その4
道場でキノはじっと正座をしていた。精神を極限まで研ぎ澄まそうと高める。しかし体は正直だ。心と同期するように、僅かに揺れ動いていた。
「もう、ダメだ。全く」
眉間に皺を寄せて、頭を垂れる。足を崩してあぐらをかいた。行き場のない気持ちを拳に込めて床を叩く。
「みんなを守るために、稽古しているに。全然足りない。これくらいだなんて」
呟きながら、叩いた拳を見た。白い肌に少し赤味を帯びている。
「傷つけちゃ、だめなのかな……」
もう一度床を叩いた。今度は痛みが走る。
「つ……」
「キノ様」
両肩を上げて驚き、振り向くと亜紀那が背後に立っていた。
「亜紀那さん、いつ……」
「おかしいですよ、キノ様。私の気配に気がつかないなんて」
隣に正座する亜紀那から、ほんのりと幼い頃から知っている匂いをキノは感じた。
「最近、ちょっとした事ですぐに心が動揺するんだ。もっと頑張らなくちゃ」
キノは唇を噛みしめる。亜紀那は赤くなっている拳をそっと触れ、撫でる。
「こんなにして。ゆっくりでいいのですよ。ゆっくりで……」
「僕は早くあなたとフェイルを、安心させたいと思ってるのに。早く一人前の男になりたいと思っているのに……」
亜紀那は撫でていた手を強く握る。
「お気持ちは嬉しい限りです。しかし焦ってはいけません。キノ様」
「けど、僕は、弱い」
亜紀那はキノを抱きしめた。キノの頭が彼女の胸に埋もれる。幼い頃両親を亡くしたキノを安心させる行動だった。
「私は知ってる。あなたは、優しくて強い子です」
「こんなことしてたら」
キノは頭を挙げて、亜紀那の手を振り解く。
「あなたたちに甘えていては、ダメなんだ」
物音がした。二人は振り向く。
「たっ、ただいま……」
「マコ」
「あ、あの……、リビングに誰も居なかったから、その……」
マコは何だか、気まずい場面に出くわしたかのように押し黙った。顔が幾分、狼狽えている。
「おかえりなさい、マコ様。お出迎えが出来ず、申し訳ありません」
亜紀那はキノから離れると、マコの側に歩いてきた。一礼して道場から出ていく。残されたキノとマコは、じっとしたまま沈黙していた。やがてマコは重い口を開く。
「何、してたの」
「別に、精神統一していただけだよ」
マコは持っているバックを握り締めた。
「亜紀那さんに抱きしめて貰うのが、キノの精神統一なんだ」
「ち、違う」
キノは立ち上がる。
「どうして? 道場で稽古ばかりで、私はいつも置いてけぼり」
マコはキノに歩み寄った。
「それに結婚してから全然、ふれてもくれない」
「何言ってるの、マコ。僕は、花宗院の……」
彼女は手に持っていた袋をキノに投げつける。それは受け取る間もなく、床に落ちた。
「何が、花宗院よ。私は鈴美麗家に嫁いでいる」
「マコ……」
「あなたが決めればいいじゃない。お父様やお母様よりも、私はあなたの言うことについていく」
キノはただ、黙っているしかなかった。
「キノの側にいるのが、私じゃなくてもいいんだったら、私が必要ないんだったら、そう言えばいい。すぐ出ていくから」
「マコ、何を言い出すんだ。僕は」
彼女は顔を逸らす。寂しげな横顔がキノの口を閉ざした。
「行くわ。夕食の支度あるから」
小走りでマコは道場を出ていく。キノにはそれを追えなかった。
「君の言う通りだよ……」
足元に落ちている袋を拾い上げる。
「僕はなんて情けないんだ」
袋の中には、真新しいスポーツタオルがあった。
夕食にマコは現れなかった。支度をした後に、ずっと部屋に閉じ隠っている。
「あの、キノ様。マコ様は先ほどのことを、気にしてらっしゃるのでしょうか」
亜紀那は不安気な顔で見つめた。
「違うよ」
「でも、支度をしている時、何も声を出されなかった……」
キノは口を真一文字に締めて答えた。
「差し出がましいとは思いますが、私からマコ様にお話した方がよろしければ」
彼女は畏まっている。
「ありがとう。でも、いいんだ」
キノはわざと明るく言った。
「……ちょっと心配です」
「亜紀那さんが心配すること無いよ。これは僕の問題だ」
キノはご飯をかき込んだ。
「亜紀那さん。僕は、誰よりもマコが好きだよ」
亜紀那は少しだけ笑みを浮かべると、肩を撫で下ろす。
「はい」