その10
どのような原理で、どのような道具や能力で時空を跳び越えてきたのかは、想像すらできない。しかし、これまでの奇跡を起こしていたのは僕ではなく、娘のキマだ。
僕がマコを池から助けた時に戻れたのは、その存在能力だろう。マコを助ける勇気を与えてたのは紛れもなくキマだった。マコが助けられなければ、ここまでの日々はなかった。そして僕と結婚しなければ、当然キマも生まれない。だから幾度とない危機の度に『おんなキノ』として現れていたのだろう。悪戯な運命は、マコを生かしたことに再び試練を与えることになった。それが『出産』ということなのかも知れない。ただ抗う。抗ってみせる。決して諦めなどしない―。
それから何事もなく、変わらない毎日を僕たちは過ごした。学校生活も変わらない。普通に登校し、普通に授業を受けて勉強した。僕は大学に進学することはせず、マコの傍にいることに決めた。今は彼女の傍にいたかった。僕はキマの手紙をマコに渡した。彼女が本当に伝えたかったことだ。マコに持ってもらうほうがいい。マコは僕が以前渡したテープで張り付けられた手紙とキマの手紙を合わせて、机の中に忍ばせているようだ。彼女はたまに眺めては力強く頷いたりして、鼓舞していることを知っている。
夏から秋、そして冬へと季節はゆっくりと進んだ。僕はマコが妊娠したことを花宗院に報告した。最初、両親とも戸惑いの様子だったが、今は何かと連絡をよこしている。義母の綾子は、電話口で色々とマコに指導している。鈴美麗家には相談出来るような者がいないからだ。亜紀那さんは、綾子から様々な言付けを訊ねている。
義父の大介と話をしたが、取り乱すこともなく、「いつ生まれるんだ」と聞いてきた。予定日を告げると頷き「苦労するが何事もゆっくり進め」と一言返してきた。横顔はとても穏やかな表情に思えた。隣にいた平井さんが「楽しみですね、旦那様」と付け加えたのだ印象的だった。
家では亜紀那さんが随分と彼女を気遣い、男共は蚊帳の外だ。時には火事手伝いをさせられ、フェイルとの道場での稽古は滞りがちだった。身体が鈍ってしょうがない日々もある。独りで正座沈黙しているとフェイル先生が一緒に付き合ってくれた。僕は将来の二人のことで少し話をしたりした。
休日には噂を聞きつけた、本田千秋や石川睦が遊びに来る。彼女たちは、お菓子を作ったり、調理したりして楽しんでいる。マコの腹を手でさすったり、耳を当てたりと、大きくなっていくお腹の変化に驚いていた。時折、男共を指さしては、笑いのネタにしているようだった。特に海原は爆笑ものが多いらしい。
海原太は柔道の全国大会で、ある大学監督に見初められ、推薦入学している。不思議なことにそこは睦の志望する大学だったようだ。未だに告白すらしていない彼らだが、うまくやっているらしい。大男と小柄な彼女が一緒に歩いている様は、さながら親子と間違われそうな調子だとか。
如月邦彦は県外の大学に進学した。クールな彼のことだから、きっと学内ファンも多いと思う。相変わらず無骨で無器用な冷静さはそのままだ。ただ、千秋のことになると飛んで会いに来るらしい。
千秋はメイド喫茶『サジタリウス』の手伝いをしながらデザイン関係の専門学校に進学している。お互い逢う機会が少ないらしいが、如月はたまに喫茶に訪れているようだ。男気な彼がそんなことろに出向くとは想像もつかないが。ここでもファンは多いらしい。一番のファンはだみ声の店長だとか。
そうそう、芦川先生と琴葉さんは、結婚することになった。もうすでに一緒に住んでいるそうだ。琴葉さんが結構、強引に同居人になったとか。わかる気がする。近々婚姻届けを出すために一時帰国するらしい。いつだったか忘れたけど。きっとここにも寄ってくれるに違いない。
一年上の足立先輩と真下先輩はバレンタインのチョコを渡して卒業後、別れた。今でも友人として付き合い、お互い別々の道を歩いている。
海原と如月とは男同士の話をしている。時折海原は僕の顔をじっと見つめては頭を振っている。何やら思い出しているのだろう。見つめ直すと目を反らすのが正直だ。彼らから結婚や妊娠などの話はしない。想像もつかない遠い未来の話しなのだ。気にはなるだろうが、二人とも性格的に無理だろう。励ましの言葉を掛けたい様だが、きっかけが掴めていなかった。仕舞にはこちらが苛ついて何度か彼らを道場で投げ飛ばした。でも互いに気持ち良かった。そんな心地よい奴等だ。これからも、ずっと友人になれるだろう。
時が経つにつれ、あの変身した時の自分を思い出すことが出来なくなってきている。恐らくそのうち忘れてしまうのだろう。いや、忘れなければならない。将来、キマがそのように成長するからだ。マコはどうなのだろうか。彼女はあの出来事の全てを覚えていられるのだろうか。いや、考えることはよそう。
今は彼女が無事出産することを願っている。夜になると、彼女は泣いているときがある。理由は教えてくれないが……。
静かになった室内で、マコは籐細工の背もたれ椅子に腰掛けて一息ついた。その肘掛けにキノは座る。優しくマコがキノの大腿に手を乗せた。
「疲れた?」
キノの手を彼女は掴み取りながら、自分の口元に寄せる。
「ううん」
「もうすぐだね」
マコはキノの顔を見て微笑んだ。
「怖い?」
「怖くないと言えば嘘になる。けど、もう今はあの娘を産むだけ」
臨月を迎えた彼女には、もう決心している。死への恐怖はそれに優っていると確信したい。自分に用意できることは全て整えた。
神妙になる表情を見てとってか、マコがもう一度手を引く。
「心配ない。大丈夫よ」
それが母親から言われているような気がした。記憶がない母の声だが、何故だかそんな風に聞こえたのだ。自分自身に向かって励ましているような、暖かい言葉ように思えた。
「守ってくれるんでしょ」
マコは口づけする。彼女の甘い香りに誘われて、そのまま抱きしめた。
と、キノの胸を叩くものがいる。お腹を触ると動いていた。
「キマも応援している」
吹き出すマコにキノもつられて笑う。
本当に幸福な、いい時間が過ぎていった……。




