55 それぞれの決意
アイリスは帰宅してから婚約が白紙になったことを家族に告げた。なぜそうなったかの事情も。
父のハリーは「そうか」と言い、母のグレースは「神殿預かり……」とだけ言って考え込み、ルビーはテーブルを見つめて黙りこんでいる。
「次から次へと厄介なことになってしまって、心配かけてごめんなさい。でもね、お父さん、お母さん、お姉ちゃん、私は決めたの」
「アイリス、何を決めたんだ? 無茶をしようなんて考えていないだろうな? 神殿預かりは一時的なものなんだろう? マウロワの王子の興味が薄れたころに、婚約も結婚もできるんだろう? ジュール侯爵様はそうおっしゃったんだろう?」
「ええ、そうおっしゃったわ」
「アイリス、何を決めたのか、私たち家族にだけは本音を話してくれるわね?」
「お母さん、私、強くなると決めたの。風に吹かれてあっちこっちに飛ばされる枯れ葉のままではいないわ。大人たちが誰も予想もできないほど、強くなってやる」
ルビーが眉間にシワを作って静かに問いただした。
「どんな方法で? 十五歳で平民のアイリスが、どうやって強くなるっていうの?」
「私が他の人と違うのは、女性なのに飛べることと、他の人より速く飛べることだわ。だからそれを利用しようと思ってる。細かいことは神殿でどう扱われるのかを確かめてから。だけどもう決めたの。私は強くなって、もうこれ以上、偉い大人たちの言いなりにはならない」
グレースが目でアイリスに話の続きを促した。
「お母さん、私ね、このままグジグジ泣いて終わりにする気はないわ。神殿が私を助けてくれるのは、神殿側の都合もあるんだと思う。ただの親切心でマウロワ王国の要求を跳ね除けるなんてありえないもの。でもね、神殿が私を利用しようとするなら、私も神殿を利用するわ。聖アンジェリーナの再来と人々が言うのなら、その声を味方につける」
ハリーは常にないほど強い言葉を並べるアイリスに不安そうな目を向けたが、グレースは小さく何度かうなずいた。
「そうね。それがいいわ」
「お母さん?」
ルビーはアイリスに同意するグレースを咎めるような声を出した。
「お姉ちゃん、私ね、オリバーに言われたの。『嫌々行くと思えば神殿の暮らしはつらい。でも何か目的を持って潜入してやると思えば、気持ちも上向く』って。私は風に吹かれて動く枯れ葉じゃない。人間だわ。見ていて。私は絶対にこのまま言いなりになるつもりはないの。利用されるだけで終わる気もない。何年かかっても、私は強くなって勝手に動かされることがないようになってやる」
「いいわね。その意気よ。アイリス、私たちのことは心配無用よ。全力で頑張りなさい。戦って、誰もあなたを勝手に動かせなくなるまで強くなればいい」
グレースはそう言うとルビーの方へと顔を向けた。
「ルビー、今後アイリスのことであなたも必ず影響が出るわ。あなた、お付き合いしている男性がいるわよね?」
「お母さん? 今、そんなことを話題にしている場合?」
「している場合よ。アイリスの戦いが上手くいくかどうかで、世間の風向きは変わるはず。上手く行けば聖アンジェリーナの再来と世間はもてはやすし、うまくいかなければ『生意気な娘』『思いあがった飛翔能力者』と叩かれるわ」
ルビーがハッとした顔になった。
「リトラー商会は最も繁盛しているときに突然破産したの。世間の手のひら返しはもう、酷いものだった。ルビー、あなたにお付き合いしている人がいるのなら、腹をくくる時がきっとくる。もしアイリスの計画が失敗すれば、世間に叩かれる。あなたのお付き合いしている人が、あなたから逃げる人か、妹がどうであれルビーと一緒に人生を歩んでくれる人か、わかるようになるわ」
グレースがいたずらっぽい笑顔になった。
「お母さんがなにも気づかないとでも思っていた? あなたが身なりやお化粧に気を遣うようになったことも、毎日楽しそうに役所に向かうようになったことも、気がつかないぼんやりした母親だとでも? お付き合いしている人がいるのでしょう?」
ルビーが驚きながらもうなずいた。
「はい。お付き合いしている人がいます。役所の同僚です。まだお付き合いを始めたばかりだけど」
「だったら、結婚を急がないほうがいいわ。アイリスの戦いの行方を見てからにしなさい。そのほうがあなたのためでもある。アイリス、ルビー、女性の力は弱い。立場も弱い。でもね、頭を使って自分や大切な人を守ることはできるの」
アイリスが立ち上がった。
「お姉ちゃん、お母さんの言う通りだと思う。ごめんね。何年も待たせないで済むよう、全力で頑張るわ。見ていて」
「アイリスがなにを考えているのかわからないけど、私はアイリスの味方よ。アイリス、私はだいじな妹を信じて待つわよ。頑張ってほしい。でもね、命だけは大切にしてよ?」
「命を大切にするのはもちろんよ。死んだら元も子もないじゃない。私、明日にでも神殿に行きます。あちらに着いたらなるべくまめに手紙を書く」
「そうして。お父さんとお母さんのことは私に任せなさい。アイリス、また二人で笑って話ができるわよね?」
「もちろんよ、お姉ちゃん」
◇ ◇ ◇
翌日の早朝、母がベッドの中のアイリスを揺すって「アイリス、サイモン様が来てくれたわ」と起こした。
「サイモンが? まだ暗い……」
「きっと大切なことを告げに来てくれたのよ」
アイリスは急いで起き上がり、服を着替えた。サイモンは居間に通されていた。
「サイモン、おはよう」
「おはよう、アイリス。神殿にいつ行くか決めた?」
「今日、行こうと思うの。サイモンに相談しないで決めてごめんね」
「いや、いいんだ。僕は大切なことを伝えに来た。団長からの伝言だ。『神殿に入っても王空騎士団員として活動できることは確認済み』『サイモンと家族の見送りが許可されている』ということだ。昨夜のうちに侯爵様が動いてくれた」
「わかったわ。ありがたいことね。それでね、サイモン。私、神殿で暮らしながら、やりたいことを見つけたわ」
「なに?」
「大勢の人を味方につける。私が聖アンジェリーナの再来という役割を望まれるなら、それをやり遂げる。できるだけ多くの人心をこの身に集めるわ。神殿での生活を無駄に過ごすつもりはないの」
しばらく呆気にとられた顔でアイリスの覚悟を聞いていたサイモンが、プッと吹き出した。
「酷い。全力で覚悟を決めたのに、笑わなくっても」
「ごめんごめん。実は僕も同じことをアイリスに言うつもりで来たんだ」
「同じこと?」
「神殿預かりになって婚約が白紙になったことは残念だけど、僕たちはまだ十五歳だ。時間はたっぷりあるよ。だからアイリスは神殿の力を利用してやればいい……と言うつもりでいたんだ」
アイリスが「同じことを考えていた」というサイモンを見る。
(泣き寝入りはしない)という気持ちでいたアイリスは、真面目で善良なサイモンの言葉を意外に思う。
「今はまだ神殿や王族が君に望むことを演じてやればいいさ。国中の民が君のことを聖アンジェリーナの再来だと思ってくれれば、君は動きやすくなるんじゃないかな」
「サイモン? どうかした? いつもと雰囲気が違うわ」
「僕は気がついたよ。身分や年齢に従って揉め事を起こさないように生きていると、君を守れないんだ。これから僕はまず、王空騎士団の中でのし上がってやる。次期ジュール侯爵としても、平民上がりと馬鹿にされないように知識も人脈も築き上げていく」
少し間を置いてからサイモンが微笑んだ。
「真面目で誠実なだけじゃ、全然だめなんだよ。今の僕は偉い人の言いなりになる羊だ。いつまでたっても権力側の思惑で動かされる」
「サイモン?」
「僕は人を動かす側に回るつもりだ」
「なにをするつもり?」
「君は知らないほうがいい。大丈夫、アイリスは神殿で従順な少女の振りをしていてくれ。僕は僕で動く。出発まで待たせてもらってもいいかい?」
「ええ、それはもちろん」
サイモンは居間でアイリスの支度が終わるまで待っていた。
アイリスの家族と一緒に神殿まで馬車で送り、家族のお別れの時間を少し離れた場所から見届け、最後にアイリスを抱きしめてから抱えてきたフェザーに乗り、養成所へ戻った。
養成所では朝食の時間だった。
食堂にサイモンが入って行くと、食事中の全員がピタリとおしゃべりをやめた。普段仲のいいロイズという少年が声をかけて来た。
「どこへ行っていたんだい?」
「アイリスを見送ってきたんだ」
「見送ってきたって、どこへ?」
「神殿だよ。アイリスは今日から神殿で暮らすことになったんだ。僕たちの婚約も白紙になった」
「ええっ?」
「国王陛下のご命令なんだ。仕方ないよ」
そう言ってサイモンは受け取った朝食のトレイを持ち、ロイズの近くに座った。
「サイモン、アイリスは騎士団を辞めるってこと?」
「いいや。神殿に住むだけで騎士団は続けるらしい。ただ、神殿預かりになるには婚約していてはだめなんだよ」
その場にいる訓練生全員がサイモンの話に聞き耳を立てている。もちろんアイリスを逆恨みしているマリオも。
「僕は詳しいことを知らないんだ。ただ、侯爵の父でさえ逆らえなかったんだからね。どうしようもない」
「そうか、さぞかし君はショックだろうね」
「そうだね。だが仕方ない。侯爵である父が逆らえないのなら、僕がなにを言ってもね」
そこまで言ってサイモンは朝食を食べ始めた。訓練生たちはヒソヒソと今の話を話題にしている。
(種はまいた。あとは芽を出すのを待つだけだ)
サイモンは無表情にパンをちぎって口に入れた。