その16
それは芦川の手の抜糸が済んで、一週間後だった。鈴美麗家のリビングに彼を迎えるのは、恐らくこれが最後である。
「パリに……」
「行こうと思う。向こうで俺の師匠が呼んでいるんだ。最後のチャンスかもしれない」
マコとキノと向き合って男は言った。
「俺なんかが世界に通用するのかどうか、確かめてみたい」
いつもとは違う決意を、その言葉にキノは強く感じる。実に頼もしく、荒々しい男の言葉だ。キノは凝視する。
「で、でも、先生、琴葉ちゃんは……」
マコの心配は男の決意よりもそれだ。
「彼女は本当に良く尽くしてくれた。当然、今のことは言ったさ」
芦川は二人から視線を逸らす。
「で、何か言ってた?」
急ぎ早に訊き返すマコだ。
「特に何も」
「何も?」
不思議そうな顔を見せた。
「そう。彼女は何も言わないで、それっきりだよ。今日まで逢っていない」
「琴葉ちゃんから、何もないって……、私から連絡してみようか?」
居ても立っても居られないマコは身を乗り出す。
「いや、もういいよ。彼女も何かと忙しいのだろう。俺の怪我が治るまで、いてくれただけで嬉しい」
「で、でも……」
彼女はスマホを取り出した。芦川はその手を一緒に掴んで動きを止め、首を大きく振る。
「いいから、真琴。これはおまえの問題じゃない」
その言葉に我に返ったマコは、勢いがなくなってソファーに座り込んだ。
「真琴、君の好意はありがたいが、このままにしていてくれ」
男が言う。
「琴葉さんも俺も、自分の意志でやっていることだ」
蹴落とされたように、マコの肩が下がっていった。気遣うキノはその小さい肩を優しく撫でる。
「わかった……。何も、しない」
「いつ行くの?」
今度はキノが訊ねた。
「明日だ」
男は指を組んで膝に置く。
「明日か。結構、急だね」
「まあな。先に延ばすと、決心が揺らいでしまいそうだからな。俺が決めたことだ」
芦川はマコを見た。先ほどの姿勢から、ずっと下を向いたままだ。
「マコ、聞いた?」
項垂れたままコクリと頷く。そして膝の上で、スカートを握り締めた。
「……見送りに行く」
マコは顔を上げ、憂いに満ちた表情を返す。
芦川は反対にその言葉に救われたように、微笑んだ。
「ありがとう。真琴」
「僕も行く」
マコを横目に男を見据える。
「もちろんだ。来てくれ、鈴美麗」
今までの中で、一番素直に答えたように、キノには思えた。