その16
ボーイがドアを開けた部屋に入ると、淡い間接照明がムードを盛り上げている。窓から喧騒な街の夜景が煌めいていた。
芦川はダブルベッドにキノを横たわらせる。未だに寝ていることに、内心、安堵感を感じていた。その場を離れて窓に近づく。
「こいつが起きていたら、何と言うんだろうな。この景色」
冷蔵庫から無造作に缶ビールを取り出し、窓の側のソファーに体を預けた。リングプルを開けて一気に口の中に流し込む。男も今日一日の疲れが見えているようだった。
「全く、とんだ一日だ。見合いを潰そうと思ったら、真琴似の女が現れるし、鈴美麗とはこんなところで一緒になっちまうし……」
と、考えたところで芦川は言葉を止めて苦笑する。
「みんな、俺のせいか」
ベッド上のキノを見た。キノは寝返りを打って、横向きになっている。
「あ、暑い……」
呟く側に、芦川は寄っていく。ベッドに横たわる者は、額に汗を滲ませているせいで、前髪が張り付いている。
「おい、起きてるのか。暑いのか」
返事はない代わりに寝息がする。シャワールームに行って、タオルを濡らして持って来た。汗ばんだ額に当てるとその顔が幾分か、緩やかになる。そのタオルを今度は、仄かに赤みを帯びた白い頬に移動する。芦川の手にクリーム色の細長い髪が触れた。そこで彼の手が離れる。キノはもう一度寝返って、仰向けになった。
「鈴美麗?」
またしても返事はない。
「寝てるのか」
ベッドでしわくしゃになっている、白いカーディガンを払った。小高く隆起した胸が深い呼吸と共に上下している。もう一度タオルを顔に当てた。その手は次第に輪郭に沿って動き始め口元に達する。いつもは尖ったところしか見せない桃色の小さな唇が、無防備にそこにあった。室内灯の淡い光の中、シルエットが浮かぶ。身を屈めて近づく。唇と顎、胸元から腰、そして細い脚に至るまで、美しい流線を作っていた。
芸術家は、言葉を失うほどにその姿態に酔う。
「美しい……、なんて美しいんだ」
指が唇に触れた。
「柔らかい。想像よりも遥かに、ずっと」
その指が更に頚を伝って、鎖骨を通り過ぎる。呼吸で上下する胸の先端に達した時、大きな衝動が男に沸き起こった。指が触手のように蠢く。美しいものに触れる瞬間の期待と後悔の葛藤。指尖は戸惑う。
「バカな。俺もあの店の奴と同じじゃねえか」
指を引き上げる寸前で、キノが寝返った。男の手が美しい胸の下敷きとなる。
「ちょ」
引き抜こうとするが、今動くと起こしてしまうかもしれなかった。
「マズい」
程好い弾力のある胸に押し付けられて、指も動かせない。
「マズいぞ」
思いきって引き抜こうとした時、キノの瞳が見開く。状況はすぐには判らなかったが、身の危険だけは感知出来た。胸を掴んでいる手に気がつく。
「手を抜いて」
「お、起きたのか! こっ、これはだな!」
焦った顔でこの状況を説明しようとした時、同時に腹部にキノの左の拳がめり込んでいた。
「げ、ふっ……」
「いいから、早く抜いて」
その手が胸から離れた瞬間だった。キノは起き上がって顔面を一発殴打する。一回転して男は床に転がった。反対にキノは頭を押さえ、よろめきながらも立ち上がる。
「ここ、何処?」
正面の窓から夜景が見える。その側まで歩いていく。
「部屋? ホテ、ル……?」
後ろを降り返るとダブルベッドがあり、その床に芦川は転がっていた。服を整えながら、近づいて足で男の体を突く。
「や、やあ、鈴美麗、よく寝てたな」
鼻血を流しながら咳き込む。
「寝てる間に僕の体に変な事してないよな。その……」
転がっている口角が少し上がった。
「した、と言ったら」
「も、もう一回ぶっとばす」
「大丈夫。それは乳の後にしようと思っただけだ」
烈火の如く顔を赤くして、キノは拳を上げる。
「なんて、うそうそ……」
その言葉は聞こえず、もう一発男は拳を喰らった。
「もう気持ち悪い」
それから、何回か芦川は殴られる。
「とにかく、僕に手を出すとマコが悲しむ。彼女が幸せにならないぞ」
キノは腰に手を当てて仁王立ちで言う。
「そうだったな、それはいかん。だが、真琴を悲しませる奴からは、俺は奪い取ると言った」
ティシュぺーパーを鼻に詰めて真剣な顔で芦川は言葉を返した。
「僕が悲しませてる? マコを? どうして?」
「結果的にだ。俺とおまえがこんなところに一緒に居ることも、真琴には悲しいことという事だ」
「これはあなたが、仕組んだことでしょ」
本気でキノは怒る。
「真琴は、琴葉さんを知ってるんだろう。花宗院の親戚だからな。今頃、今日の話ぐらい知ってるさ」
「あう」
お見合いの席でマコから電話が掛かってきていたことを思い出した。
「となれば、おまえがあの場所にいたことぐらい、真琴にはもうわかってるはずだ」
「えう」
「俺よりもおまえがどうしてるかのほうが、真琴には重要だろう。そんな心配掛けてる奴が、ホテルなんかに男と一緒、なんて聞いたらどうなるかな」
芦川はキノを悪戯に見る。
マコの初恋の人と一緒にいる事実をキノは認識する。それ以上動揺して声が出なかった。
「俺の言い方次第では、おまえもややこしくなるぞ。そんなんでおまえらが別れたら、真琴は俺が面倒見てやる。心配しなくていいぞ、必ずおまえ以上に幸せにしてやる」
年甲斐もなく年下を困らせることが気持ち良くなって、最大限言い放って笑い飛ばす。
「痛ててて、全くおまえは手加減しないな。今日は力が出ないんじゃなかったのかよ」
顔を押さえながら立ち上がった。
「そんなつもりで、ここに連れ込んだの。マコと僕を引き離すためにしたことなの?」
直立したまま、拳を握って俯いている。
「い、いや、ここは俺も……」
キノの表情が変わったことで、それまで愉快だった場の空気が酷く沈んだように男は感じた。
「どうしたらいい……」
「え?」
眼前にキノは歩いてくる。真剣な眼差しを向けていた。大きな潤んだ瞳と先ほど指で触れた桃色の唇が、苦しそうに歪んでいる。
「どんなことしたら、マコを悲しませないように出来るの」
「何言ってるんだ。まだ酔ってるのか」
キノは芦川の右手を取って、自分の胸に押し当てた。再び柔らかい感触が伝わってくる。
「抱きたい、……の?」
細長いクリーム色の髪が、男の手上にさらりと撫でた。咄嗟に胸にある手を引く。
「ば、ばかな。だから、さっきのは冗談……」
背中のジッパーを降ろすとワンピースが滑り落ちていった。
「お、おい」
淡い照明の中に、先ほど思い描いていた白く美しい姿態が浮かんでいた。
ドクンと心臓の音が鳴り、声が出ないほどに、マコの胸が締め付けられた。得体の知れないものに掻きむしられるような、不快な感触だ。彼女は手で胸を撫でて、気を保たせようとした。体が少しふらついている。
「どうかした? 真琴。気分悪いの?」
「ええ、なんだかちょっと……」
マコは琴葉に体を預けた。汗が顔中に吹き出している。
「ソファーに腰掛けなよ」
「うん。ありがとう」
こんな胸騒ぐ時は、何か悪いことが起きる合図だ。特にキノのことになると、よく感じるようになった。柱時計に目を配る。もう零時に近かった。キノがこれまで連絡をしないなんてことはない。何か出来ないことになったのだろうか。
「スマホ……」
マコは呟いた。
「お嬢様」
お世話係の彼女は、すぐにマコの側に駆けつける。
「大丈夫よ」
「でも……」
メイドは不安気な顔になった。
「ごめんね、やっぱり部屋まで一緒に行ってくれる」
「はい」
彼女はマコの上半身を支えて、立ち上がらせる。
「真琴、気分がすぐれないのか?」
大介は声を掛けた。片手のワイングラスは綾子から取り返してある。
「ごめんなさい、お父様。久しぶりにみんなと騒いだものだから、少し疲れただけです。心配いりません、すぐ戻ってきます」
極力笑顔を作りマコは頭を下げた。
「そうか」
その健気な姿に大介もそれ以上言葉は掛けられない。弱音など吐かない娘である事ぐらい、十分知っている。
「琴葉ちゃん、部屋に戻ってスマホ取ってくるから、待っててね」
「真琴……」
彼女は先ほどまでの笑顔と違う、苦しそうな表情を見逃さなかった。
「旦那は、いったい何してるのよ!」
第3話につづく
第3話 キノと芦川と偽りの恋人(後編)は来週から!




