36 選抜試験
翌日の巨大鳥たちはおおむね大人しく、ファイターたちの誘導に従って家畜をつかみ、巨大鳥の森へと帰って行った。ファイターたちに怪我人は発生せず、無事に夕暮れを迎えた。
完全に日が暮れ、巨大鳥たちが来る心配のない夜の七時。
アイリスとソラルは訓練場の端に立っている。その脇には団長ウィル、副団長カミーユ、その左右にケインをはじめとするファイターたち。訓練生たちはファイターの背後にいて、隙間から顔を出して、アイリスたちを見ようとしている。
アイリスとソラルは団長の指示でゴーグルとマスクを付けている。
飛翔能力者が全力で飛ぶと、顔にぶつかる風圧で呼吸は困難になり、眼球は傷つきやすくなる。眼球の保護にはゴーグル、呼吸を助け、失神と落下を防ぐためにはマスクが必須だ。
普段、能力者は全速力の飛行でも短い距離なら裸眼の無呼吸で飛ぶ。だが、ある程度の距離まで対象者から巨大鳥を引き離さなければならない囮役には、ゴーグルとマスクが欠かせない。
マスクとゴーグルを装着したアイリスとソラルを見ながら、騎士団員たちが会話をしている。
「できればソラルに勝ってほしいんだけどなあ」
「俺もだ。女の囮役じゃ不安だよ」
「彼女は経験が全くないわけだし。途中で食われちまうんじゃないのか?」
「だが、団長と副団長が推すっていうんなら……」
「まあな。団長の判断がおそらく正しいんだろうな」
騎士団員たちは、体格と年齢が能力とは無関係なことを知っている。それでも囮役を女性に任せるのは不安に思う。
先輩たちの会話を聞いている訓練生たちも、考えていることはほぼ同じだ。自分たちが騎士団員になる日が来れば、必ず囮役と組むのだから、囮役が誰になるかは自分の命に影響する。
団長ウィルの声が響いた。
「よし、みんな揃ったな。ではこれからアイリスとソラル、両名の飛翔能力の……いや、正直に速さ対決と言っておくか。速さ対決をする。両名には同じ距離を飛んでもらう。囮役は保護対象者から巨大鳥を引き離し、その後は逃げ切る役目だ。よって、今回の速さ対決の距離は往復十キロとする。東の五キロ先、教会の屋根の上にマスターがこれを持って立っている」
そこでウィルが右手で掲げたのは縦四十センチ、横六十センチの騎士団旗だ。旗は長さ一メートルほどの樫の木の棒に紐で結び付けられている。騎士団旗の柄は交差する羽と剣。国家が成立する前から続く巨大鳥と人間との関係を象徴したものだ。
「これを先に持ち帰った者をヘインズの後任とする。この方法に異議のある者はいるか? ……いないな。では。両名、フェザーを選んで乗りなさい」
アイリスは養成所のフェザーには、これといってこだわりがない。ラックから適当に一枚のフェザーを手に取り、訓練場の地面に置いた。ソラルは自前のクリーム色のフェザーを自室から持ち込んでいる。
アイリスとソラルは、フェザーに片膝と両手をつき、いつでもうつ伏せになって飛び出せる姿勢で、ウィルの号令を待った。
「準備はいいな。では、用意……始め!」
同時に飛び出した二人の姿は、一瞬で夜空に消えた。
能力者にとって、往復十キロはさほどの距離ではない。すぐに戻って来るのはわかっている。結果を知りたい全員が、そのまま訓練場に残った。
夜空に飛び出したアイリスは、ソラルが自分の背後にぴったりとついて飛んでいることに気がついた。
(なんで?)
訓練経験の浅いアイリスは知らなかったが、ソラルは旗のところまではこのスタイルで行くことを予め決めていた。
風の抵抗を避けて力を温存し、旗の直前でアイリスを追い抜いて旗を手にする作戦である。
だが、ソラルは重大な間違いを犯していた。自分とアイリスの能力の差を読み違えている。
(ああ、もう、鬱陶しい!)
アイリスは夜の街にある教会を見落とさないよう、能力の六割程度で飛んでいる。だがぴたりと後ろにくっついているソラルが気持ち悪くて、彼を引き離すために能力を全開にした。
いきなりアイリスが加速して自分を引き離していく。ソラルは焦った。すでにソラルは能力の九割程度で飛んでいる。慌てて加速したものの、前を飛ぶアイリスの姿はどんどん小さくなっていく。
「ふざけんなっ!」
復路のことを考えれば、いまここで全力を出すのが危険なことはわかっている。旗を手にできても、引き返す途中でアイリスに旗を奪われないとも限らない。
だが、ソラルは(アイリスに遅れて訓練場に戻るなんて耐えられない。旗を手にするためならなんでもやってやる)と決意した。
冷静さを失っている今のソラルには、囮役になることより旗の奪取のほうが大切になっている。
ソラルは途中でフェザーを止めた。
全力で飛んでいたアイリスは、すぐに目的の教会を見つけた。
教会の屋根の上に、旗を持ってマスターが立っている。その左右には松明を持つ別のマスターが二人。
アイリスは急減速し、差し出される旗ポールをパシッと手のひらで受け取り、高速でターンした。
「うぉっとぉ!」
アイリスのフェザー後部になぎ倒されないよう、三人のマスターたちは慌てて姿勢を低くした。立ち上がったときにはもう、アイリスの後ろ姿が遠い。
「やっぱり団長の目に狂いはなかったな」
「まあな」
「あれ? もう一人の訓練生はどうしたんだ?」
「そのうち来るだろ」
「いや、待て。旗を持ったアイリスを見たら、ここまで来る必要はないよな?」
「あっ」
三人のマスターは慌ててフェザーに乗り、アイリスの後を追って飛び出した。三人とも、(ソラルがアイリスの持っている旗を力づくで奪うかもしれない)と気がついた。
旗を持っていたマスターはうつ伏せで、松明を持った二人は立ったままアイリスの後を追いかけた。
アイリスは旗を身体の下に抱え込み、うつ伏せで飛んでいる。やがて前方の空中にソラルが立って浮かんでいるのに気づいた。
(あの人、なにやって……あっ!)
ソラルはアイリスを目がけて突っ込んできた。
(危ないっ!)
衝突を予測してアイリスは急角度でフェザーを上昇させたが、ぶつかるのを覚悟した。フェザーを落とさないために両手で強くフェザーを抱え込む。
(あれ?)
衝撃は来ない。その代わりに、はるか下の方でフェザーが石畳にぶつかるカンッ! という音が聞こえてきた。急停止して周囲を見回すと、少し下の空中で、救助用の網に身体を絡め捕られているソラルがいた。
網を引っ張っているのはヒロとカミーユだ。
「いい、いい。こっちは気にせず戻れ」
カミーユの言葉にアイリスは再びフェザーにうつ伏せになって飛び出した。
二人がかりで網のロープを持っているカミーユとヒロは複雑な表情だ。網の中のソラルは表情を失い、動かない。
「こうなること、団長はわかっていたんですかね」
「ウィルはこうならないことを願っていたと思う」
「こんな汚いことをして、この先どれだけ肩身の狭い思いをするか考えなかったのか、ソラル」
ヒロに声をかけられたソラルは無言だ。ソラルは(惨めな思いをしたくない)という思いに支配されていた少し前の自分を、激しく後悔していた。
「さあ、帰るぞ、ソラル」
そこへやっと教会の上にいた三人が到着した。三人の元団員は、網の中にいるソラルを見て、すぐに事情を理解した。
「来てくれたのか。悪いがソラルのフェザーを回収して来てくれるか」
「了解です、副団長」
三人は網の中のソラルを一瞥してから下降して行く。
カミーユはアイリスたちが出発した直後にこの地点で待っているようにウィルに指示された。そのときのウィルの気持ちを思いやる。
これは大変に残念な事態だ。飛翔能力者は常に不足している。ソラルは貴重かつ優秀な訓練生だから、この件でソラルを追放するわけにはいかないだろう。
(こんなやつでも部下として使わなきゃならんのがなぁ……)
カミーユが見おろすと、網の中のソラルは無言のまま、動かない。
「戻って来た!」
訓練場に集まっている全員が空を見上げている中、見物している者の中から声が上がる。アイリスは旗を手に、フェザーの上に立って戻って来た。そのままウィルの前にフェザーを着地させ、「ただいま戻りました」と言いながら旗を差し出した。
「ソラルはどうした」
「……わかりません」
「そうか」
ウィルは旗を掲げ、集まっている全員に向かって声を張る。
「見てのとおりだ。ヘインズに代わり、明日からはアイリスが第三小隊の囮役を務める。以上だ。解散」
「団長!」
「なんだ、マリオ」
「ソラルはどうしたのか見てきていいですか」
「いや、その必要はない」
「でも! アイリスがソラルになにか汚いことをしたかもしれません!」
微かに眉をひそめるウィルとアイリス。そのとき、上空から声が降ってきた。
「それはない。僕はかなり上空から見てたよ」
「マイケルさん! 見ていたなら教えてください。なにがあったんですか」
「それは、ここでは聞かないほうがいいかもね」
「どういうことですか!」
「あっ! あれ、ソラルじゃないか」
別の訓練生から声が上がり、その場の目が全て上を向く。カミーユのフェザー後部に乗せられて、ソラルがやって来る。カミーユは訓練場に着地し、ソラルはうつむいたままフェザーから下りた。
「ソラルさん、どうしたんですか? ソラルさんのフェザーは?」
マリオの問いかけに、ソラルは下を向いているだけ。ウィルがカミーユを見る。カミーユが小さくうなずき、全員に向けて事情を説明をする。
「ソラルは途中で具合が悪くなった。フェザーが離れて落下する前に、俺がソラルを救出した。それだけだ」
「そんなことって」
「あるんだよ、マリオ。気を張りすぎれば、誰にだってそんなことがある」
カミーユとマリオのやり取りの間、ソラルはうつむいたまま動かない。カミーユは「さあ、救護室に行くぞ」とソラルの背中を押して歩き出した。アイリスはその姿を見ながら、カミーユが真実を隠した意味を察した。
(ソラルを養成所から追放できない以上、このことは内緒にするということね)
そう思う一方で、ソラルがあんな行動に出ることを予測していた大人たちに驚いている。
(きっと、王空騎士団のなかで、ううん、飛翔能力者同士の中で、ああいうことは過去にもあったのかも)
女なのに飛べるというだけでも目をつけられるのに、他の人より早く飛べる。この先のもめ事は多そうだと少々憂鬱になった。
「アイリス、おめでとう。無事でよかったよ」
「サイモン。ありがとう」
「これでアイリスは明日から囮役になるんだね。正式な王空騎士団員だ」
「そうね。先輩たちに迷惑をかけないよう、頑張るわ」
会話している二人に事務員のマヤが笑顔で近づいてきた。
「おめでとうアイリス」
「マヤさん。ありがとうございます」
「疲れているところを悪いんだけど、衣装部まですぐに来てくれる? お針子さんたちが手ぐすね引いて待ってるわ。なるべく早くアイリスの騎士服を仕上げなきゃって、みんな張り切っているの」
「あっ、そうでしたね。この訓練服じゃなくなるんですね」
「そうよ。王空騎士団員初の女性能力者、そして初の囮役。『初めて尽くしのアイリスの制服を縫える』って、みんなはしゃいでいるわ」
「そうなんですか。嬉しいです」
「どうしたの? 元気がないじゃないの。飛んでいるときに、なにかあったの?」
「いえ。別に」
「言えないか。だいたいは想像がつくから言わなくてもいいわよ。珍しいことじゃないもの」
「えっ」
「女は嫉妬深いって世間では言うけどね、男の嫉妬はもっとすごいわよ。男だらけの王空騎士団で長く働いていたら、いやでもわかっちゃうし、見えちゃうの。でもね、私はソラルが十歳でここに来たときから見ているから、わかる。あまり心配はいらないと思う。とことん性根の腐った子ではないのよ」
「そうですか」
「さっ、早く衣装部に行きましょう」
「はいっ。じゃあ、サイモン、また明日ね」
「ああ、おやすみ、アイリス」
サイモンはマヤとアイリスのやり取りを聞いて、ソラルが嫉妬心からアイリスに何かをしたことを理解した。
(だけど、アイリスが黙っているならここで聞き出すのはやめておこう)
サイモンは、アイリスに笑顔で手を振って別れた。
アイリスはマヤに案内されて衣装部へと向かい、お針子さんたちに黄色い歓声で出迎えられている。彼女たちは口々にアイリスの飛び級での入団を祝う。
「頑張ってね」
「少しでも動きにくいところがあったら言ってね」
「アイリスさん、制服が似合う!」
お針子さんたちの騒ぎは、衣装部の長が声をかけるまで続いていた。
「さあさあ、採寸は済んだでしょ? アイリスは明日に備えて寝なきゃならないの。もう解放してあげなさい」
明日はアイリスの騎士団員デビューの日であり、囮役デビューの日だ。