53 神殿長は、こちら側の人間
「神殿は全力でアイリスを守ります。誰の要求であっても退けます」
そう言い切るゾーエ神殿長の顔を見ながら、侯爵は迷っている。どうもゾーエ神殿長は聖職者と言うより策略家のにおいがプンプンする。
(この女性を信用していいものか。アイリスを神殿預かりにするのはもう決定事項になっているにしても、この女性の言い分をまるっと信じるのは、どうなのか)
「マウロワ王国が武力で脅しをかけてきたら、どうなさるおつもりですか?」
「エルシア教はもともと大陸で生まれ、千年以上も大陸で信仰されてきました。彼の国の王がどれほどの武力で脅しをかけようとしても、我々をねじ伏せることはできません」
「失礼ながら、その根拠は?」
「軍は兵士の集まり。マウロワの兵士は皆、エルシア教の信者です。彼らは神の庭に入れなくなることを酷く恐れています。自分たちが奪おうとする相手が女神エルシアの申し子と知れば、女神の怒りを恐れるでしょう。我が国からアイリスを奪うような蛮行はできなくなります」
「アイリスが女神エルシアの申し子?」
ゾーエ神殿長はゆっくり口角を上げた。
「そうです。アイリス・リトラーは女神エルシアの申し子。そうしてしまえばいいのです」
(『そうしてしまう』とはまた、聖職者としては、あるまじき言葉だ)
侯爵は目の前の女性の内面が、物静かそうな見た目とは相反していることを理解した。そんな侯爵を見ながら、ゾーエ神殿長がゆったりした笑みを浮かべる。
「アイリスが神殿預かりとなれば、私たちは積極的にアイリスを民の前に出します。七百年前の伝説の女性ではなく、『女神エルシアの申し子であり、生きているアイリス』を見られるのです。民衆は間違いなく熱狂するでしょう」
「熱狂……」
「そうです。『アイリスは女神エルシアの申し子』という意識を、民の間に広めてやるのです。そこへ『アイリスをよこせ』とマウロワ王国の使者が来たら、アイリスがいかに我が国の民衆に慕われているか、見せてやればいい」
「マウロワの使者は、アイリスが民衆に支持されていることくらいで引くでしょうか」
「引きます。引かざるを得ないように我々が演出して見せればいいこと」
侯爵はいまひとつ納得できない。ゾーエ神殿長の思い込みに過ぎないような気がした。
そんな侯爵の様子に、ゾーエは聖職者らしくない黒い笑みを浮かべた。
「万が一使者が引かなかったとしても、エルシア教の指導者が諦めさせようとするでしょう。なぜなら、マウロワの中央大神殿の神殿長には、恐れていることが二つあります」
ゾーエはそこから、自分の自信の根拠を話して聞かせた。
「現在、マウロワ王国のエルシア教の頂点に立つ聖職者はミダスという男です。彼は三十年前に、とある男を破門しました。破門された男は王家の血筋であり、民衆に大変な人気がある貴族でした。そのあまりの人気の高さと、玉座を奪われる可能性を恐れた国王が些細なことを理由に『この男は国を裏切っている』として破門と死刑を命じたのです」
「ほう……」
「ミダスは王に媚びました。戒律を破ったという証拠もないままに男を破門しました。エルシア教において、破門されてからの処刑は、死んでもなお魂は苦しみ続けるとされています。信者にとっては一番の恐怖です」
「なるほど」
「男は処刑されるとき、ミダスを睨みつけながら『必ずエルシア様の裁きがお前に下される。お前は、死んでも決して神の下には行けぬ!』と叫んでから処刑されたのです。私は当時十五歳で、ミダスのすぐ近くで男の言葉を聞きました」
ゾーエはフッと笑って言葉を続ける。
「後日、男は第三者による正式な調査の結果、冤罪だったことがわかりました。なぜかそれはほとんど民衆に知られることなく終わりましたけどね。しかしミダスはその後、エルシア様の怒りを恐れていました。毎晩眠れぬ夜を過ごし、悪夢にうなされていましたよ」
「しかし三十年も前の話では……果たしてミダスは今でもエルシア様の裁きを恐れているかどうか。そしてミダスがアイリスの奪取を止めるかどうか、わからないのでは?」
侯爵の心配を聞いてゾーエはカラカラと笑った。
「ミダスは三十年たって老いた今こそ、死後の裁きを恐れていますよ。侯爵、安心してアイリスを預けなさい。そしてマウロワの使者が立ち去ったら、素早く結婚させてしまえばいい」
「ふむ」
「そして神殿に預けるべき理由がもうひとつ」
「うかがいましょう」
「マウロワの王太子が他国の貴族から妻を奪い取ろうとして軍を動かせば、マウロワの王座を狙う者たちが王家に牙をむきます。大陸の覇者などともてはやされていますが、マウロワ王国は決して一枚岩ではありません」
「一枚岩でないのはどの国も同じですが……。それにしてもゾーエ神殿長、なぜマウロワ王国やミダスのことにそこまで詳しいのです?」
ゾーエはかなりの間を置いてから口を開いた。
「私はミダスが犯した罪の証。ミダスの実の娘だからです」
「なっ……」
そこで若い女性がお茶を運んできた。女性はお茶を置くと、すぐに下がった。
「侯爵、お茶に蜂蜜を入れますか?」
「いえ、私はなにも入れないほうが」
「そう。では失礼して私だけ入れましょう。私たちが飼っている蜂の蜜は、とびきり香りがいいんです」
ゾーエ神殿長は、小さな器に入っている蜂蜜をスプーンですくい、お茶に落としながら話し続けた。
「ミダスは四十五年前、戒律を破りました。ミダスと信者の女性との間に生まれたのが私です。私の母親は貴族の妻で、熱狂的な信者でした。ミダスは二重三重に戒律を破っているのです。許されざる存在の私は、生まれてすぐに里子に出され、五歳になるとマウロワ王国の田舎の修道院に入れられました」
あまりに重いうちあけ話を聞いて、侯爵は絶句している。
世間話でもするような調子でそこまで話したゾーエは、「これを話すのは、あなたで二人目。一人目はミダスですよ」と言ってまた侯爵を驚かせる。
「私の愚かな母は、私の出生の秘密まで一緒に里親に預けたのです。母の歪んだ虚栄心なのでしょうね。おかげで私は、罪多き穢れた存在として、孤独に育ちました。とはいえ、粗末な扱いは受けませんでしたよ。何しろ飛ぶ鳥を落とす勢いのミダスの娘ですから。私を粗末に扱って、万が一にも自分たちがミダスから仕返しを受けるようなことは避けたかったのでしょうね」
「それで?」
「私は自分の身を守るために、穢れた存在であることも積極的に利用しました」
ゾーエは頭が回り、戦略家で、父親を憎んでいたらしい。そこからどうやってミダスの隣に立つことができたのか、侯爵は読めてきた。
「あなたからミダスに近寄ったのですね?」
「ほほほほ。侯爵は聡明な人なのね。そうです。私から手紙を出し、ミダスにだけはわかるような書き方で脅しました。手紙を要約すれは『私を中央大神殿に呼び寄せろ。さもないとお前の罪を全ての聖職者、全ての信者に語って聞かせる』と書いて送ったのです」
「中央大神殿の神殿長を脅したりして、命を狙われるとは思わなかったのですか」
「侯爵、私は物心ついたときから穢れた存在として生きていました。私にはたっぷり時間があったのです。ミダスが私を殺せないよう、手紙を書く前にきっちり手は打っておきました。もちろん手紙にもそれは書いて送りましたよ」
ゾーエは楽しげに笑う。
「ミダスの汚点の生き証人である私がアイリスを大切にしているのです。ミダスは私がどう出るかを恐れ、王子が奪うのを止めに入るでしょう」
侯爵は、ゾーエのあまりに聖職者らしからぬ言葉と行動を聞いて、「この女性はこちら側の人間だ」と確信した。
(ゾーエ神殿長の世界は信仰心ではなく、俗世の感情と理屈でできている。それならいっそ信用して仲間に引き込める)
侯爵はアイリスを神殿預かりとすることに同意し、神殿を後にした。