11 オリバーの判断
アイリスは今、床に座り、ベッドに寄りかかって呆然としている。
最初にフェザーから転がり落ちたときは(フェザーが浮くわけないじゃない。私、めまいがして倒れたのよね)と思った。
だからもう一度フェザーに乗り、サイモンの真似をする前に、ちゃんと確認した。
「めまいはしていない。うん、大丈夫」
もう一度フェザーに乗ってジャンプする。
またフェザーは浮き上がる。慌ててしまい、転がり落ちる。
また試す。また浮かぶ。繰り返しているうちに落ちなくなった。
「何十回やってもフェザーが浮くって、どういうこと? 私はどうなったの?」
青い子供用フェザーを見ながら自問自答を繰り返す。
幼い頃から憧れていたことなのに、最初に感じたのは喜びではなかった。大きな困惑と少しの恐怖。嬉しいと思う余裕が全くない。
(サイモンの力がこの板に残っているとか? ……そんなわけないか。そんなことができるなら、とっくにいろんな人が飛んでいるわよ。私、飛翔能力が開花したの? まさか。飛翔能力者は、一歳とか三歳とかで能力が開花するんでしょ? どんなに遅くても六歳までなんでしょ?)
「私、もう十五歳なのに?」
信じられずに繰り返しフェザーに乗って試す。毎回必ずフェザーは浮き上がる。
二十回目を超えたあたりから前進もできるようになった。
ほんの少し重心を前に動かすだけで、青いフェザーは聞き分けの良い馬のようにアイリスの意図した方へゆっくり滑り出すようになった。
「一回落ち着かなくては。うん。落ち着くのは大切」
フェザーを床に置いて、ボフッとベッドに仰向けになる。
それから気づいた。身体がヒンヤリしていて発熱の気配が全くない。目を閉じてもめまいがしない。ふわふわした感じも消えている。
アイリスはガバッと起き上がり、大急ぎで着替えた。外出用の靴に爪先を入れながら、(オリバー、頼むから家にいてよ!)と願う。
(なんとなくだけど、今この状態で両親に告げるのはやめておいたほうがいいような気がする。これが一時的なことだったら、家族を大騒ぎさせた挙句にがっかりさせて終わる)
「ん? がっかり? ホッとするじゃなくて? どっちかしら。……もう、わからない」
だがこれから会うオリバーなら間違いなく喜んでくれるという確信があった。オリバーは自分が飛んで見せたら喜ぶだろうし、相談に乗ってくれることも間違いない。
アイリスは急いで母の部屋に行って声をかけた。
「熱が下がったし、めまいも消えたの。オリバーのところへ行ってもいいですか? 座っておしゃべりをするだけにします」
「おしゃべりならオリバーに来てもらえばいいでしょう? なぜ病み上がりのあなたが出かけるの」
「だって、もう熱が出ないのがわかるんだもの。おでこを触ってみて」
母のグレースがアイリスの額に手を当てる。
「あら。本当ね。ヒンヤリしてるわ。めまいもないの?」
「全然ないの。ねえ、お母さん、いいでしょう?」
「顔色もすっかりいいわね。そんなに元気そうなら、いいでしょう。お父様に馬車で送ってもらいなさい」
「わかりました。では行って参ります! お母さん」
父に頼んで荷運び用の馬車を出してもらった。父にも熱やめまいを確認されて、アイリスは前髪を上げて額を触らせ、「ほら! もう全然ふらつかないの」と片足で立って見せる。
「行きは送ってやるから、帰りはオリバーの家で馬車を出してもらいなさい」
「はい。必ず馬車で送ってもらうね」
オリバーの家まで、馬車ならすぐだ。スレーター伯爵家までアイリスを送り届け、父は帰って行く。
門番に門を開けてもらうと、アイリスは先導してくれる門番を追い越したいのを我慢した。玄関で侍女が取り次いでくれて、オリバーは驚いたような顔で出てきた。
「珍しいね、アイリスが来るなんて」
「オリバー、大変なことが起きたの」
「なに?」
「ここじゃ言えない。オリバーの部屋に行ってから話すわ」
オリバーは無駄なことが嫌いだ。
だからアイリスの言葉を聞くと、何も言わずにくるりと背中を向けて自分の部屋へと歩き出した。
部屋に入り、オリバーがアイリスに向き直る。
「大変なことって、なに?」
「オリバー、本当に大変なことが起きたのよ。私がなにをできるようになったか、見たら驚くわよ」
「前置きはいいから。大変なこととやらを早く見せてよ」
「いいわ。その前に」
アイリスは部屋のドアに鍵をかけた。そして自分の部屋と同じように壁に飾ってあるフェザーに近づき、フックから外す。オリバーのフェザーには、濃紺の地に金のラインで双頭のワシが描かれている。
色が少ないからか、派手なデザインなのに品がいい。
オリバーは怪訝そうに眉を寄せて黙って見ている。
「見てて」
アイリスは絨毯の上にフェザーを置く。大きさと重さはアイリスの子供用フェザーとほぼ同じだ。家で試したときは裸足だった。だから靴を脱ぎ、靴下も脱ぐ。淑女の礼儀に大幅に反することだから、オリバーが「はあ?」と声を出したが無視だ。
(落ち着いて。ゆっくりよ)
フェザーに乗り、膝を曲げ、沈み込む。それからしっかりとジャンプする。
紺色のフェザーはアイリスを乗せ、床から五十センチほど浮き上がり、空中に留まった。
「嘘だ! なんで! どうしてさ!」
「しっ! 静かに。人が見に来るから大声は出さないでよ」
浮かんでいるフェザーの上で、アイリスはバランスを崩さないようにしながらオリバーに注意する。
若干及び腰ではあるが、ゆっくり前進もして見せた。壁の手前でユーターンしようとしてバランスを崩し、転げ落ちる前に自分から飛び下りた。濃紺のフェザーは、アイリスが飛び下りると同時にパタッと床に落ちた。
オリバーは唇を噛み、怒っているような表情だ。
「アイリス。それ、いつから?」
「さっきから。ここんとこ夜に熱が出ていたの。めまいとか吐き気も。食べ物の味もわからなかった。それで学院を休んだら、飛翔能力者の同級生が授業のノートを届けに来てくれて、ついでに飛んで見せてくれたのよ」
「必要な部分だけ話して」
「それでね、その同級生が帰ってから動作を真似したの。そしたら飛べたのよ! オリバー、これ、どういうことだと思う?」
「待って!」
オリバーは書棚に駆け寄り、一冊の本を持って戻った。
「ええと、確かこの本に書いてあるんだ。あ、ここだ。読んでみてよ」
「どれどれ。飛翔能力者の能力開花時の症状は、発熱、食欲不振、めまい、浮遊感。これ、全部私の症状とぴったり同じだわ」
「だよね。アイリスは能力が開花する前の症状が出ていたんだよ」
「やっぱり私、飛翔能力者だったの? 十五歳で開花したってことよね?」
オリバーは本を閉じて抱えたまま、部屋の中をせかせかと往復する。
「飛べるんだから、そうなんだろうな。へええ、こんなことがあるのか……。それでアイリスはどうするつもり? もうハリー叔父さんとグレース叔母さんには知らせた? 国には報告するの?」
「両親にはまだなにも言ってない。能力が今だけのことで、すぐに消えちゃうかもしれないもの。なんで国に? 能力は開花したけど、私は巨大鳥と戦うなんて無理よ。剣なんて握ったことさえないわ」
「そうだね。アイリスが巨大鳥の前に出て行ったら、最初に食われそうだ」
「うっ」
動揺しているアイリスを眺めながら、オリバーは猛烈な勢いで頭を働かせる。
天才少年は、『アイリスが手の届かない存在になってしまうのは嫌だ』という心の奥底の本音に自分で気づいていない。
自分の初恋を自覚しないまま、『どうやったらアイリスが手の届かないところに行くのを防げるか』を必死に考えている。
(女性の飛翔能力者なんて、とんでもなく貴重な存在だ。国に届け出たら、王空騎士団に入るのは無理でも、国の管理下に置かれるに違いない。僕は飛翔能力者に協力してもらって調べたり実験したりしたいことが山ほどある。こんな絶好の機会はもう来ない)
「オリバー、どうしたの?」
「ちょっと黙って。考えているから」
「あ、はい」
オリバーは『アイリスの能力を大人たちから隠すべきだ』と判断した。