1 プロローグ 王空騎士団と救国の聖女
少しずつアイリスが住む世界の真実が明らかになっていきますので、気長にお付き合いいただければ幸いです。
巨大鳥の渡りが始まった。
全ての家は一か所だけを残してドアも窓も分厚い板で塞がれ、人々は皆、息を潜めて家の中にいる。
十歳の少女キャロルは、可愛がっている子猫のメイベルがいないことに気がついた。
「メイベル、どこ? まさか外に出てないわよね?」
そんなはずはないと家中を探すが、子猫はどこにもいない。
(覗き窓から外を見てみよう。あの子を早く見つけないと、もうすぐ巨大鳥がやってくる)
踏み台を運び、裏口のドアの前に置いて上に乗った。横長の細い覗き窓の蓋を持ち上げ、外を見る。
「うそ! いた! どうして!」
ふわふわの毛玉みたいな白い子猫は裏庭にいた。風に飛ばされて転がる落ち葉を追いかけている。
「メイベル! いったいどこから出たの!」
今ならまだ間に合う。父と母は例年より少し早く始まった渡りのために、地下室に食べ物や水を運ぶのに忙しい。キャロルは閂に手をかけ、持ち上げる。
「うんっ!」
重い角材を床に置き、キャロルは幅の狭いドアを開けて家を抜け出した。外に出てきたキャロルを見て、子猫ははしゃいで逃げる。
「メイベル! メイベル! いい子だから戻っておいで!」
キャロルは必死だ。もう少し、あと少しでだいじな子猫に手が届く。だが、子猫は何度もキャロルの手をすり抜ける。
「待って!」
追いかけるキャロルに大きな影がかかった。キャロルはギョッとして上を見る。すぐそこ、自分の真上に巨大鳥が翼を広げ、太い両足を突き出して、いままさに自分を捕えようとしている。
「ヒッ!」
目を丸くして驚きながらも、キャロルは横っ飛びに倒れ込んで巨大鳥の爪から逃れる。ゴロゴロと転がってから素早く近くの薪小屋に走った。子猫のメイベルも小屋に駆け込んでくる。
薪小屋に壁はないが、薪割りされる前の太い薪が、屋根までぎっしりと積み上げられている。キャロルは何列にも積み上げられた薪の列の間に入り込んだ。
「キャロルッ!」
家の方から父の声が聞こえた。家を見ると、ごく細く開けたドアの隙間から、恐怖で顔を引きつらせた両親が見えた。父と母の視線は、小屋の上と小屋の中のキャロルを忙しく往復している。
「そこから動くなっ! 引っ込んでろ!」
キャロルは言われた通りに薪の列の間に入り込み、子猫を抱いて体を丸める。
巨大鳥が薪小屋の前に着地した。
キャロルを捕まえようとするが、ぎっしり積み上げられている太く重い薪は、巨大鳥といえども嘴では簡単には動かせず、かといって薪を積み上げた列の中にも入り込めない。
キャロルは子猫を抱きしめたまま、そっと巨大鳥の様子をうかがう。
薪の向こうにいる巨大鳥は、形こそワシに似ているが、とんでもなく大きい。
屋根の高さは二メートル以上あるのに、頭は小屋の屋根よりずっと高い位置にある。
巨大鳥はときどき頭を下げて小屋の中を覗いてくる。感情が読めない黒く丸い瞳がこちらを見ている。
巨大な鳥は、薪小屋の前側からキャロルを捕まえるのは無理だと判断したらしい。ヒョイと屋根の上に飛び乗った。
木の板で葺かれた屋根がミシリと音を立てた。すぐに屋根板を剥がそうとしている音がガリガリと聞こえてくる。
「いやあっ!」
キャロルの叫び声を聞いて、小屋の上の動きが一層激しくなった。
メキメキ、バキバキという音がして、屋根板が一枚引きはがされた。四角く開いた穴に顔を横にしてくっつけ、巨大鳥が片目で中を覗き込む。引きつった顔のキャロルと黒い眼玉の視線がぶつかった。
(神様助けて! 助けてくださいっ!)
キャロルは震えながら神に祈る。そのとき、空から声が降ってきた。
「中にいる人は動かないで! そこにいてください!」
若い女性の声だ。
直後に嫌な臭いのする黒い煙が漂ってきて、巨大鳥の顔が四角い穴から消えた。
キャロルが屋根に空いた穴から空を見上げる。
鮮やかな青色のフェザーに乗った若い女性が、巨大鳥の前をふらふらと心許ない様子で飛んでいる。近くには黒い煙を出す棒を持って飛んでいる男の人もいた。
巨大鳥はバッサバッサと羽音音をさせて小屋の上から飛び立ち、女性を追いかけて行く。
さっきまでふらふら飛んでいた女性は、巨大鳥が追いかけ始めたとたんに猛烈な速さで遠ざかっていく。それを追いかける巨大鳥。
キャロルは子猫を抱いたまま薪小屋の中を移動して、巨大鳥と女性が去って行く姿を目で追い続ける。やがて、四角い穴からは女性も巨大鳥も見えなくなった。
(家に戻ったほうがいいの?それともまだここにいたほうが安全?)
判断がつかないまま迷って動けない。すると小屋の外でまた声がした。
「よかった、無事ね。こっちにいらっしゃい」
巨大鳥を誘導して去ったはずの女性が、笑顔で小屋の前にいた。
「さあ、早く。私の前に乗って」
子猫を抱いたままキャロルが走り、青いフェザーに乗ると、女性はキャロルを左腕で抱える。フェザーがふわりと浮かび上がった。フェザーは地面の少し上を滑るように動き、家に向かって移動する。
「キャロル! キャロル!」
父が裏返った声で叫んでいる。青いフェザーは裏口の前に静かに着地し、少女を抱きしめていた腕が緩んだ。
「巨大鳥がいるときに外に出てはだめよ」
そう言うと、女性はキャロルの背中に手を置いて、降りるように促す。
キャロルが家の中に駆け込むと、父が大急ぎでドアに閂をかける。母が震えながら抱きしめてくれた。
キャロルが急いで椅子に乗り、ドアの覗き窓から外を見ると、女性は一瞬で空高く飛び上がり、猛烈な勢いで王城前広場の方へと飛び去った。
「お母さん、あの人は? 巨大鳥に食べられないの?」
「大丈夫、あのお方は王空騎士団のアイリス様だわ。聖女のようだと言われる、すごい能力者なの」
「アイリス様……」
「あのお方が、七百年ぶりに現れた女性の飛翔能力者よ。まるで戦う女神様みたいだったわね」
「キャロル、渡りが終わるまでは、もう二度と昼間に外に出ないでくれ」
「お父さん、お母さんごめんなさい。メイベルを助けたかったの」
「キャロルもメイベルも無事でよかった。父さんは寿命が縮んだぞ」
両親にかわるがわる抱きしめられ、キスをされながら、少女の心には「王空騎士団、聖女、アイリス様」という言葉が深く刻まれた。
これは、『男子の一万人に一人現れる』と言われる飛翔能力を開花させてしまったアイリスの、戦いと恋の物語である。