52 王の依頼とゾーエ神殿長 ・
ジュール侯爵家にヴァランタン国王からの使者が訪れた。
「侯爵様、陛下から急ぎの書状でございます。今すぐ返事を欲しいとのことでございます」
書状を読んだ侯爵は「なぜ……」とひと言つぶやき、二度三度と読み返した。そしてすぐに「今すぐ謁見の場を設けていただけないでしょうか」と国王に願う返事を書いた。
それから数時間後、ジュール侯爵は国王の執務室に来ている。
侯爵は謁見室に入ってきた国王をひと目見て(陛下は疲れていらっしゃる)と思った。国王の顔色は優れず、目の下にはくっきりと黒ずんだクマがある。
「オーギュスト、急なことだが、あの書状に書き記した我が願いを聞き入れてくれるだろうな?」
「陛下、理由をお聞かせ願えますでしょうか。なぜサイモンとアイリスの婚約を白紙に戻さねばならないのでしょう」
「理由か……。ミレーヌがアイリスのことをマウロワの王太子に知らせてしまったのだ」
(やはりその件か)と侯爵は唇を噛む。
「あちらから正式にアイリスを要求されたのでございますか?」
「いや、まだだ。だが、要求されてからでは遅い。我が国にはマウロワ王国に歯向かうだけの力はない。あちらの要求を拒んで攻め込まれでもしたら、この国は終わりだ。だが私はアイリスをこのまま大人しくマウロワに渡すつもりはない」
(ならばマウロワ側からアイリスを要求されてもいない段階で、婚約を白紙にさせる理由はなんだ?)
ジュール侯爵は、国王の意図が読めない。
「アイリスをマウロワに渡さぬために、一時的にアイリスを神殿預かりにしようと思う」
「神殿……でございますか」
「そうだ。我が国もマウロワ王国も、同じ女神エルシアを信仰している。その神殿預かりとなれば、大陸の覇者と言えども簡単には手を出せまい。ゾーエ神殿長はエルシア教の重鎮だからな。だが、神殿預かりは、結婚も婚約もしていないことが前提だ」
侯爵は(それは確かにいい手かもしれない)と思うが、すぐに(神殿に預けたら、神殿側はこれ幸いとアイリスを手放さないのではないか)とも思う。
「今すぐ返事をしろとは言わぬ。そもそもあちらがアイリスを欲しいと言うかどうかもわからぬ。だが用心するに越したことはない。もしあちらから正式な要請があった場合に備えて、逃げ道を事前に用意しておくのは必要だ」
「それは確かにそうでございますが……神殿は二度とアイリスを手放さないのではありませんか?」
「そうなったとしても、マウロワ王国に奪われるよりはましだ」
侯爵は(それはさすがにアイリス一人に重荷を背負わせすぎでは?)と思うが、口に出すことははばかられる。
「神殿への打診は済ませてある」
「神殿はなんと?」
「アイリスの婚約を白紙に戻してからならば預かる、と。言質はとってある」
(退路は断たれたわけだ。もっとも、退路など最初から無きに等しいのか。しかし、ここで『はいそうですか』と引き下がってよいものか。せめてあの二人に事後報告ではない形にしてやりたいものだ)
侯爵は、女性として七百年ぶりに能力を開花させたがために権力に翻弄されるアイリスを哀れに思う。
「陛下、しばしお時間をいただきたく存じます」
「二日待とう。我が王国のためだ。よき返事を待っている」
「かしこまりました」
そこでヴァランタン国王は、侯爵の目を覗き込むように身を乗り出し、声を小さくして話しかけてきた。
「オーギュスト、私はあの言い伝えを信じておるのだ。アイリスはこの国に必要だ」
侯爵は謁見室を退出してから、深いため息をついた。
国王の依頼を断ることなどできない。時間をくれたのは、『アイリスの気持ちを整理をする時間を二日与えよう』という国王なりの配慮だろうと考えた。
(神殿はそりゃあ喜ぶだろう。『聖アンジェリーナの再来』と噂され、民の心を魅了するアイリスが神殿に入るとなれば、神殿は動かずして人心を集められる。ひいては献金も増えるからな)
そしてもう一つの疑問を思う。
国王があの言い伝えを信じているとして、次の王はジェイデン王子だ。巨大鳥討伐派の王子が王になったら、いったいどんな行動に出るのか。すぐさま巨大鳥を討伐しようとするのか。そのとき、能力者たちはどう扱われるのか。不安をかき立てる材料が多すぎた。
「サイモンとアイリスになんと伝えたものか。それにしても時間が惜しいな。不安に思うことは直接私が神殿に行って確認したほうがよさそうだ」
侯爵は小窓を開け、御者に「行き先を変える。神殿に行ってくれ」と命じた。
馬車は方向を変え、神殿へと向かった。
神殿に到着すると、馬車が入って来るのに気づいた女性が、建物の外まで出て待っている。
「ジュール侯爵様ではありませんか。ようこそグラスフィールド大神殿へ。どうなさいましたか?」
「突然訪問する無礼をお許しください」
「いいえ。神殿はいつでも信者の皆さまに門戸を開いております。遠慮は無用でございます。さあ、どうぞ中へ」
年配の痩せて枯れた感じの女性は、足首まである真っ黒で簡素な服を着ていて身のこなしには品がある。女性は奥まった部屋のドアをノックし、「入りなさい」の声を聞いてから細くドアを開け、来客を告げた。
「オーギュスト・ジュール侯爵がいらっしゃいました」
「そうですか。入っていただくように」
ベールの女性に促され、ジュール侯爵は神殿長室に足を踏み入れた。
椅子から立ち上がって迎えてくれたゾーエ神殿長は四十歳くらいか。赤みの強い茶色の髪には白髪もなく、肌はツヤツヤとしていて、侯爵に歩み寄る動作もきびきびしている。
「神殿長、先触れもなく訪れたご無礼をお許しください」
「それほど急ぎの用事、ということなのでしょう? さあどうぞ、おかけください、ジュール侯爵」
侯爵は勧められたソファーに腰を下ろし、すぐに話を切り出した。
「陛下からお話をうかがいました。アイリスを神殿預かりとすることについて神殿長にお尋ねしたきことがございます」
「侯爵の心配ならわかっていますよ。我々が自らの利益のために、アイリスを二度と手放さないのでは、と心配しているのでしょう?」
歯に衣着せぬ表現に、侯爵は「そうです」とも言えず、表情のない顔で見つめ返すだけにとどめた。
「侯爵、アイリスが聖アンジェリーナの再来と騒がれていることは、私の耳にも入っています。そんな彼女を神殿預かりとすれば、多くの信者が彼女の近くに行きたい、姿をひと目見てみたいとここに押し寄せるでしょう。神殿としてはありがたいことです」
(ああ、やはりそうか。これは困った)
侯爵は予想通りの言葉を聞いて、噛み合わせた奥歯にギリ、と力を入れた。神殿長の話は続いている。
「欲にまみれた人間ならば、アイリスを囲い込むでしょう。自分のために生きている者ならね」
心の中を読まれたようで、侯爵は慌てて否定する。
「いえ、私は決してそのように考えているわけでは」
「ふふふ。そう考えるのが普通です。侯爵が神殿に対してそう不信を抱くのも仕方ないこと。そういう行いの者が神殿の過去に一人もいなかったとはとても言えませんからね」
そう言って壁の絵を見る。絵にはアンジェリーナが描かれている。フェザーサイズの巨大鳥の風切り羽に乗ったアンジェリーナが、右手にグラスフィールド王国の国旗を掲げて飛んでいて、その表情は微笑んでいる。
「アイリス・リトラーは、ジュール侯爵家の養子と婚約しているそうですね。それは白紙に戻していただきます。そうしていただければ、神殿は全力でアイリスを守ります。誰の要求であっても退けます」