54 白紙
ジュール侯爵は使用人に手紙を持たせ、サイモンとアイリスを呼び出した。すぐにサイモンがフェザーに乗って駆け付け、不安そうな顔で侯爵に問いかけた。
「父上、どうなさいましたか」
「サイモン、急な話だが、アイリスを神殿預かりになってもらうことになった」
「神殿預かり……とは、なんでしょうか」
「アイリスは神殿で暮らすことになり、婚約は白紙になる」
サイモンは自分の味方と信じて疑わなかった侯爵の言葉に絶句し、両手を握りしめた。
そこに使用人がドアを開けて「アイリス様がいらっしゃいました」と告げた。
アイリスは入って来てすぐに不穏な空気に気がついた。心配そうにサイモンを見るが、サイモンは侯爵を見ていてアイリスが入って来ても視線を動かさない。
侯爵は椅子を勧め、アイリスが座るとすぐに話を切り出した。
「アイリス、夜分に悪かったね。急な用事なのだ。落ち着いて聞いてほしいのだが、サイモンとアイリスの婚約は白紙に戻すことになった」
穏やかな笑みを浮かべていたアイリスの顔から表情が消えた。
「侯爵様、それ……それは、どのような理由で、でしょうか」
「マウロワの王太子が『アイリスを渡せ』と言ってきても渡さずに済むようにだよ。神殿に預かってもらえばひとまず安全だと判断した。陛下の発案だが、私が神殿長と直接話し合い、同意してきた」
「陛下のご発案……」
「そうだ。神殿に預かってもらうためには、君たちに限らずどんな立場の人間でも結婚と婚約を取り消すことが条件なのだよ。正面切ってマウロワの要求を断って、両国の間でもめ事が起きては困る。神殿にアイリスを預かってもらうことが、どこにも被害を出さずに済む方法なのだ」
それを聞いたサイモンの顔がさらに険しくなる。『国のためだ、お前たちの婚約を白紙に戻すことは仕方ないことだ』と言われたような気がしたのだ。アイリスは無表情なまま、侯爵に尋ねた。
「侯爵様、それはいつまででしょうか。私は一生神殿預かりの身となるわけではありませんよね?」
「一時的にだよ、アイリス。『マウロワの王子がアイリスに興味を失ったら素早くサイモンと結婚させてしまえばいい』というのが神殿長の考えだ」
「父上、神殿長は信用できる人物ですか」
「ある意味、実に腹黒い。だが、今は目的を同じにする同志だ。神殿長は言い伝えを信じている。アイリスをマウロワに手渡すわけにはいかないという点で、我々と同じ意見だ」
「父上、神殿預かりになれば、本当にアイリスは……」
「サイモン、私なら大丈夫」
遮ったのはアイリスだ。
「陛下と神殿長がそうしたほうがいいとご判断なさったのなら、私たちは従うしかないわ。そこで揉めても決定されたことは動かないと思う。白紙にするのは受け入れましょう」
「君はそれでいいのか。僕はまだ納得できない」
「私だって納得しているわけではないわ。でもね、サイモン。私たちは国民を守るのが仕事だもの。私たちの婚約を一時的に白紙に戻すことで、国の平和が保たれるのなら、私は従います。いつか再び婚約できる日がくると信じましょうよ」
侯爵はアイリスを眩しい物を見るような顔になった。
「すまないな、アイリス」
「いいえ、侯爵様。それで、私の神殿預かりとなる日はいつでしょうか」
「なるべく早い方がいい。君の準備ができ次第、神殿に移り住んでもらいたい」
「わかりました。学院と騎士団勤めはどうすれば?」
「確認するが、それは今まで通りでかまわないはずだ」
「わかりました。では時間がありませんので、今夜はもう家に帰り、準備をいたします」
「そうしてくれるか」
無言のサイモンを促し、アイリスは挨拶をして侯爵の部屋から出た。
侯爵家の玄関を出て、アイリスは元気のないサイモンに話しかけた。
「ごめんね、サイモン。面倒なことになっちゃったわね」
サイモンが何も言わずにアイリスを抱きしめて、慰めの言葉をささやいた。
「なんで君が謝るんだ。君はなにも悪くない。特別な存在である君を、珍しい宝石でも手に入れるかのように欲しがるヤツが悪いんじゃないか」
「神殿に入っても、家族やサイモンと面会できるのかな……」
「僕ならどんな理由をつけてでも面会に行くよ」
「うん。待ってる。じゃあ、そろそろ家に帰るわ。家族は侯爵様が私を呼び出した理由を心配していたもの」
「そうだね。最後に神殿に向かうときは、僕も一緒に行きたい。せめてそのくらいはさせてほしい」
「ええ。そうしてくれたら嬉しいし、心強いわ」
アイリスは名残り惜しさを打ち消すように、最後にサイモンを強く抱きしめてから身体を離した。
「家まで送るよ」
「ううん。飛んでいくんだもの、大丈夫。じゃあね! またね!」
笑顔で手を振り、家に向かって飛び始めたアイリスの目にたちまち涙が滲む。
空を飛ぶことに憧れ、思いがけずその力を手に入れたのに、自分の能力は家族を悲しませ、今度は婚約も白紙になった。
「泣くのは今だけ。空の上でだけ。神殿にだって笑顔で行ってみせる」
アイリスは嗚咽を漏らしながらゆっくり飛んだ。
(なんでこんなことになるんだろう。私が空を飛びたいと願ったのが女神様の怒りに触れたのだろうか。ああ、もう、泣き止まなきゃ。家族には泣いたことを気づかれたくない)
止めようと思っても熱い涙は次々とこぼれ落ちる。
ジュール侯爵家の屋敷からアイリスの家の途中には、オリバーのいるスレーター家がある。飛びながら何げなくオリバーの家を見ると、庭で火が焚かれていた。
貴族の家で庭に焚火をして眺めつつ酒を飲む家もあることはあるが、オリバーの両親がそれをしているという話は聞いたことがなかった。
焚火の前にいるのは一人。もしかしたらオリバーだろうかと、アイリスは高度を下げた。
「やっぱりオリバーだわ」
焚火の前に椅子を置いて、炎を眺めているのは間違いなくオリバーだ。アイリスはフェザーの高度を下げながら上から声をかけた。
「オリバー」
「うわ、びっくりした。アイリスじゃないか。こんな遅い時間にどうしたの?」
「私が婚約した話、知ってる?」
「ああ。僕の母さんが『ジュール侯爵家と縁続きになった』って大喜びしていたよ」
「その婚約、白紙になったわ」
「白紙……へえ。なんで?」
アイリスはフェザーを芝生の上に着地させた。オリバーが空いている椅子を勧め、アイリスも椅子に座って炎を眺めた。
「なんで白紙になったの?」
「マウロワの王太子が、女性の飛翔能力者を探し求めているんだって。ジェイデン王子の婚約者ミレーヌ様が、私のことを、その王太子に手紙で知らせたのよ」
「ふうん。つまり、アイリスをマウロワ王国に横取りされないための手段が、婚約の白紙ってことにつながるのか? もしかして、神殿が関係してるの?」
「オリバー……あなたすごいわね」
「この程度のこと、誰が考えたってこの結論にたどり着くよ。マウロワもこの国も、同じ女神を信仰している。軍事力で適うわけがないから、そっち方面でなにかいい手を考えたんだろうな」
「どうやったら一瞬でそこにたどり着くんだろう。天才の頭の中を見てみたいものだわ」
オリバーはアイリスの誉め言葉には無反応で、炎を見ながら考え込んでいる。が、やがて目をキラキラさせながら、アイリスに話しかけてきた。
「アイリス、どんな状況も立ち回り方によっては自分に利益をもたらすことができる」
「そうかなあ。とてもそうは思えない」
「神殿には聖アンジェリーナの記録があるはずだ。なにしろ聖アンジェリーナを女神の申し子としているんだからね。王城にしまい込まれている記録は僕らは近寄ることもできないけど、アイリスが神殿に行くとなったら話は別だ」
「待ってよ。私にその文献を読んでこいっていうの?」
「そうさ。こんな機会は二度と来ない。神殿側に気に入られるように振る舞って、重要な文献に近づいて、読んできてよ」
「オリバー、あなた、ほんとに昔から変わらないっていうか、揺るがないっていうか」
さっきまで泣いていたアイリスが思わず笑ってしまう。
「嫌々行くと思えば神殿の暮らしはつらいだろうけどさ、何か目的を持って潜入してやると思えば、気持ちも上向くんじゃないの? アイリスが泣くなんて、珍しいよね。婚約の取り消しがよっぽどつらいんだね」
「婚約が白紙になったこともだけど。私は今、風であっちこっちに吹き飛ばされる枯れ葉になった気分なの」
「アイリスの気持ちは関係なく事態が動いているもんね」
「うん」
「だからこそだよ。そんな状況だからこそ、聖アンジェリーナの記録を読んでおいでよ。だいたいさ、聖アンジェリーナがなぜ女神エルシアの申し子とされたのか、僕は疑問だったんだ。その理由が知りたいけど、そこまで研究の手を広げるには、一日が短くてね。眠らずに生きられるなら眠らないんだけどさ」
アイリスは微笑んだ。
「そうね。くよくよしても一日は一日よね。わかった。私、神殿にいる間に、読める書物はなるだけ多く読んでくる」
「頼むよ」
「そろそろ帰らなきゃ」
「神殿に、僕も行くようにするよ。僕に信仰心は全くないけど、アイリスが何かいい情報を手に入れたら、一番に知りたい」
「ふふ。わかったわ。ちゃんと眠らなきゃだめよ、オリバー。じゃ、おやすみ」
「おやすみアイリス」
フェザーに乗って空へと飛んでいくアイリスを見送り、オリバーは再び焚火の前の椅子に座った。
「ふん。おそらく大人たちは国のためとかなんとか、きれいごとを言って聞かせたんだろうな。アイリスが真面目で自己犠牲を厭わないのをいいことに、都合よく利用したのさ。マウロワの王子がアイリスを横取りしに来ることだって、もっと早い時期に想定しておくべきだったんだ。僕が国王ならそうするね。だいたい宰相も宰相だよ。なにを後手踏んでるんだか」
そこまで言ってからオリバーは炎に向かってつぶいやいた。
「あんなにアイリスを泣かせて。今日アイリスを泣かせた大人たち全員に、いつかきっちり仕返しをしてやる。僕が大人になるまで生きていろよ」