、アイリス」
「ヒロさん!」
「どうだい? 神殿暮らしは」
「快適ですよ」
アイリスが微笑みながらそう返事をすると、ヒロが片方の眉を上げた。今二人は王都の上空百メートルほどの位置で止まって浮かんでいる。
「アイリス、雰囲気が少し変わったな?」
「いいえ。私はなにも変わりませんが」
「いいや、変わった。なにかあったのか? それともなにかを企んでるのか?」
「ヒロさん、なにもありませんし、なにも企んだりしていませんよ。王家や神殿や偉い貴族の方々に言われるとおりに、大人しく暮らしているだけです。明日は祈祷の時間に信者の皆さんの前で飛んでお見せする予定なんです。とても楽しみです」
ヒロは思わずアイリスの顔をまじまじと眺めた。
(こんな大人びた笑い方をする子だったか?)
「そうか。それならいいが、これだけは忘れないでくれ。アイリスには王空騎士団の仲間がいる。お前は一人じゃない。いいな? とにかく無茶をするなよ?」
「もちろんです。心配してくださって、ありがとうございます」
「じゃあ俺は仕事だ。またな」
アイリスは笑顔で飛び去って行く。婚約が白紙になったことは団長から聞いているだけに、ヒロは心配になった。
(思い詰めていないといいが)
ヒロは猛烈な速さで王空騎士団へと飛んでいくアイリスを見送った。
「さて、俺も急がないと」
ヒロは東の海に向かって全力で飛んだ。
この国は巨大鳥がいない間に石炭や鉱石、小麦をできるだけ多く輸出しなくてはならない。大陸側の港では何隻もの船が出港の準備が整うのを待っている。
トップファイターのヒロは商船の『対空賊護衛』を免除してもらうこともできるのだが、本人が望んで護衛役を引き受けている。
海賊には軍の船が対応し、空賊には王空騎士団が対応する。ヒロは空の強奪者を憎んでいた。
「さあ、ならず者どもを片っ端から海に叩き込んでやるか」
そう言うとヒロは剣を携えて高速で海を目指した。
一方アイリスは王空騎士団に到着し、副団長カミーユに声をかけられていた。
「アイリス、今日の訓練は中止になった」
「どうしたんですか?」
「空賊があちこちに出没していて、騎士団員はほぼ出払っているんだ。例年より被害が多くてな。国から王空騎士団に追加で要請が入った」
「そうですか。副団長、私も空賊退治に参加させていただけせんか?」
「お前が? どうやって? 武器を使った対人戦の訓練は全く受けていないだろう」
「考えがあります。聞いていただけますか?」
アイリスは穏やかな笑顔で言い切った。
「待ってくれ。団長に相談する。一緒に来い」
「はい」
通された団長室で、アイリスはもう一度「自分を空賊退治に参加させてほしい」と頼んだ。団長のウィルもカミーユ同様に「どうやって?」と驚いた。
「アイリス、君になにか考えがあるのか?」
「はい、あります。空賊の話を聞いたときから、ずっとその方法が使えないかと考えていました」
「ほう。聞かせてくれ」
アイリスは自分の作戦を説明した。
黙って聞いていたウィルとカミーユは「ああ、なるほど」「確かに」とうなずいたものの空賊退治への参加を許可するとは言わず、考え込んでいる。
ウィルはしばらく考えたあとで、アイリスの意見を却下した。
「今回は諦めろ。いきなり実戦の場で試すわけにはいかない。アイリスを失うわけにはいかないんだ。神殿の件もある」
「そうですか」
張り切っていたアイリスから力が抜けた。
「だが、その作戦がどの程度有効か、試す価値はある。騎士団のファイターを相手に、試して見せてもらってからだな」
「わかりました。では私は神殿に戻ります」
「そうしてくれ。それが安全だ」
こうしてアイリスは出てきたばかりの神殿に戻った。
フェザーに乗って神殿に近づくと、結構な数の信者が神殿に入ろうとしているところだった。
『魅了しなさい』というゾーエ神殿長の声が耳に蘇る。
アイリスは、わざとゆっくり上空を旋回し、螺旋を描きながら神殿の正面入り口の前に着地した。
神殿に入ろうとしていた人々が、皆驚いて騎士団服姿のアイリスを見る。
(魅了しますよ、神殿長)と思いながら優雅にお辞儀をしてみせた。
「おはようございます。アイリス・リトラーです」
そう言ってにっこり笑うアイリスを人々が取り囲んだ。
「アイリス様! お会いできて光栄です!」
「アイリス様! 飛ぶお姿がなんとお美しいことか」
「アイリス様、本当に女性なのに空が飛べるんですね!」
「もう一度飛んで見せてもらえませんか?」
次々と話しかけられ、そのすべてにアイリスは微笑んで答え、要望に応じてもう一度空を飛んでみせることにした。
アイリスが青いフェザーに乗って一気に上昇し、空で大きく縦に回転して見せると、信者たちは拍手をして喜んでいる。
意識して優雅にふわりと着地したアイリスは「こんな感じです。また神殿でお会いできることを楽しみにしています」と上品に応じた。
その日、ゾーエ神殿長は説話の最後にこう付け加えた。
「アイリス・リトラーは、女神エルシアの申し子です。七百年前、聖アンジェリーナがそうだったように、アイリスは我が国を救うために生まれてきたのです。アイリスは神殿預かりとなりました。皆さん、今を生きている女神の申し子に、またぜひ会いに来てください」
集会に参加していた信者たちが、一斉に壁際に立っているアイリスを見た。アイリスは母に習った貴族風の微笑を浮かべ、お辞儀をした。
その日、王都のそこかしこで、アイリスのことが話題になった。貴族たちは早いうちにアイリスの存在を知っていたが、平民たちは七百年ぶりに現れた女性の飛翔能力者のことを知るのは遅かったし、この日やっと間近にみることができた。
平民たちはアイリスの存在に興奮し、熱狂した。





