2 判定の日の少年
「アイリス! 見てごらん! 王空騎士団が飛んで行くわよ! そろそろ渡りが始まるから見回りに行くのかしら」
五歳のアイリスは、姉のルビーが指差す空を見上げた。
春の淡い水色の空を飛んで行く集団が、黒く小さく渡り鳥の群れのように見える。
「わあ、すごく高い。あの人たち、怖くないのかなあ」
「あの人たちは生まれた時から特別だからね。どんなに高い場所も、怖くなんかないのよ」
「へえ。いいなあ。私もあんな風にお空を飛んでみたい」
「無理よ。女の子は飛べないもの」
「そうなの? ルビーお姉ちゃん、なんで?」
「なんでなのかはわからない。でも女の子で飛べる人はいないし、王空騎士団は全員男の人よ」
「ふううん。つまんないの」
「アイリスったら。空を飛べたら、巨大鳥と戦わなきゃならないのよ?」
「戦わないで飛ぶだけ!」
「そうはいかないわよ」
姉のルビーと妹のアイリスは、王空騎士団の集団が見えなくなるまで見送った。
王空騎士団の男たちは、『フェザー』と呼ばれる薄い板に乗っている。彼らは一定の間隔で並び、同じ速さで整然と飛んでいた。
「美しかったねえ、お姉ちゃん」
「アイリス、私はファイターと結婚するわ」
「どうやって?」
「うちのリトラー商会をもっともっと繁盛させたら、ファイターと結婚できるかもしれない」
「ふうん。私はやっぱりあんな風に飛びたい」
仲の良い二人。姉のルビーは七歳、アイリスは五歳。
姉妹はリトラー商会という小さな商会の娘で、二人揃って母の金色の髪と父の緑の瞳を受け継いでいる。
姉のルビーはしっかり者、妹のアイリスは活発な性格だ。アイリスは下の子ということもあって大らかに育てられ、両親にも姉にも可愛がられている。
「ルビー、アイリス、お勉強の時間よ」
呼んでいるのは、普段は優しいけれど勉強には厳しい母グレース。姉妹は仲良く手をつなぎ、家へと駆け足で戻った。
王空騎士団の活躍もあり、その年のグラスフィールド王国には巨大鳥による人的被害は出なかった。
※・・・※・・・※
それから五年後。
十歳のアイリスは父のハリー・リトラーと一緒に『判定試験』を受けに来ている。
グラスフィールド王国のほとんどの子どもにとって、十歳の年に受ける『判定試験』は、ただの儀式だ。
なぜなら、飛翔能力者は試験を受ける十歳男児の一万人に一人ほどしかいないからだ。
飛翔能力者は、たいていもっと早い段階で把握されている。この試験は万が一見逃されている子供がいないかを確かめるために行われているのだ。
「お父さん、試験の後でお菓子屋さんに寄ってもいい?」
「ルビーがこの前話していたお菓子屋さんかい?」
「うん。私、ずっと行ってみたかったの」
「いいよ。一生に一度の判定試験だ。アイリスの行きたい場所に行こうじゃないか。好きなお菓子を買うといい」
「嬉しい。ありがとう、お父さん大好き!」
アイリスは愛くるしい顔を輝かせて喜んだ。
どうせ試験の結果はわかっている。国民の義務を怠れば罰せられるから行くだけだ。
アイリスは金色の長い髪を後ろに流し、緑の瞳と同じ色のワンピースドレスを着ている。街のお菓子屋さんは、滅多に行けない憧れの場所だ。
姉のルビーは十二歳の今年から学院に通っていて、学院の行き帰りに前を通るお菓子屋さんの話を何度もしていた。
まだ十歳のアイリスは、よほどのことがない限り一人で街に行くことは許されない。人さらいの危険があるからだ。それに、お菓子屋さんで自由にお菓子を選んでお金を使うなんて贅沢は、生活が苦しいリトラー家ではありえなかった。
判定会場は最寄りの役所。
受け付けを済ませ、中庭に並べられた椅子に座る。担当官から丁寧にフェザーを飛ばす方法を説明された。そして名前を呼ばれるのを待つ。保護者は受験者の隣の席だ。
「二十三番、アイリス・リトラー、前へ」
「はい」
アイリスは前に出て、羽の形をした白い板の上に乗った。それは本物のフェザーを子供用に小さくしたもので、板の長さはちょうどアイリスの身長くらい。幅は身体の幅くらいだ。
担当官は四十歳ほどの男性で、ペンを手にして淡々とアイリスに質問する。
「飛べますか?」
「いいえ」
「フェザーに乗って」
「はい」
「ジャンプして」
アイリスは事前に説明された通りに膝を深く曲げ、ジャンプする。もちろんフェザーは飛ばない。
「はい、結構。席に戻りなさい」
担当官は無表情に書類の「能力無し」にチェックを入れた。
この日、会場には十歳の子供たちが数十人集まっている。どの子も小型のフェザーに乗り、ジャンプしてすぐ下りる。
だが最後の男の子がフェザーに乗り、担当官の質問に「飛べます」と答えると、その場に居合わせた全員が息をのみ、少年を見つめた。
「では浮かせてごらん。高さはほんの少しでいい。落ちて怪我をしないようにね」
「はい」
少年はフェザーの上に乗ると、膝を曲げた。しっかり沈み込んでから飛び上がる。
ふわり。
少年の身体がフェザーごと二メートルほども浮き上がった。会場にいた人々から「おお」というどよめきが生まれる。
少年はフェザーに乗ったまま、中庭をゆっくり一周した。 動きは安定していて危なっかしいところが全くない。彼が普段から飛び慣れていることは、アイリスにもわかった。
会場の全員が、驚きと興奮の表情でフェザーを操る少年を目で追いかける。
父のハリーがアイリスにそっと話しかけてきた。
「アイリス、私たちは幸運だ。未来の王空騎士団員誕生に立ち会うことができたんだよ」
「お父さん、なんてきれいな動きかしら」
「ああ。上手いな。あの子はもしかすると将来はトップファイターになるかもしれないよ」
「わぁ、そんなに? すごい」
フェザーが中庭を一周したところで担当官が最初の場所を指差し「ここへ」と声をかけた。少年は一切音を立てず、スッとフェザーを着地させる。担当官はとても満足そうにうなずき、少年も晴れがましい表情で微笑んでいる。
「はい、他の皆さんはこれで帰ってくださって結構です。君は残るように」
アイリスは父と一緒に会場を出たが、先ほどの興奮がまだ冷めやらない。
フェザーで飛ぶ人をあんなに近くで見たのは初めてだった。彼は全く重さがないかのように、まさに羽のように軽やかに飛んでいた。滑らかに飛ぶ姿には、神々しささえ感じられた。
「お父さん、あの子、とってもすばらしかった!」
「判定会場で能力者を見られたのは本当に幸運だったな」
アイリスと父は菓子店で買い物をした。その間もアイリスはまだ興奮している。あの少年が自分たちとは違う人間のようだと思った。整った顔の少年は当然のことのようにフェザーを飛ばしていて、フェザーは少年の身体の一部のように自在に動いていた。
「お父さん、あの子は平民の服装をしてたね」
「そうだな」
「私と同じ十歳なのに、もう自由に飛んでいたわ」
「ああ。あそこまで高い能力があれば、噂ぐらいは聞いているはずなんだが。王都育ちではないのかもしれないな」
アイリスは華麗に飛んでいた少年のことで興奮しているのだが、父のハリーは別のことを考えている。
飛翔能力のある子は、生まれが平民でも貴族の養子になることが多い。その上で貴族の親戚の令嬢と婚姻を結ぶ者がほとんどだ。貴族は子孫にファイターが生まれることを期待する。飛翔能力者の誕生は、貴族にとって、この上ない名誉だからだ。
(平民の男の子か)
ハリー・リトラーは小ぶりな籠いっぱいに詰められたお菓子の代金を支払い、興奮冷めやらぬアイリスを連れて菓子店を出た。
本日11時に第3話を更新します。