第264話 チョコレートの誕生
ポルタ東インド会社のモウカリマッカによるカカオ飲料とバナナの輸入が軌道に乗って間もなく・・・。
エンリの執務室にアーサーが知らせをもたらした。
「オランダからクルシウスさんが来てるそうですよ。今、ポルタ大学の植物科に居るそうです」
「もしかしてチューリップの新品種?」
そう言って目の色を変えて飛び付くニケに、エンリは「まだ懲りないのかよ」
「今回はチューリップじゃなくてケシだそうで、薬効成分の話なのでニケさんにも来て欲しいそうです」とアーサー。
「ケシの薬効成分って、麻薬よね?」とニケ。
エンリも「危ないなぁ」
「まさかポルタにそれを売り込もうって話じゃないよな」とエンリ王子。
仲間たちを連れて、エンリはポルタ大学へ。
植物学科の研究室に行くと、クルシウスの他にもう一名のオランダ人が居た。
「こんにちは、クルシウスさん」
そうエンリが挨拶すると、クルシウスは頭を掻いて「チューリップの時は、どうも」
「それで、新しい品種はどうなの? あのブームは何時、復活するのかしら」
そう言ってドアップでクルシウスに迫るニケに、エンリはあきれ顔で「そういう日は永遠に来ないと思うよ」
エンリはニケを落ち着かせると、クルシウスの同行者に目を向けた。
「ところで、そちらの方は?」
「薬学が専門で、バンホーデンといいます。植物に含まれる薬用成分について相談したくて来たのですが」と彼は自己紹介。
エンリは彼の持参品を見て、言った。
「その鉢ってケシだよね。薬用成分ってその実から採れる麻薬? あれは毒物と聞いたけど」
「毒も薬とか言いますからね」とクルシウス。
ニケが「毒というのは人体に有害な影響を与えるものだけど、それが具体的にどんな影響を与えるかを知る事で、それを人体に有益な形に使うのが薬学よ」
「それに、似たような毒性成分は、他にいろんな植物の成分にもあるのです。その共通性が何なのかを知る事で、進展が得られないものかと」とバンホーデン。
ニケは「トチの実に含まれる毒は逆の性質を持つわ。蜂の毒もね」
「それって酸とアルカリですか?」とポルタ大学の教授。
ニケは答えて言った。
「そうよ。正反対の性質を持つ成分で、互いに打ち消し合うの。だから、アルカリの毒にやられた時は酸を、酸の毒にやられた時はアルカリを」
「それじゃ、蜂に刺された時も?」とリラ。
「そんなの小便をかけときゃ治るって、親父が言ってたぞ」とタルタ。
エンリが「そんなの、ただの迷信だろ」
するとニケが「そうでもないわよ。酸の毒をおしっこのアルカリで打ち消すのよ」
「そうなんだ」と頷くエンリの仲間たち。
「だったら、酸の毒を飲んだ時は、おしっこを飲むといいって事だよね」とカルロが言い出す。
「いや、飲尿プレイって変態だぞ」とエンリ。
「それは嫌だ」とみんな口を揃えた。
するとムラマサが「けど、王子はホモでロリコンでお魚フェチの変態三重奏だから、あと一つくらいイケるのではござらぬか?」
「そうなんですか?」とクルシウスは怪訝そうに・・・。
エンリは慌てて「本気にしないでくれ。俺はホモでもロリコンでもない」
「でもお魚フェチだよね?」とタルタが・・・。
「とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着きませんか?」
斜め上な騒ぎを見かねたポルタ大の教授がそう言って席を立つと、アーサーが「コーヒーより、あれを出したらどうかな?」
ティータイムにカカオ飲料が出された。
「苦みがあるけど、砂糖を入れると飲みやすくなりますよ」
そう言いながら教授が飲料を注ぐと、バンホーデンは「コーヒーと同じですね」
「ちょっと癖はありますけど」とアーサーが補足する。
一口飲んで、バンホーデンは言った。
「この苦みは酸ですね」
「そういえば・・・」とニケも・・・。
するとバンホーデンは「だったらアルカリ処理で消す事は出来ないでしょうか?」
植物学科の薬草実験室で、ニケとバンホーデンが中心になって、カカオ飲料のアルカリ処理を試みる実験が始まった。
だが、アルカリ成分と混ぜ合わせる過程が、なかなか進まない。
「うまくいかないですね」
そう言って頭を抱えるバンホーデンに、ニケが「これ、油分が強くて水に馴染まないんじゃないかしら」
しばらく思考するバンホーデン。
そして彼は思い付いた。
「この油分、搾油機を工夫して取除けませんか? 私、そういうの得意なんです」
搾油機で油分を抜くと、粉末状になる。これをアルカリ処理にかけて試飲。
アルカリ処理した粉末をお湯に溶かす。
それを試飲すると、コクのある飲み口が口の中に広がる。
「随分飲みやすくなりましたね」とバンホーデン。
ニケも「これならコーヒーに対抗できるかも」
これをココアと名付け、大々的に輸出を始めた。
嗜好品として急速にユーロに広がるココア。
「なのに、何でうちよりオランダのココアが売れてるのよ」
エンリの執務室でそんな愚痴を言うニケに、エンリはあきれ顔で言った。
「アルカリ処理も搾油も、考えたのはバンホーデンだけどね」
ニケは「私たちのココアはポルタ商人のルートに載せているのよ」
「オランダはジュネーブ派の中心で、同じ宗派の商工業者は各地に居る。信者のルートがあるんだよ」とエンリ。
「流通網を握って販路を独占するなんて不公正競争だわ。自由競争は独占禁止の上で成り立つのよ」と言って口を尖らせるニケ。
「さっきポルタ商人のルートとか言ってたの、ニケさんだよね? そもそもこっちのココア、割高なんだよ」とエンリ。
「ダンピングは不公正競争の常套手段よ」とと言って膨れっ面になるニケ。
「じゃなくて、ポルタのココアが高いのって、ニケさんが上前はねてるからだよね?」と言って溜息をつくエンリ。
「王太子の権力で何とかしてよ」
そんな危ない事を言うニケに、エンリは「権力利用は不公正競争の最悪例なんだが」
するとニケは言った。
「同盟のよしみでイギリスに売り込んでみたらどうよ。経済外交は為政者の腕の見せ所よ」
エンリは非公式にイギリスを訪問し、ヘンリー王とエリザベス王女に話を持ち込む。
「これがココアですか」
エンリが持参したココアをヘンリー王が一口飲んで、そう言うと、エリザベス姫も「コーヒーや紅茶とは違った味わいがありますわね。イギリスは食べ物がおいしくない分、嗜好品には凝りますから」
「コーヒー店が社交場になって政治の話で盛り上がったりしますし、こういうティータイムもイギリス紳士の嗜みですからね。謂わばイギリスの一流国としての舞台装置とも言えるかと」
そんなお世辞で国王親子を乗せようと試みるエンリ王子。
その時、隣に控えているダドリー卿が言った。
「このココアという飲み物を扱う業者が製造に参入する事に、問題はありますか?」
エンリは「最大の生産国はオランダです。それを切り崩す協力者は居た方がいい」
まもなく、イギリスからフライ商会のジョセフが協力業者としてポルタを訪れた。
航海長官に伴われてエンリ王子の執務室を訪れたジョセフ。
「お茶やコーヒーの輸入と販売を手掛けておりますが、多角化して事業の幅を広げたいと考えています」
「それでココアの製造を手掛けたいと?」
そう問うエンリに、ジョセフは「そのため、工場を見学したいのですが」
見学先の工場にジョセフを案内する航海長官とエンリ。
工場長とニケが出迎える。
「何でニケさんがここに居るの?」
そう怪訝顔で言うエンリに、ニケは「私を仲間外れにして儲け話なんて甘いわよ」
工場長の案内で工程を辿る。
搾油機から出た油を見て、ジョセフは工場長に尋ねた。
「これは?」
「カカオバターです。カカオを粉砕した後、この油を抜く事で扱いやすくなります」と工場長は説明。
「固まってますね」とジョセフ。
「室温では溶けないのですよ」と工場長。
「触ってみていいですか」とジョセフ。
「どうぞ。捨ててしまうものですんで」
工場長にそう言われ、ジョセフはカカオバターの塊に人さし指を当てる。
「何だかベタベタしますね」
そう感想を述べるジョセフに、工場長は「人の体温で溶けるのです」
ジョセフは脳内で呟いた。
(溶ける温度が室温と人の体温の中間という事か。これを菓子には出来ないかな?)
ジョセフは思考を巡らせ、可能性について想像する。
カカオバターに、処理して砂糖を混ぜたココアの粉を混入して固める。室温で固形化したココア色の固形物。齧ると、口の中でとろけて甘味が口いっぱいに広がる。
そんな可能性をエンリたちに話すジョセフ。
「美味しそうですね」
そう言って口元を綻ばせるリラを見て、エンリは「やってみましょう」
工場の技術員とジョセフ、そして何故かニケも加わって、カカオバターを使ったお菓子の試作。
完成したお菓子は四角い固形物。
口に入れるとコクのある甘味がとろけて口いっぱいに広がる。
「確かに美味い」と一同、口を揃える。
そしてエンリは「しかもクリームを使ったケーキと違って一日や二日で駄目にはならないし、落として潰れる事も無い」
「箱に詰めると、こうなります」
工場長がそう言って、手に持っていた四角い箱を開けると、四角い固形のお菓子が整然と・・・。
リラが「何かのお土産みたい」
アーサーが「贈答品としてぴったりだね」
エンリが「それに、これって食べれば終わりだから、クリスマスプレゼントのマグカップと違って、やたら溜まって邪魔になる事も無い」
するとリラが涙目でエンリに言った。
「あの、去年のクリスマスに王子様に送ったプレゼントは迷惑だったでしようか?」
エンリは慌てて「いや、そんな事は無い」
タルタが「あーあ、人魚姫泣かせちゃった」
ファフも「いーけないんだ」
「子供かよ!」とエンリは困り顔で・・・。
カカオバターを使ったお菓子はチョコレートと命名され、大々的に製造され、ユーロ中に輸出し、大きな成果を上げた。
だが・・・・。




