48 アガタ・グラスフィールド
慰労会の参加者は、みな和気あいあいと楽しんでいた。
大ホールの中は楽団の奏でる音楽、楽し気に交わされる会話、たまにワッと起こる笑い声、あちこちで祝いの言葉と共にグラス同士がぶつかる音で賑やかだ。
アイリスとサイモンは周囲の人々に婚約を祝福されながら挨拶をして回っていた。
「アイリス、疲れたろう。テラスに出て少し休もうか」
「ええ。慣れないことばかりで、気疲れしたかも」
手に手を取ってホールを抜け出し、テラスへと進む。庭にもランタンがたくさん並べられていて、夜とは思えないほど明るく華やかだ。テラスに出ると十月初めの夜風が火照った顔をひんやりと冷やしてくれる。
「ホールは人いきれで暑かったから、風が気持ちがいいわ」
「そうだな」
「恐れていたようなことは起きなかったわね」
「うん。僕はそれが逆に不安だ。王太子殿下はこのまま引き下がるおつもりかどうか、読めない」
二人は王家という大きすぎる相手を思い浮かべ、少しの間無言になった。
「こんなことになるとは思わなかった。私は空を飛びたいだけだったのに」
「アイリスは何も悪くない。王空騎士団は君のおかげで助かっているし、王家だって国民だって君の働きのおかげで救われているんだ。気にすることはないよ。胸を張って堂々としていればいい」
「なんだ、君たちここにいたのか。まだ慰労会は始まったばかりだぞ」
「父上」
ホールとテラスの境目に立ち、ジュール侯爵が笑いながら声をかけてきた。
「さあさあ、君たちは七百年ぶりに誕生した女性能力者とその婚約者だ。君たちと話をしたがっている貴族が列を作る前に、もう一度ホールに戻りたまえ。私はちょっと知り合いに挨拶をしてくる」
侯爵に促されてアイリスたちがホールに足を踏み入れると、待っていたらしい貴族たちが集まってくる。
話しかけられ、愛想よく対応していると「失礼」と言いながら人垣の中を進んでくる女性が一人。
女性はアイリスが見えないかのようにサイモンだけを見つめて近づいてくる。
「サイモン、久しぶりね」
「アガタ様」
その女性は大公家の五女アガタ・グラスフィールド。国王の姪である。
アガタがサイモンを気に入ってサイモンと婚約寸前まで話が進んでいたことは、上位貴族の間では知られていたから、周囲にいた貴族たちは全員、どうなるのかと固唾をのんで見守っている。
(アガタ様って、サイモンの婚約者候補じゃなかった? わざわざ婚約発表の場で私たちに近づいてきた理由はなに?)
アイリスは不安に包まれる。
アガタが上品な笑顔を周囲に向けて「ごめんなさい。少し込み入った話をしたいの」と言うと、貴族たちは礼をして素早く散っていく。
それを見届けて、アガタがアイリスに向けて話しかけてきた。
「あなたがアイリス・リトラーさん?」
「はい」
「婚約おめでとう」
「……ありがとうございます」
「幸運だったわね。平民なのに能力が開花したというだけで、侯爵家のサイモンと婚約できるなんて、羨ましいこと」
急いでサイモンがアイリスを庇う。
「アガタ様、この婚約は私が望んだことです。大公様のご了承も得ております」
普段は温和なアガタが、ほんの一瞬きつい表情を浮かべて床を見つめる、それから何か言いたそうな表情でサイモンを見上げる。その目が煌めいているのは涙で潤んでいるせいか、怒りのせいなのか、アイリスは判断しかねた。
そのアイリスに再び視線を向けて、アガタは声を押さえて笑顔をつくる。取り乱すようなみっともない真似はしたくないらしい。
「アイリスさんの家はリトラー商会だそうね。たしか、あなたの祖父は失踪したのではなくて?」
「……はい」
「アガタ様、なにをおっしゃりたいのでしょうか」
「サイモン、私は今、アイリス・リトラーに話をしているのです」
侯爵家の養子になったとはいえ元は平民。サイモンはそれ以上口を挟めず唇を噛んだ。
「あなたの祖父がどれだけ多くの人に迷惑をかけたか、知っているのかしら。あなたの祖父は、高価な品を山と積んで、八隻の船団はそのままいなくなった。積み荷を預けたばかりに破産した人がたくさんいたこと、知らないわけがないわよね」
「お言葉ですが、船の遭難は祖父の責任ではありません」
「遭難ですって? あら、あなた何も知らないの? 風もない穏やかな晴れた日に、忽然と八隻もの船が姿を消したのよ? 遭難ではなく、意図的な失踪、いえ、持ち逃げじゃないのかと散々噂になったそうよ」
「そんな!」
「アガタ様、それ以上アイリスを侮辱なさるなら、ジュール侯爵家として正式に抗議いたします」
サイモンの言葉が聞こえないわけはないのに、アガタはサイモンを見ない。口も閉じない。アガタの目からほろりと涙がこぼれ落ちた。
「私はサイモンと結婚し、幸せに暮らすことを夢見ていました。それを……いくら珍しい女性の能力者だからって、人の幸せを押しのけるなんて、あまりに厚かましい行いだとは思わないの?」
「アガタ様、そこまでにしていただきましょう。サイモンとアイリスの婚約は大公様もご納得の上で決まったことです。これ以上アイリスを侮辱するのであれば、ジュール侯爵家を侮辱しているものと判断させていただきますよ」
いつのまにか近くに来ていたジュール侯爵の言葉に、アガタもさすがに口を閉じた。だが、涙を浮かべながら最後にアイリスに向かって鋭い言葉を投げつける。
「盗人の孫娘は、やはりあつかましい盗人ね」
アガタはそう言うと、顎を上げ胸を張って優雅に会場から立ち去った。
言葉を失っているアイリスの肩に手をかけ、サイモンが会場からテラスへ連れ出そうとした。だが、アイリスは肩にかけられたサイモンの手を避ける。
「いいえ。逃げ出さない。私の祖父は、お客様から預かった商品を持ち逃げするような人じゃないもの。孫の私が信じてあげなかったら、祖父が気の毒すぎるわ。私は祖父を信じてる。だから何を言われてもここから逃げない」
「でも……」
「よく言ったアイリス。その通りだ。サイモン、人は面白おかしく他人の不幸を言いふらすものだ。根も葉もないことを膨らませて鬱憤を晴らしたがるものだよ。今夜はいつもよりもいっそう堂々としていればいい。さあ、二人で踊ってこい。皆に幸せな君たちを見せつけてやれ」
そう言われてサイモンがアイリスを見る。アイリスはやや青ざめてはいるが、健気に微笑んでみせた。
「踊りましょう、サイモン。私たちの婚約のお披露目をしましょうよ」
「よし、行こう。アイリス、好きなだけ僕の靴を踏んでいいからね」
「もう、サイモンたら。一回ぐらいしか踏まないように気をつけるわよ」
ようやくアイリスの顔に本物の笑みが戻った。
二人は手を取り合ってホールの中央へと進む。楽団の調べに合わせて二人が躍り出すと、意味ありげにささやき交わす者、笑顔で祝う者、話題の二人を見ようと首を伸ばす者。様々だ。
「きっと君は、これから大勢の人にいろんな目で見られる。つらい時も、楽しい時も、俺がそばにいるよ。今はまだ頼りなく見えるかもしれないが、いつでも俺を頼ってほしい」
「ええ。頼りにしているわ、サイモン。どうぞよろしくね」
仲良く踊る若い二人。
それを無表情に眺めているジェイデン王子と婚約者ミレーヌ王女。
様々な思惑の中で、アイリスとサイモンは踊り続けている。





