第515話 英雄の辞書
パリの貴族たちの間で流行したサロンの中でも異彩を放つ、王弟オルレアン公フィリップのサロン。
共和主義思想家たちの集うこのサロンに、流行に流されるまま、そこに加わったナポレオンも居た。
彼はシャドウキャビネットの雑用係として採用され、かつてボルテールが試みたという百科事典編纂事業の復活のための、原稿探しを任された。
そして彼がオルレアン公の屋敷の倉庫で見つけたそれは、悪魔デュークと名乗る精霊が宿るノートの宝具だった。
「何ノートだって?」
デュークが語るその宝具の名前を、ナポレオンが唖然顔で聞き返すと、デュークは「だからbaka-noteだ」
あまりにも残念な名前に、ナポレオンは「もしかして喧嘩売ってる?」と言いつつノートの表拍子を見返すと、確かに表題にはbaka-noteと・・・。
「ローマ字四文字+ノートって、よくあるネーミングだと思うが」
そう、ふざけ口調で言うデュークに、ナポレオンは「つまり冗談で付けた?」
「そうじゃ無い。この名前には、とても深い謂れがあるんだ」とデューク。
そして彼は、その名前にまつわる物語を語った。
ある東の果ての国に、とても乱暴な王が居た。
彼は家来や民に絶対的な服従を要求し、逆らう者は容赦なく罰した。
ある時、彼は命令を発した。「今後は馬を鹿、鹿を馬と言い換えるべし」と・・・・・。
そして彼は家来や民に対して、事あるごとに馬を指して「これは何だ?」と問い、うっかり馬と答えると、即座にその首を刎ねた。
権力を誇示するための無意味な暴政を、民は軽蔑し、馬と鹿は愚か者の代名詞となった。
馬鹿という言葉はここから来ている。
「なるほど。それで馬と鹿で馬鹿・・・か。けど、それとこのノートと、どういう関係が?」
そうナポレオンが問うと、デュークは「これの中身が辞典になってる事は知ってるよな?」
「まあな」
「では、これの馬という項目を鹿、鹿という項目を馬と書き換えてみろ」とデューク。
「何のために?」
そうナポレオンが怪訝顔で言うと、デュークは「実験だよ」
ナポレオンはノートに書かれた項目から、この二つを探し、馬の項目を鹿と、鹿の項目を馬と書き換えた。
するとデュークは「では、街に行って確認といこうか」
ナポレオンはノートを持って街に出た。
通りを歩くナポレオンに、ノートの裏表紙のデュークは言った。
「お前、賭け事は?」
「競馬を少々」とナポレオン。
デュークは「だったらそこに行くぞ」
ナポレオンは行きつけの競馬場へ。そして馬券を売る窓口へ・・・・・。
彼を見て、窓口の売り子は「こんにちは、ナポレオンさん。前回は散々でしたね」
「今日は何かお勧めってある?」
そうナポレオンが言うと、売り子は「一番人気はハイセーコー。あと、オグリキャップとか? 最近人気のスペシャルウィークなんてのもあるよ。大穴狙いならコータローとかヒカリキンかな」
ナポレオンは財布の中味を確認するが、思い直して財布を閉じた。
「鹿券、買わないの?」
そう売り子が残念そうに言うと、ナポレオンは「この間の負けは痛かったからなぁ」
売り子は商売っ気全開で「人生、負ける日もあれば勝つ日だってありますよ。ここはひとつ、万鹿券狙ってどーんと・・・」
「そうだなぁ・・・って、ちょっと待て。何券だって?」
売り子は、きょとんとした顔で「だから鹿券」
「馬券じゃなくて?」
そうナポレオンが言うと、売り子は「馬券って何だよ」
ナポレオンは窓口を飛び出してレース場へ。
そこには何頭もの馬が居る。
「レースに出るのは馬で、ここは競馬場で・・・・・」
そう呟いて彼は周囲を見ると、看板に書かれた文字が目に留まった。
看板に曰く。
「パリ中央競鹿場」
「何だよ競鹿場って」
そう唖然声で言うナポレオンに、ノートの裏表紙のデュークが「鹿が速さを競うレースだろ」
「いや、走ってるのは馬だぞ」とナポレオンは突っ込む。
するとデュークは「さっきノートの中を書き換えたよね? 馬を鹿、鹿を馬って・・・」
「つまりこのノートの効果?! って事は・・・・・・・」
ナポレオンは競鹿場を飛び出して古道具屋へ。
「こんにちは、ナポレオンさん。いい馬の置物が入ったんだが、質流れ品で随分安いですよ」
見ると、見事な角を生やした鹿の頭部の剥製である。
唖然顔で古道具屋を出たナポレオンに、デュークは言った。
「これで解っただろ。このノートに書いた事が実現するのさ」
「それじゃ、これを使えば何だって・・・・・・」
そう呟くと、ナポレオンはノートに書かれた「不可能」の項目を消した。
そして彼はノートを掲げて叫んだ。
「我が辞書に不可能の文字は無い! 俺にはどんな事だって可能なんだ。空を飛ぶ事だって」
「それは止めておいた方がいいと思うぞ」と、デュークは一応、忠告はするが・・・・・。
ナポレオンは、セーヌ河の橋の欄干に立つと、空に向けて跳躍。
そして彼は川に落ちた。
彼は水面で、もがきながら「助けてくれー」
橋の上や土手に、野次馬が集まって大騒ぎになる。
「何だ何だ?」
「身投げだってよ」
「まだ若いのに・・・・・」
そんな事を、水面で藻掻くナポレオンを見ながら、あれこれ言い合う野次馬たち・・・・。
間もなくナポレオンは、ボートで釣りをしていた人に救助される。
「何があったか知らんが、人生、投げたら終わりだぞ。負ける日もあれば勝つ日だってあるんだ」
そんな親切な野次馬たちに、小一時間励まされるナポレオンであった。
野次馬たちが去ると、ナポレオンはノートを取り出した。
「おい・・・・・・、不可能なんて無くなるんじゃなかったのかよ」
そうナポレオンが不信顔で言うと、デュークは「無くなったさ。不可能という言葉は、な」
その頃、ポルタ城では・・・・・・・・。
財務報告書を前に、執務室で頭を抱えるエンリ王子が居た。
「今月も赤字かぁ」
「スパニア内乱の時に決めた、といちの借金、もうすぐ十年ですよ。一分の利子がついちゃいますから」
そうアーサーが言うと、ニケも「私が貸した分は利子一割だわよね?」
「何とかするさ」と言って溜息をつくエンリ。
タルタが「金の湧く泉とか?」
ジロキチが「金貨のなる木とか?」
カルロが「借金が消える呪文とか」
「そんなの出来ない事ですよ」と若狭が突っ込む。
エンリは溜息をついて「そーだよなぁ。出来ない事だよなぁ」
「出来ない事って、世の中には多々ありますから」とリラ。
残念な空気の中、ふと思いついたようにエンリは言った。
「ところでこの"出来ない事"って、もっと簡単に一言で言い表せる言葉って、何かあったような気がするんだが」
「確かに」と言って、仲間たちは互いに顔を見合わせる。
「何だっけ?」と、エンリは遠い目で・・・・。
彼等は知らなかった。ほんの十数分前まで、世間には"不可能"という言葉があった事を・・・・・。
「という訳だ」
パリのセーヌ河の岸では、baka-noteの能力について、デュークが解説を締めくくっていた。
「つまりこのノートって・・・・・・」
そうあきれ顔で言うナポレオンに、デュークは「人々の認識の中の言葉の概念を書き換えるのさ」と結論をまとめる。
ナポレオンは溜息をつき、そして言った。
「って事は、これで変るのって脳内だけ? 意味無いじゃん。こんなので何が実現できるって言うんだよ」
そんな彼にデュークは「お前、何か実現させたい事ってあるのか?」
「俺はテッペンに立ちたい」とナポレオンは答える。
「それって偉くなるって事だよな? 山の上とか物理的に高い所に登るって事じゃなくて・・・」
そうデュークが言うと、ナポレオンは「俺は猿でも煙でも、どこぞの半島人でも無いぞ」
「で、お前が偉くなるって事は、みんながそう認識するって事じゃないのか?」
そんなデュークの言葉に、ナポレオンは頷く。
「なるほど、これは脳内の問題なのか。だったら、ナポレオンって項目に一番偉い人って書けば・・・」
そう言ってノートをめくるナポレオンを、デュークは制した。
「いや、ちょっと待て。辞書に項目として書かれるのは普通名詞とかで、ただの砲兵の名前なんて、普通は項目にならないぞ」
ナポレオンは「だったら、偉い人の項目に"それはナポレオンだ"って書けばいいんだよね。一番偉い人って・・・・・」
「王様だよね」とデューク。
「けど王様って、どこの国にも居るぞ。王様より偉い人・・・・・・・・」
そう呟いて暫く思考するナポレオン。
そして彼は、"皇帝"という項目の説明文を消した。そしてそこに一言書き込む。
「皇帝とはナポレオンである」と・・・・・・・。




