その8
ログハウスに入ると、早速マコは台所に立った。買い物には行ったものの、明日帰ってしまうことを考えると、結局インスタント物ばかりになってしまった。小さなキッチンを見渡しても調理道具などは少なく、棚に小さい鍋とフライパンしかない。
「結局、何も出来そうにもないわね」
腰に手を当てて考え込んだ。
「せいぜい、レトルトか卵焼き程度ね」
「いい! 卵焼き作って!」
キマは手を叩いて大声で叫ぶ。振り返ったその喜びように首を傾げた。目が合うキマは微笑する。その笑顔にマコも表情が緩む。
もっとその喜ぶ顔が見てみたい。
「キマのために、ウインナー入れて特製にしちゃおうかなあ」
「特製!」
喜び憂いを持つその表情が、たまらなく愛おしい。
「ママ、エプロンは?」
「エプロン? 調理するとは思ってなかったから持ってきてないよ。調理と言っても卵焼きは大した事じゃないけど」
「ママのエプロン姿、見たかったなあ」
ちょっと惜しそうな顔をする。それから彼女は俯いて頷いた。その都度微妙に表情が変わっていることををマコは見逃さない。
「じゃあ、卵焼き作るよ」
「うん!」
もう一度マコはキマを見た。ぎこちない作り笑いだと、すぐに判る。
「まあ、そんなお年頃?」
普段から亜紀那と共に夕食を作っているので手際はよい。出来た卵焼きを皿に盛って、キマの前に置いた。
「どうぞ、召しあがれ」
「わああ!」
再び手を叩いて、急いで割り箸取り出す。
「そんなに喜ぶことなの」
その様を見て、再び不思議な顔をした。
「おいしいよ、ママの卵焼き」
「やーね、そんな卵焼きぐらいで」
何故か照れてマコは笑う。
「ゆっくり、食べてて。他に作るね」
鍋に水を注ごうとした時だった。背後のキマの気配に変化が生じる。
「だって本当に……、おいしいん、……だもん」
震えるその声で振り返った。キマの大きな瞳に涙が溢れて、ダイニングテーブルに落ちている。
「ど、どうしたの?」
慌てて涙を手で拭いて、また口に卵焼きを頬張った。その顔は、笑ってるとも悲しんでいるとも言えない表情だ。
「何でもないの。あんまり、おいしいから……」
「……キマ」
手から割箸が床に滑り落ちる。涙を拭うには手では足りなくなった。
「ねぇ、どうしたの?」
キマは決心したように言葉を切り出す。
「ママ……。あ、あのね……。は、初めて、なの」
言った途端に両手で顔を覆った。マコはキマの傍に近寄り、感情を堪える肩に手を掛ける。
「ママの作ったもの……、食べるの今日が……、今日が初めてなの……」
キマは激しく泣き崩れた。口からは卵焼きが、溢れ落ちる。
「……キマ」
震える彼女を抱きしめた。しかしそれは止まらない。
「教えて。あなたがここに来た本当の理由。キノと突然入れ替わった理由。そして何故、今日なの」
キマは震える口で泣いていて、言葉が出なかった。
「キマのところでは……、私」
思い付くことをマコは言い始める。彼女の唇も震えだした。
「……あなたの傍に、いないのね」
キマはマコに必死でしがみついた。それはまるで離れたらもう二度と逢えないと思う子供のような力強さでだ。
「……ママ、お産の時……。私を産んだら、容体が急変して……」
マコの耳に予想を遙かに越えた、信じられない言葉が響いた。
「ママ、死んじゃうの……」
抱きしめていた手から、一瞬で力が抜け落ちる。キマはその下降する手を引き留めた。
「わ、私が、死ぬ……」
瞳は真っ白い空間をさまように、焦点が定まらない。
「だ、だから、キマ、朝、初めましてって……」
彼女は膝の力までもが抜けて床に座り込んだ。
「卵焼き、初めてって……」
あまりの衝撃的な事実にどうしていいのか判らず、呆然となって戸惑う。
「ママ!」
彼女の方をゆっくりとマコの顔が動いた。
「でも、キマ、あなたは無事生まれるのね……」
「う、うん」
顔は引き吊っていたが、少し表情が緩む。それを捉えて、意を決した様にキマは胸で拳を作った。
「ママ、聞いて。今日一日一緒にいて、パパとママが愛し合ってることが、凄く、凄くわかったの。だから……」
虚ろだが眼光が差す瞳がキマを見つめる。彼女は瞬間、口を噤んでたじろいだ。
「……それは、だめよ」
キマはマコを抱きながら首を横に振った。
「ママ、最初で最後の、キマのわがまま聞いて」
「だめ! キマ、離して!!」
彼女はキマから離れようとするが身動きが出来ない。
『私を産んでくれて、ありがとう』
マコの耳元で呟いた。
「キマ、だめだったら!」
彼女はもがく。手に力を込めるが微動だにしない。キマの涙を頬に感じた。
「お願い。……ママ」
「キマ!!」
マコは再びもがいて、振り解こうとする。
「パパからママを奪うことなんて、出来ない」
キマのわがまま。わかっている。
「言ってはだめ!!!」
『私を、産まないで……』
「いや! だめぇ!」
マコに懸かっていた荷重が急にふわりと軽くなった。瞳を大きく見開く。
キマの身体全体が眩しく光り出した。大きく右腕を差し伸ばす。
「待って、キマ!!」
部屋の中が目映く光った。その場が眩しくて手で光を遮るが無理だった。辺りがどうなっているのかわからない。
やがてマコはキマの気配がなくなったことを覚る。
「キマ!!!」