その14
キノは大きなくしゃみをする。
「おい、着いたぞ」
芦川はキノをタクシーから降りるように促した。雑居ビルが立ち並ぶ一角に、何やら地下へ階段がある。一階下がると薄暗い照明の看板があった。
「こっちだ」
銀色の重厚な扉を開けると、ジャズの音が静かに聞こえてくる。ステージの上でバンドが生演奏をしていた。キノはこんなところに来たのは、もちろん初めてだ。店内は間接照明が多く、まともに全体像が思い描けない。ゆっくりと物珍しそうに、見回しながら歩いている。客がその姿に気づき、何人かが振り返っていた。やがてそれは、驚きと羨望の眼差しに変わる。芦川はカウンターに向かい、キノをその横に並ばせた。
「おまえ、緊張してるのか」
「べっ、別に……」
「強がり言うな、顔に出てるぞ」
カウンター越しに、オーナーがやってくる。
「初めてですね。女性を連れてくるの。しかもこんな美人さん」
「そうだっけ」
彼は苦笑した。
「何にします?」
「俺はいつもの。こいつには何か美味しいものを、食わせてやってくれ」
芦川は隣を指さす。キノは鳴っている腹を慌てて押さえた。
「私の自慢のパスタでもどうかな、お嬢さん」
キノは無言で頷く。
「飲物は……」
「ミルク」
オーナーはニコリとして、奥に入っていった。
「本当に初めてなのか、女性を連れてきたのは」
「あ? そうだ。悪いか」
芦川はカウンターに置かれた『いつもの』を、ひとくち口に含んだ。
「その、あれからどうなったんだ?」
キノは自分が出ていった後、琴葉とどうなってしまったのか心配だった。
「別に、普通に話をしたよ。当たり障りなく、お互いのプロフィールなんか。しかし、彼女似ていたな」
「うん。マコに」
二人は顔を見合わせる。互いに吹き出した。意見が初めて合った瞬間だ。何故か二人ともニンマリと笑う。
「琴葉さんは、強い女性だ」
芦川は言った。
「僕もなんとなく、そう思う」
ぶたれた頬を撫でて、キノも賛同する。
「何だ、女のことには意見が合うな。やっぱり、おまえ」
「だって僕は、マコの……」
芦川は思いあまって咳き込んだ。
「今、それ言われても説得力ないな。だっておまえ、その服選んでる時、凄く女らしかったぞ」
「こ、この服は、おんなキノに似合うかなって」
キノの顔が紅潮する。
「おんなキノ?」
「何でもない、ない」
丁度目の前に、オーナー自慢のパスタとサラダが置かれた。
「おいしそう」
フォークを持って、早速キノは食べ始める。
「おい、そんなにがっつくなって、美人が台無しだぞ」
横目でキノは芦川を睨む。そのまま何も言わず、激しく喰らう。男はその姿を見つめてはバーボンを口に含んだ。
「でもやっぱり、女だろ」
キノは喉にパスタが詰まる。慌てて、目前の飲み物を流し込んだ。
「まあ、どっちでもいいか」
と、芦川のスマホの着信音が鳴る。現実に引き戻されたように目が冴えた。
「悪い、クライアントからだ。席外す。すぐ戻るから、待ってろ」
フォークを咥えたまま、手を振る。
「どうぞ、どうぞ。もう帰ってくなくていいから」
席を立った芦川は一度振り返ってキノを目視し、店外に出た。
「せいせいした。これでゆっくり食べれる」
ジャズが心地よく聞こえてくる店内で、ゆっくり食事をする。演奏のリズムが何もかもを忘れて、別世界にいる様な不思議な気分にさせる……。それまでのわざとらしい程のフォークの音が小さくなる。
「いい雰囲気」
手を止めたキノはじっと、それを聴いていた。
「気持ちがいい……」
そして一口入れようと髪を掻き上げた時だ。
「おひとり?」
聞いた口を窄めて視線を上げる。
「お隣は空いてますか」
スーツを着た清潔そうな男が微笑んでいた。
「隣……」
確かに店内は人が多く、ボックス席は空いていない。カウンターしか無かった。
「はあ」
と、男が隣に座った席は、さっきまで芦川がいたところだ。
「そこ……」
「先ほどから、ずっとひとりですね?」
言葉を遮るように訊ねてくる。微笑みを浮かべたまま、男はテーブルに肘を掛けて改めてキノに向き直った。その目が見開く。
「……綺麗どころ、じゃない」
口に手をあてたまま、咳をして正面を向いた。
「こんな女性がいたんだ」
興奮する気持ちを抑えながら、男は和やかに振り向く。
「少し、お話しませんか」
キノはパスタを名残り惜しそうに見つめた。と手元に2つのグラスが置かれる。
「お近づきの記念に」
グラスに注がれる液体はウイスキーだった。強いアルコールの匂いが漂う。それだけでキノには酔いを誘いそうだった。
「あ、あの……」
事情がわかる芦川と一緒ならば、この場所にいる事に問題ない。しかし他人には自分が高校生であることを知られる訳にはいかなかった。やっぱりさっさと帰宅する方が良かったとつくづく後悔するキノだった。
「ぼく、いや私、お酒は飲めないんで、お構いなく」
極力、当たり障りなく言うつもりが、口元が引き攣っている。大人の振る舞いはわからない。
「それに、これありますから」
目の前のグラスを指す。
「ああ、それね。失礼しました」
男は手元へそのグラスを引き寄せて、キノに差し出した。
「それではこれで、乾杯」
ガラス同士の高い音が鳴る。男はウイスキーを味わうどころか一気に飲んだ。フォークを置いて、合わせるようにキノも飲み干す。そして眉間に皺を寄せた。
「何か、味違う」
「オーナー、お嬢さんに同じ物を」
間髪入れずに男は注文する。
「ここのパスタは美味しいですね。僕も良く食べるんです」
そこから当たり障りのない話が続いた。慣れてきたせいか、ジャズの音が再び心地良い気持ちにさせていく。でも先程と違い眠気も出てきた。
フォークが落ちる。男は床ヘ屈んだ。スカートから延びる細いが長く引き締まった脚が男の目を奪う。フォーフを拾い上げながら、カウンターの顔を見た。蕩けるような表情をして、紅潮している。
「綺麗な透き通る肌」
フォークを取り換えて、その白い肌を触れて手に持たせた。
「あ、ありが、とう」
淡い桃色の小さい唇が動く。濡れた大きな瞳は男の欲情を掻き立てた。
「じゃあ、行こうか」
そのまま細い指を握り締める。
「ふあ?」
引かれる腕がカウンターの席から身体を浮かせた。足元が縺れ、クリーム色の細い髪を舞い上がらせて男の身体に肩を付ける。
「わかったよ」
その肩を抱かれて引き寄せられた。真近に微笑する顔が迫まる。
「ダ、ダメ」
身を捩って抵抗するも動きが封じ込められていた。
「力が出ない……」
しっかりと抱かれた身体が緊張する。
「優しくしてあげるから」
「ダメ……」
男は耳元で囁いた。
「今夜は愉しんで、僕のものになっちゃいなよ」
「ならねーよ」
声の主は、細い肩に掛かっている手を掴んで払い落とす。
「何やってんだよ。お前ならこんな奴、投げ飛ばせるだろうが」
膝折れしそうなキノの身体が別の方向ヘ引っ張られた。
「ゴメン……、今日は力が出ない日」
見上げるその表情に芦川は心臓の拍動が高まる。
「 何だよ、出ない日って」
「誰、あんた?」
奪われたものを見据えてスーツの男は憤慨した。静かに芦川は鋭い視線を投げる。
「こいつは俺のもんなんだよ」
キノの指先が芦川の胸に置かれているのを男は目視した。
「チッ!」
吐き捨てるように呟く。
「ち、違う……、僕はマコの……」
芦川はキノの頭を掴んで胸に押し付けた。
「しゃべるな」
スーツの男はその動作に、抵抗の無さを見る。
「酔いが冷めた」
男は諦めて店を出て行った。
突然、荷重が腕に掛かったことで芦川は蹌踉ける。
「お、おい」
赤ら顔の上体を起こした。
「何か、頭回ってる……」
「はあ?」
キノの口元を嗅ぐ。
「酒臭いぞ。酔ってるのか。どうして?」
オーナーが冷水を持ってきた。席に座らせるも、支えていないと倒れて仕舞う。
「オーナー、こいつ何、注文したの」
「ミルクだったと思いますが」
一人の女性がカウンターから声を掛けた。
「オーナー、カルーアミルク、まだぁ?」
キノの席にあるグラスを、芦川はひと口舐める。
「これだ。こいつを飲んだのか」
抱き寄せて、口元に冷水の入ったグラスを付けた。
「おい、鈴美麗、おい、これ飲め」
が、それは唇から溢れ、顔の輪郭に沿って首筋に落ちていく。軽く揺さ振るが、一向に目が開く気配はない。
「お嬢さん、結構お酒弱いんですね」
「いや、お酒は飲んだこと無いはず」
すでに肩に凭れているキノを見つめた。長い睫毛に落ちている細い艶のある髪が、引き締まった顎の小顔を覆っている。瞳を閉じているその表情でさえ、十二分に美しかった。
「そんな顔を見せるなよ。勘違いする奴がいるのは無理ないぞ」
「芦川さん、タクシー呼びました。すぐ来ると思います」
オーナーはそして頷く。
「送ってあげて下さい」
タクシーの中でも、キノはピクリとも動かなかった。芦川に体を預けたまま軽い寝息を立ている。
「カーディガンに、染みついちまったな」
ひまわりを象った柄の白いカーディガンに、パスタのミートソースの赤色がついていた。芦川は親指でそれを拭う。
「旦那、どこまで行きます?」
運転手はさっきから、ルームミラーで二人の様子を伺っていた。芦川は視線を遮るかのように、キノの細い肩と首筋、鎖骨をカーディガンで隠す。
「全く、男って奴は、こうゆうもんだ。鈴美麗」
キノは気持ちよさそうな顔をして、ムニャとひとこと言っただけだった。




