21 父と王空騎士団へ
夜の十時過ぎ。
アイリスは母と姉に挟まれて母のベッドに入っている。そのベッドの中で、母はなぜか昔の話ばかりする。
アイリスがどんなに可愛い赤ちゃんだったか。初めて「ママ」と言ってくれた日の感動。初めて立って歩いた日のこと。風邪を引いて熱を出し、心配させたときのこと。
最初は笑顔で聞いていたアイリスも、なぜ母が昔のことばかり話すのか途中で気がついた。
母はアイリスの未来を悲しんでいるのだ。それに気づいてからはもう、微笑ましい話を聞いても笑えなくなった。
「アイリス、これだけは本当のことを言ってくれる?」
「なあに?」
「あなた、好きな男の子はいるのかしら」
サイモンの顔が思い浮かんだが、サイモンは侯爵家の養子だ。
(身分が違いすぎる。サイモンを好きだと言ったところで、誰も幸せにならない。私の能力のことで苦しんでいる家族を、これ以上苦しませたくない)
アイリスは、母と姉と父のために嘘をついた。
「好きな人は、まだいないわ」
「そう。よかった」
「なんで?」
「きっとあなたには貴族から婚約の申し込みがたくさん来ると思うの。お父様と私があなたの意に沿わないお話は全力でお断りするわ。前々から私とハリーは、あなたたちが嫌だと思う人と無理やり結婚させるようなことはしないと決めていたの。アイリスのことはお父様と私が守ってみせる」
(飛翔能力が開花しただけでもこんなに困っているのに、婚約? 結婚?)
これ以上先のことは何も考えられず、アイリスは目を閉じた。考えるべきことがありすぎて、頭が破裂しそうだ。
「アイリス? 眠ったの?」
アイリスは目を閉じて動かないでいた。
「きっといろんなことが一度に起きたから、疲れたのね」
グレースはそう言うと、アイリスのこめかみにキスをして、小さな声でつぶやいた。
「女の子なのに能力者だなんて……どれだけ苦労するのかしら」
アイリスは目を閉じたまま寝たふりを続けている。母の言葉がつらかった。
※・・・※・・・※
翌朝、いつものように学院に向かった。帰りは父が迎えに来て、父と二人で王空騎士団に行く予定だ。
教室に入り、自分の席に座ると、すぐにサイモンが後ろの席に座り、声をかけてきた。
「おはようアイリス」
「おはようサイモン」
サイモンは腫れぼったいアイリスの顔を見て「まぶたが腫れているけど、どうかしたの?」と言おうとして、(女の子にそんなことを言うのは失礼か?)と思い、開きかけた口を閉じた。アイリスが元気なく顔を背けたので、会話はそのまま途切れてしまった。
午前中の授業が終わってすぐ、サイモンがアイリスを昼食に誘ったのだが。
「あの屋上の手前の部屋で一緒にお昼を食べないか?」
「ううん。今日はサラと食べるから。ありがとう。ごめんね」
「わかった。じゃあ、また今度ね」
「うん」
本当は約束なんてしてない。だからアイリスはサラのところまで行って、サイモンに聞かれないよう、小さな声で話しかけた。
「サラ、今日、お昼を一緒に食べられるかしら」
「もちろんよアイリス。一緒に食べましょう! いい場所を知っているの!」
アイリスは、いつもと変わらない陽気なサラが心からありがたい。
昼休み、「早く行かないと座る場所がなくなるから」とサラに急かされて二人で走った。
アイリスは(こんな普通の日々は、自分に飛翔能力があると知られた後でも続くのだろうか)と思いながら走る。
サラの言う『いい場所』とは、中庭のベンチだった。ベンチを確保し、お弁当を食べながら、アイリスはサラに聞いてみた。
「サラ、これからもずっと友達でいてくれる?」
「当たり前じゃないの。なんでそんなことを言うの?」
「来年も再来年も友達でいてくれたら嬉しいなと思って」
「わかった。今ここで、死ぬまで友人だと宣言しておく!」
楽しそうに笑うサラの顔を見ながら(その笑顔が変わりませんように)とアイリスは気弱に願う。
気もそぞろなうちに授業は四時限まで終わり、アイリスは父の馬車に乗り込んだ。迎えに来た父の顔色が悪い。
「アイリス、まずは個人的に訓練を受けることにしよう。その先のことは父さんが騎士団長様と話し合う。それでいいな?」
「はい、お父さん」
会話はそれだけで終わり、馬車は王城の隣に建つ堅牢そうな建物の前に到着した。
門兵と父がひと言ふた言会話すると門が開けられ、王空騎士団の敷地内へと馬車が進む。馬車の窓からは、訓練場を走っている騎士や剣の鍛錬をしている騎士が遠くに見えた。
男の人に案内されて建物の中を進み、金色のプレートに「王空騎士団 団長室」と書かれた部屋の前に立った。係の人に促されて中に入ると、アイリスの手にじっとりと汗が滲んでくる。
(これからどうなるんだろう)という不安で、心臓がドキドキする。
団長室はえんじ色の絨毯が敷き詰められた広い部屋だった。
親子が部屋に入ると、書類仕事をしていた男性が立ち上がって歩み寄って来る。短く刈り上げた金髪に緑の瞳。盛り上がった筋肉が服の上からでも見てわかる。アイリスはその男性に見覚えがあった。
「はじめまして、ハリー・リトラーさん、アイリスさん。私は王空騎士団団長のウィル・アダムズです。王空騎士団へようこそ」
「団長様、本日は急なお願いにもかかわらず、お時間をいただきましてありがとうございます」
「こんにちは。団長様。お会いするのは二度目です。五年前に巨大鳥から助けていただきました。アイリス・リトラーです。あのときはありがとうございました」
ウィルは「ほぅ?」という表情でアイリスを見る。
「五年前か。ええと、もしかして姉妹でケヤキの下にいた、あの少女かな? 私のことをよく覚えていたね」
「人の顔を覚えるのは得意です」
「そうか。なかなかハキハキしたお嬢さんのようだ。さ、リトラーさん、どうぞ座ってください。だいたいの状況はあなたからの手紙と、うちの団員からの報告で理解しています」
「はい、それでですね、」
ドアがノックされてハリーは口を閉じた。ヒロとケインが入って来た。二人は団長に促され、アイリスと団長の間の席に座った。
「アイリス。この団員たちの報告によると、君はとても速く跳べるだけでなく、空中で三回転ができるんだそうだね?」
「はい。三回転はあのとき初めて試してみましたけれど、できると思ったので」
「木の枝でも飛べるんだって?」
「はい」
ヒロとケインは『そうなんですよ』というようにうなずいているが、ハリーは初めて聞くことばかりで動転している。
「とても速く? 三回転? アイリス、お前は一人でそんなことを?」
ハリーの様子を見て、団長はアイリスが飛ぶところを父親に見せていないことに気づいた。
「どうやら君のお父さんは、まだご存じないようだ」
「……夜にこっそり一人で飛んでいましたから」
「これから訓練場で飛んで見せてもらえるかい?」
ハリーは思っていたよりも早く話が進んでしまい、慌てた。
「団長様、少々お待ちください! たくさんの団員たちの前で娘を飛ばせるのですか? こちらの騎士団員様が、個人的に練習をつけてくださるというお話でしたが、それはどうなりましたか? 王空騎士団員も候補生も全員男性です。娘を一人でその中に入れることは、失礼ながら親としては不安がございます。」
団長ウィルがチラリとヒロとケインの方を見る。二人は気まずそうな顔だ。
「そのことですが、二人の団員が指導する話は、まずアイリスさんの能力を私が確認してからになります。アイリスさんは十歳のときには判定試験に合格していません。なので、うちの団員を指導係として派遣できるかどうかは、間違いなくアイリスさんに飛翔能力があるのを確認してからです」
「それではアイリスの能力が多くの人に知られてしまいます!」
「リトラーさん」
ウィルは諭すような口調になった。
「いいですか。アイリスは飛ぶ楽しさをすでに知っています。もう飛ばずにはいられないと思いますよ。アイリスの能力をこの先ずっと人の目から隠そうとすれば、彼女はいつまでも夜遅くに飛ぶことになる。危険です」
「それは……」
「昼間、堂々と飛ばせればいいではないですか。アイリスに能力があれば、彼女は王国の宝になるのです。今、団員たちに見られることなど、どうってことはありません」
「ですが……ですがっ……」
「国には王空騎士団から報告します。報告後はもう隠すことはできません。『十五歳で能力が開花した少女』は話題になることでしょう。あっという間に知れ渡ります。リトラーさん、腹をくくってください。アイリス、君はわかるね?」
「……はい」
「よし。では着替えを用意させよう。君の身長は?」
「百六十三センチです」
「わかった」
ケインが小さくうなずいた団長室から出ていき、少ししてから真っ白な練習服と編み上げ靴を持った女性が入って来た。





