104 空中散布
朝が来た。
軍人も王空騎士団員も、疲労感が貼りつく身体で起き上がる。全員が野営だ。火をおこし、朝のお茶を淹れて配る者、硬い携帯食をお茶に浸して食べる者。無言で食べている男たちの耳に、馬車の音が聞こえてきた。
「誰だ? 軍の人間じゃないな」
「ありゃ貴族の馬車だ」
携帯食のパンを食べていたアイリスが立ち上がった。馬車をひと目見るなりハッとした顔をして、すぐにフェザーで馬車に向かって飛んでいく。サイモンが護衛騎士のように素早く続く。アイリスは馬車の窓の位置に並んで飛ぶと、窓が開いて見知った顔が現れた。
「やあ、アイリス。おはよう」
「オリバー! なんでここに来たの? ここはもう戦場みたいな状況なのよ?」
「だから来たんだ。超大型バッタが大量に出現したんだろう? 詳しいことは着いてから」
突如現れたオリバーを見て、カミーユとマイケルが驚いた。
「オリバー、どうした?」
「カミーユ団長。お久しぶりです。いいものを持って来ましたよ。超大型バッタ用の忌避剤です」
本来なら六人が座れそうな馬車のドアが開けられる。座席を取り払った場所に置かれているのは、樽だ。ぎっしりと詰め込まれた樽を御者と従者がウンウン言いながら下ろしている。
「オリバー、忌避剤とは? 有毒なものなら麦畑では使うわけには……」
「そんな間抜けなことをしません。普通のバッタで効果は確認済みです。これを薄めて撒けば、バッタは作物に近寄りません。既にそこにいたバッタは慌てて逃げ出しました」
「ほう。材料は何だい?」
「木酢液です。炭を焼いたときの煙を集めて冷やして液体にしたものです」
耳をそばだてていた男たちの目に光が宿る。
「木酢液の原液を運んできました。これを五百倍に薄めた物を散布してください。超大型バッタが発見されて以来、僕は普通の虫でずっと実験してきました。効果は保証します」
「君の保証なら間違いないな。ではすぐに使えるよう、準備をしよう。効果を確認し次第、上にも報告をする」
ファイターたちが近隣から水樽を集めて回り、酢液の希釈液が完成した。
「よし、これを皆で麦畑に撒こう。人海戦術だ」
ファイターたちがずっしりと重い樽を荒縄でフェザーにくくりつけ、麦畑まで運ぶ。軍人や村人がそれを柄杓やマグカップで撒くという手間のかかる方法だ。だが話を聞いた村人たちの意気は高い。
「これでこの麦畑が襲われないなら、俺らは頑張りますんで!」
王空騎士団は樽を配置し終えて集合し、カミーユが全員の前に立った。
「ここでの散布作業は軍と村の人間にやってもらう。我々は他の被害地に行き、バッタの始末と木酢液の散布を進める。水樽を集めることからだな。そのうち巨大鳥の渡りが始まる。それまでにできる限りの手を打つ。今いる民のためと、これから生まれる子供たちのため、つまり、この国の未来のためだ」
騎士団員たちはカミーユの言葉で再び気力を奮い立たせる。オリバーがカミーユに訴えた。
「僕も行かせてください。少しでも役に立ちたいんです」
「助かるよ。君の頭脳は武器になる」
「ありがとうございます!」
王空騎士団と行動するようになってから、オリバーは変わった。己ができることを全力で行う能力者たちの姿に学んだのだ。自分の頭脳の優秀さが心の支えだった頃は鼻持ちならない物言いをしていたのに、今は謙虚だ。オリバーは誰かを見下すのをやめていた。
(僕には僕にできることをやればいい。僕はアイリスやサイモンみたいに飛べないけれど、この頭脳で役に立ってみせる)
オリバーが加わった王空騎士団は次の被害地区を目指して飛んだ。オリバーを乗せるのはギャズだ。
「アイリスほど速く飛べないが、落ちる心配はないから安心して乗ってくれ」
「安心しています。もうすぐ結婚するアイリスに抱きついて飛ぶのはサイモンに悪いですし」
「ふふふ。たしかにな」
次の目的地は、住民に聞かなくてもわかる。本来なら小麦の穂が重く実っている場所が、土の茶色になっているところが被害地だ。王空騎士団は高度を上げて飛ぶ。カミーユが飛びながらアイリスに声をかけた。
「アイリス、樽四個はさすがに重くないか?」
「いいえ。問題ありません。八個でも大丈夫ですが、網が切れたら困るので四個にしただけです」
「そうか。お前には余計な心配だったな」
アイリスは樽を前後に二個ずつ、合計四個もぶら下げていながら、遅れを取ることもなく飛んでいる。やがて、無残に食い荒らされた麦畑が見えてきた。小麦以外の作物も食い荒らされている。
「よし、あの近くの集落で人を集めよう」
カミーユの号令で王空騎士団は麦畑の近くにある集落に下りた。だが、そこはほとんどの人々が怪我をしていた。対応に出てきた村長も、手足のあちこちに止血のために布を巻いている。
「王空騎士団様ではありませんか」
「この村も襲われたのだな。我々が忌避剤を持ってきた。散布を手伝ってほしいのだが、人手は出せるか?」
「それが……数名は出せますが、とりあえずご覧になってください」
村長に案内されて入った家々は、男たちだけでなく、女性や子供たちまで怪我をしていた。
「服を食べようとしたバッタが全身に群がり、このありさまです。巨大鳥は夜になれば人を襲いませんが、バッタどもは夜も食べ続けます。近寄れば木綿や麻の服に飛びついてくるのです。安普請の家は壁に穴を開けられ、もう、我々は畑に出ることもできず……」
話を聞いていたオリバーがサイモンに話しかけた。
「高い位置から木酢液を撒けばいい。雨みたいにね。樽に穴を開けて飛びながら散布できる?」
「できる。団長、その方法で散布させてください」
こうして飛翔能力者たちはいくつかの樽に複数の小さな穴を開け、かなりの高さから木酢液を撒いた。風に影響されながらもどうにか撒き終えたものの、やってみてわかった。
「これは根本的な解決にはならないな。やつらが飛んで逃げるから、被害が広がってしまう」
そう苦い顔をするカミーユたちに、村長は首を振った。
「いいえ! 助かります! とりあえず畑に出ることはできます。これで飢えて死ぬことはなくなりました。ありがとうございます!」
感謝して頭を下げる村長。副団長のアイザックがカミーユに進言した。
「団長、王都から薬品と包帯、医師の手配を要請しましょう。このまま見過ごすわけには」
「そうだな。アイリス、お前、王都までの往復を頼む。全速力だ。帰りは物資と医者を載せて来てほしい。その他に五名、同行してくれ。アイリスに引き離されてもかまわん。物資を運んでもらいたい」
すぐに五名が立候補してチームが編成された。マイケルとサイモンも参加している。
「では行ってきます!」
そう言うなりアイリスはすっ飛んで消えた。文字通り、消えたように見えた。慌てて他の五人が飛び立った。
「速い」
「速いですね。まあ、アイリスですから」
他の者は高所から木酢液を散布し続けながらアイリスたちの帰りを待った。





