その7
それから二日が過ぎていた。鈴美麗家の二人は、今までと変わらない朝を迎えている。
「マコ様、キノ様のお稽古は終わりましたでしょうか?」
朝食の支度をしながら、亜紀那は訊ねた。
「そう言えば、まだ来ないですね」
鼻歌混じりにマコは応える。
「最近なんだかマコ様、楽しそう」
「そ、そう」
その視線に照れるマコだ。
「前よりももっと、キノ様と仲良くされていて、とても幸せそうに感じます」
亜紀那の暖かい視線が、まるで母親のような優しい。その全てにマコは愛情を感じる。
「……そ、そんなに風に、見えるかなぁ」
さっきよりももっと顔を赤くした。
「いつもと、変わらないよ」
テーブルを拭きあげたテーブルに、白い皿を置く亜紀那の手が止まる。
「ただ……」
マコが振り返ると、やや心配そうな顔がある。
「いつまで、あのようなお格好でいらしゃるのでしょうか。元にまたお戻りなられるのでしょうか」
「ああ、あれね……」
マコは腰に手を当てた。
それについて、心配でないと言えば嘘になる。元の体に戻れることなんて、何回もやってる訳じゃない。戻ったのは二回だけ。初めはキノがプロポーズしてくれた時、二回目は緒方空のために意志を持って行った時。いずれも、キノの強い意志の上に成り立っている。だからと言って、性別を変えるこの魔法のようなものが、簡単に出来るとも思わなかった。本当に強い意志だけで奇跡は起こし得るのか。当人たちの知らない別の何かの力も働いているのか。
マコの顔も曇りかけた。が、亜紀那の顔を見た途端、そんな弱気を見せている自分に気づく。
「そうよ、私も強い意志を持たないと、キノだけでは奇跡は起こせないはず。私はキノには必要な存在」
自分を奮い立たせて笑顔で言う。
「大丈夫、心配ない。もう少しだけ、あの娘のままでいさせて。綺麗で可愛いし」
亜紀那もその表情に緊張感を解された。健気な振る舞いに、彼女も納得せざるを得ない。
「はい。お美しいのは私も好きです」
道場での稽古を終えて、二人は正座して呼吸を整えていた。
「うむ。一層進歩しておられる」
フェイルは頷く。
「その内、速さでフェイル先生を抜くよ」
「まあ。覚悟しておきます」
笑いつつもひとつ咳払いをした。平常心を保つかのように道場の上座に掲げてある心得の掛軸を見る。息を吸った。
「私を追い抜くためには、ひとつ、障害があります」
振り返って男を見上げる。
「動きが幾分減らされています。そ、その、たわわな胸で……」
フェイルは言葉を濁すように、もう一度咳をした。
「そっ、かぁー。やっぱり邪魔しているよね」
キノはサラシを巻いている胸を、両手で挟んで押さえつける。自然と盛り上がり、両手を離すとそれは弾んだ。
「キノ様。一体これから、どうするおつもりですか」
「うーん。それなんだよね」
サラシの前でキノは腕を組む。
「最近、自分でもよくわからなくなってきてるんだ」
「と、申されると」
「何となくだけど、身体が馴染んいるというよりかは、別の体の意志を感じるというか。それが元に戻るのを嫌がっているような……」
物帳面の男も、少々理解に苦しむ表情となった。
「変なこと言ってるよね」
自信無さげに言いながら、ちょっと複雑な顔をキノはする。
「マコ様と、お二人に関係することでしょうか」
「よくわからない……」
キノは正座を解いて立ち上がる。道場からダイニングが見えた。笑っているマコと亜紀那の姿が見え隠れする。
「先生」
キノの側に男は並んだ。
「僕たちのために、亜紀那さんや先生をここに引き留めてるんだよね」
「お二人がご卒業されるまでとお約束しました。気を病む必要はありません」
大きな瞳に映る光景を、然り見定めた男は畏まる。
「これは私と亜紀那の意志です。あなた様たちを守ること。私の使命は、それ以外ありません。それに……」
ダイニングで幸福そうな顔をする亜紀那を優しい目で見つめた。
「私はあなた様の良き理解者でもありたいと思っています」
フェイルは深々と頭を下げる。
「……でも」
フェイルの気持ちがわらない訳ではない。わかっているからこそ。
「いつまでも、甘えちゃいけないと思う」
細い指で拳を構えるキノを、切れ目の眼光は道着の襟を正す。
「あなた様にも使命がある。今やるべき事を、最後までやり遂げて下さい。それが私どもへの最高の報いと成って、返ります」
「僕の使命……」
微笑むフェイルは頷いた。