22 青空の下で飛ぶ
「こんにちは、お嬢さん。制服と靴を持ってきました。事務員のマヤよ。ここでは数少ない女性同士、仲良くしてね」
「アイリス・リトラーです。マヤさん、よろしくお願いします」
「さあ、隣の部屋で着替えましょう」
マヤは三十代の快活な感じの女性で、栗色の髪を肩の少し下あたりで切り揃えている。シンプルなふくらみのないワンピース姿でスタスタと歩き、別室まで案内してくれた。
アイリスが渡された白い服に着替えると、訓練生の服は身体に張り付くように作られている。
けれど身体の曲げ伸ばしは妨げないよう、肘や膝の部分にゆとりを持たせてあるのがわかる。
「身体にぴったりしたデザインなのには理由があるの。飛んでいるときに服がパタパタしていると、飛翔能力者が疲れてしまうの。だけど身体の曲げ伸ばしはしやすいように計算されて作られているのよ」
「とても動きやすいです」
「あなたが飛ぶところ、楽しみだわ。落ちないように気をつけて。集中してね。あっいけない。髪を結ばないと危ないわ。はい、リボンを持ってきたわ。私ので申し訳ないけど」
「ありがとうございます。お借りします」
アイリスは手早く髪を一本の三つ編みにして、マヤに渡されたリボンで三つ編みの最後を縛って服の中に入れた。
「うん。それでいいわ。これで長い髪が風に煽られても、目にかからない」
広い練習場に向かうと、父のハリー、団長ウィル、ヒロ、ケインが待っていた。他の団員たちが『なにごとだ?』という顏で鍛錬の手を止め、こちらを見ている。隣の養成所の訓練場から、一人の若者が駆け寄って来た。
「アイリス! どうしたの? なんでここにいるの?」
「サイモン……」
「なんで訓練服を着ているんだい?」
ケインがサイモンの肩をポンと叩く。
「まあ見てろよ、サイモン。見ればわかる。話はそれからだ」
ケインにそう言われてサイモンは渋々引き下がった。
二十名ほどの訓練生と百人近い王空騎士団員たちが、全員動きを止めてこちらを見ている。アイリスは緊張しているが、それ以上に広々とした場所で太陽の光を浴びながら飛べることに、次第に心が浮き立ってきた。
団長のウィルが訓練場にいる全員に「場所を開けてくれ」と声をかけた。
「じゃあ、ヒロ、お前が先に飛んで手本を見せてやってくれ。アイリスはできるだけそれの真似をするように。それでアイリスのだいたいの能力がわかるだろう」
「了解です」
アイリスは黙ってうなずいた。
「ケイン、お前は救助役を頼む」
「了解です」
ヒロは練習用フェザーが立て掛けてあるラックから、一枚の黒無地のフェザーを取り出して静かに地面に置き、乗った。膝を曲げ、飛び上がる。フェザーはヒロを乗せてスッと浮き上がる。その高さは二メートルほど。
集まってきた訓練生たち間から、「なにが始まるんだ?」「トップファイターのヒロさんが見本を示すなんて、珍しくないか?」と声が上がる。
ヒロは空中に浮かんだ状態から猛烈な速さで練習場の端まで飛び、端のところで鋭くターンしてこちらを向いた。そのままスピードを上げて斜めに急上昇。高い位置からクルリと大きく円を描いた。続けて二回、三回。身体が上下逆様になっているとき、ヒロの顔は楽し気に微笑んでいる。
回り終わると、地面ギリギリの位置まで降下する。そのままスウッと地面の少し上を滑ってアイリスたちの前に着地した。ヒロがアイリスに笑顔で話しかける。
「こんな感じだよ。アイリス、できるだろ?」
それを聞いたアイリスの父が大慌てで会話に割り込んできた。
「無理だ! あんなことアイリスができるわけがありません!」
「お父さん、私、やってみるわ。多分できると思う。大丈夫だから安心して見ていて。驚いて倒れたら困るから、できればベンチに座って見ていてよ」
「ああ、そうさせてもらうよ。アイリスや、無理だけは……」
「うん。無理はしないから大丈夫。ヒロさん、フェザーはどれを使えば?」
するとヒロではなくケインがラックから一番短いのを選んで手渡してくれた。オレンジ色一色のフェザーだ。それを渡しながらケインがアイリスを励ました。
「アイリス、俺が下で待機している。落ちたら絶対に拾う。だから安心して思いっ切り飛んでこいよ」
「はい。ケインさん、お願いします」
アイリスはオレンジ色のフェザーを静かに地面に置き、一度深呼吸をしてから乗る。
深く膝を曲げ、跳び上がる。
アイリスはオレンジのフェザーに乗って、ヒロと同じ二メートルまで飛び上がった。
見ていた訓練生の間から驚きの声が上がる。
「えええっ?」
「嘘だろう?」
「女なのに! なんで飛べるんだよ!」
「なんで網が張られていないんだ?」
そんな声は今のアイリスには届かない。アイリスは今、全速力で練習場の端を目指して飛んでいる。アイリスの耳の脇で風がヒョォォッと鳴っている。一気に気持ちが高揚してきた。
練習場の端にたどり着く手前で身体を深く斜めに倒し、最小の半径で百八十度向きを変えた。
アイリスは青空の下で全速力を出して飛ぶ心地よさに酔いしれている。
(飛べ! もっと、もっと、もっと速く!)
心の中で叫びながら鋭い角度で急上昇。王空騎士団の建物よりずっと高い位置まで上昇し、赤い屋根瓦を眼下に眺めた。更に加速して地面に向けて大きく弧を描く。きれいな円を描きながら落下する。入ったばかりの訓練生なら、恐怖心と内臓が浮き上がる感じとで吐き気を覚えるのだが、アイリスはひたすら楽しかった。
(家族や友人の自分を見る目が変わるのでは)という不安は、風と一緒に吹き飛んでいく。
「ぶつかるっ!」
ハリーが小さく悲鳴を上げたが、周りにいる者たちは誰も気にしない。アイリスは完璧にフェザーをコントロールしていて、ヒロよりも高速で回転し、地面に激突する寸前で、再び弧を描きながら急上昇する。
二度、三度、四度。猛烈な速さで大きく回る。最後に練習場の中央あたりで円の下縁に達すると、地上十㎝を保ちながら、団長、ヒロ、サイモン、父が待つ場所へと戻ってきた。アイリスの後ろからケインがニヤニヤしながらついて来る。
ヒロがヒュウッと口笛を吹いた。
見守っていたサイモンと全訓練生と全ファイターたちの口が半開きだ。
ハリーはベンチに座ったまま右手を額に当てて目を閉じていて、団長とヒロ、ケインは笑っている。サイモンは呆然としている。団長が話しかけてきた。
「アイリス、間違いなく君はトップファイターの個人指導を受ける資格があるようだ。だが、私は個人指導だけではもったいないと思う。どうせならさっさと王空騎士団の養成所に入って、技術を磨き知識を深めたほうがいい」
アイリスは、まだ全力で飛んだ興奮が冷めていない。頬を赤くし、目をキラキラさせて、口は今にも笑い出しそうに口角が上がっている。
一方、父のハリーは顔色が悪い。まだ地面に激突しそうな勢いで急降下していたアイリスの姿が瞼の裏にいるからだ。
アイリスがウィルにむかって質問を投げかけた。
「騎士団に入ったら、家を出て養成所の寮に住まなくてはいけないのですよね?」
「そのことだが、寮は女性用の浴室やトイレがない。アイリスを受け入れるとなると事前に準備すべきことがたくさんある。私は通いでもいいと思うが、まずは飛翔能力者登録の手続きを済ませてしまおう。それから君の扱いを考えるよ」
「私、剣を握ったこともないんです。それでもいいんですか?」
「ああ、もちろんだ。ただ、王空騎士団は武器を持って飛ぶ者だけじゃない。それに、実際は巨大鳥に対して武器を使うことはほとんどないんだよ。『巨大鳥を傷つけない、殺さない』というのが国の方針だからね。君のことは私から国に届けを出しておく。登録も私が済ませておこう」
「わかりました。団長様。よろしくお願いします」
「団長様、娘が自宅から通えるよう、どうぞご配慮をお願いいたします」
そう言って父と娘が帰ろうとしたところへ、サイモンが走り寄って来た。
「アイリス!」
「サイモン。あの……能力が開花したこと、黙っていてごめんね」
「もしかして僕がノートを届けたときの熱が開花熱だったの?」
「ええ。サイモンが帰った後に、真似をしてフェザーに乗ったの。そしたら飛べたのよ」
「今日の飛行を見る限り、練習をしていたみたいだね。ずっと一人で飛んでいたの?」
「最初は毎日部屋の中で。従弟と二人で練習していたの。その後、毎晩一人で飛んでいたわ」
「……そうなんだ」
「え?」
「なんでもない。じゃ、また学院でね」
サイモンは硬い顔で走り去った。
(今の会話のどこがだめだったのかな? わからないわ)
アイリスは目をパチパチしながらその後姿を見送った。少し離れた場所で待ってくれていた父が弱々しい声で呼びかける。
「アイリスや。帰ろう。父さんは疲れた」
「はい。今行きます」
アイリスの心から、学校を出るまでの重苦しさがすっかり消えている。爽快な幸福感に心が満たされていて、なんでもできそうな気分だ。
青空の下で飛ぶ気持ちよさ、上昇するときの解放感、急下降するときのワクワクする楽しさ。
(もう飛ばないでいるのは無理)と、アイリスは強く思う。
ファイターたちは戸惑った顔でアイリスを見送っていたし、訓練生の一部は無言のまま互いに視線を交わし、不満そうな表情を浮かべている。
だが楽しさに心が満たされていたアイリスはなにも気がつかなかった。





