10 ふわり
午後、アイリスの家に来客があった。
「アイリス、あなたにお客様なのだけれど、どうする? 男の子よ。サイモン・ジュールという子」
「会う! 会いたい! 話をしたい! いいでしょう? お母さん」
「あら。そんなに会いたい子なのね。では髪をとかしてからね」
「ええ? いいわよ、すぐに会う」
「だめ。淑女はいつでも美しい姿でないといけないわ」
「淑女って……」
貴族出身の母は、ときどきこういうことを言う。平民として育ったアイリスとしては苦笑したくなるが、母を傷つけないように神妙な顔で口を閉じた。
大人しく髪をとかされ、寝ていてしわくちゃになっている寝間着から室内着に着替えさせられる。
「うん、これでいいわ。美人さんよ、アイリス。じゃ、お招きするわね」
苦笑しながらうなずくと、少ししてサイモンが部屋に入って来た。室内着のアイリスを見て、サイモンは気まずそうに視線を逸らす。そしてアイリスの方を見ずに、壁に飾られている青い子供用フェザーを見ながら話しかけてきた。
「今日も具合が悪いの?」
「今は平気。でも毎晩続けて夜中に熱が上がるの。めまいもする。それに、歩くと雲の上を歩いているみたいにふわふわするわ。熱がある間はなにを食べても味がしないし」
「まるで能力が開花するときみたいだな。早く良くなるといいけど。これ、授業のノート。アイリスは授業に出られないのをすごく残念がっていたから」
アイリスは差し出されたノートを開いて中を見る。細かく丁寧に授業の内容が書かれていた。それも全科目だ。
「嬉しい! ありがとう。大変だったでしょうに。サイモンはとっても丁寧にノートを書くのね」
「違うよ。アイリスに渡す分だから丁寧に細かく書いたんだ。俺のノートはもっと汚い」
「そうなの? とにかく嬉しい。ありがとう、サイモン」
「どういたしまして」
「それで、なんでずっと壁を見てるの?」
サイモンはアイリスがストンとした象牙色の室内着を着ているのに慌てていたし、髪型も学院に来ているときとは違って金色の髪を下ろしているのにもドキドキしている。だが、そんなことは恥ずかしくて言えない。だからサイモンはアイリスの質問には答えずに、話を逸らした。
「きれいなフェザーだね」
「ああ、あれ? おじいちゃんとおばあちゃんが私の生まれたときに贈ってくれたの。私は飛べないけど、あのフェザーは気に入っているわ。アイリスの花をイメージした色なの」
「すごく上等なフェザーだ。ちょっとだけ俺が乗ってもいいかな」
「飛んで見せてくれるの? 嬉しい!」
サイモンはツカツカと壁に歩み寄り、アイリスのフェザーを壁のフックから取り外した。
「小さいな」
「十歳の身長はそのくらいだものね。たしか、そのフェザーの長さは百四十センチよ」
「僕が今使ってるのは百七十五センチだ」
「そのフェザーは飾るものだけど、大丈夫なの?」
「ちょっと浮かすだけ。大丈夫だよ」
そう言ってサイモンはアイリスのフェザーを床の上に置き、静かに乗った。あの判定の日に見たように膝を曲げて沈み込み、グンッ!と上に伸び上がる。フェザーはサイモンの足に張り付いたかのように、彼を乗せてふわりと浮き上がった。
サイモンはそのままアイリスの部屋をゆっくりと一周する。
アイリスは目の前で自分のフェザーが飛んでいるのを見て胸がいっぱいになった。
「こんな感じだよ、って、なんで涙ぐんでいるの!」
「あ、違うの。えっとね、感動しているの。私、小さい頃からずっと飛翔能力者に憧れていて、空を飛びたかったの。でも女の子だし、能力がないから。このフェザーは可哀そうだなって、いつも思っていたから」
「そうか」
「よかった。このフェザーもサイモンに飛ばせてもらって、きっとすごく喜んでいると思うわ」
アイリスはそう笑顔で言いながらも、涙を指で拭う。サイモンは慌てた様子でドアを振り返る。
「君のお母さんが見たら、僕が泣かしたと思われる……」
「大丈夫よ。うちのお母さんはそんな人じゃないわ」
「今、めまいとか吐き気とかは?」
「今は全然ないわ。熱もほんの少し。微熱よ」
「僕と一緒にこのフェザーに乗ってみる?」
「いいの? 本当に?」
「うん。僕が後ろから君を支えてもいいなら」
「いいに決まっているわよ。やった! 信じられない!」
「大げさだなぁ。飛んでから感動してくれよ」
苦笑するサイモンは、アイリスが立つ位置を教えてくれる。
「そう。前後に足を少し開いて。体の重心は真ん中を意識して。うん、そうだね。じゃあ、僕が後ろに乗っておなかを支えるよ? いい?」
「うん! いつでもいいわ!」
「じゃあ、三つ数えたら飛ばすね。三、二、一!」
ふわり。
青いフェザーが床から浮き上がり、前進する。アイリスはバランスを取るのに必死だが、後ろからサイモンがしっかり支えているので落ちることはない。
二人はフェザーに乗ってゆっくり室内を一周する。アイリスは大興奮だ。
「もう少し高く飛んでみる? 怖いかな」
「怖くない! 天井まで飛びたい!」
「わかった。じゃあ、行くよ」
床上二十センチほどだったフェザーがスウッと上昇した。
「大丈夫かな。怖かったら下りるけど」
「平気! このまま! ああ、なんて楽しいの!」
「楽しいならよかった。俺の母さんは絶対に乗らなかったよ」
「そうなの? なんてもったいない!」
二人は青いフェザーで天井近くをゆっくりと飛んだ。
「もう下りるよ。あんまり興奮して熱が上がったら大変だ」
「そうよね。残念だけど、下りるわ」
サイモンは完璧なコントロールでフェザーを絨毯の上に着地させ、アイリスが椅子に座ったのを確認してから壁のフックにフェザーを戻した。
それと同時にアイリスの母グレースがお茶と焼き菓子を持って入って来た。サイモンは「危なかった」と口の中でつぶやく。
グレースが部屋を出て行き再び二人になったところで、アイリスはサイモンにずっと聞きたかったことを尋ねた。
「サイモンは学院に通っているけど、ファイターの訓練はどうしているの?」
「学院の授業が終わってから指導を受けてる。今日もそろそろ時間だから、俺は帰らなきゃ」
「そっか。あの、サイモン、厚かましいお願いなのはわかってるけど、またいつかこれに乗せてくれないかな。できれば外で。もっと高くまで!」
サイモンは目をパチパチして少し時間を置いてから口を開いた。
「僕はいいけどさ。アイリスは本当に怖くないの? それと君の両親の許可を取ってくれるか? 訓練生は規則で親の許可のない子供を乗せちゃいけないんだ。でも、そう言ってくれて嬉しいよ。普通は乗りたがる人がいないからね」
「そうなの? 私なら全然怖くないわ。じゃあ次は必ず許可を貰っておく!」
「うん、そうしてくれ。じゃ。お大事に」
「今日はノートをありがとう! それと、乗せてくれて本当にありがとう!」
「おい! 声がでかいってば」
苦笑しながらサイモンは帰って行った。
興奮が冷めないアイリスは、壁に向かい、指先でそっと青いフェザーを撫でた。
「楽しかったね。また今度飛ばせてもらおうね」
楽しかった思いと自分は飛ばせてやれない悔しさ。また今度乗せてもらえるという期待。いろんな感情が渦を巻いていて、心がはち切れそうだ。
「一回だけ」
そう言ってフックからフェザーを外し、床の上に置く。軽くて強いヒイガの木でできたフェザーは楽に動かせる。
絹の室内履きを脱ぎ、裸足になる。日焼けをしていない白い足で自分のフェザーに乗る。フェザーはヒンヤリしている。何度も重ねて塗装されている滑らかな表面が、足の裏に吸い付くようだ。
サイモンの真似をして、膝を曲げ、たっぷり沈み込んでから上に向かって勢いよく伸び上がった。
ふわり。
アイリスの青いフェザーが十センチほど浮かび上がった。
そんな事態を予想してなかったアイリスは、バランスを崩して床に転がり落ちた。