その8
キノは時計を見た。芦川のお見合いが始まっていることを確認する。
「よし、千秋。行くよ」
キノは立ち上がった。口元をナフキンで拭く。
「待ってよ、キノちゃん。口紅が落ちてる」
千秋は顔の化粧と少し乱れた服を整えた。
「ちょっと胸が、苦しい」
胸の辺りの紐を結び直す。
「食べ過ぎだよ。いや、胸が大きくなった」
赤面を隠すかのように、キノは両腕をグルグルと振り回した。体を動きやすくする。
「マコさんと二人で揉み合いっこした?」
「千秋!」
廊下に出ると静かな時間が流れていた。獅子脅しの音が遠くで聞こえる。千秋はキノの背後から、辺りを気にしながら歩いていた。
「トイレ行きたくなった」
「ええ! その衣装のままは大変だよ」
「でも、ダメ」
キノは股間を押さえる。
「どっちに入るの? 男、女?」
「女子女子!」
内股になりながら、有り得ない格好で藻掻く。
「出てきたら、また整えるから、早く!」
千秋も焦ったように言った。慌ててトイレに駆け込む。洗面台に映った姿をチラリと見てドアを閉める。
まだ困惑していた。この縁談を中止させることが、果たしていいことに結び付くのかどうか、わからないでいる。
「こんな格好でどうこうしたって、変わるものは変わるし、変わらないものだってある」
と、キノの動きが止まった。
「そんなぁ、こんな時に。通りで下腹部が重たいと思った」
腕を組んだ。時計を見る。
「時間がない」
キノはスマホから千秋に連絡した。
「まさか生理がくるとは、計算してなかった。力が出なくなる」
女子の時の生理日には、全く男としての力が無くなってしまうのだ。むしろ色気立って仕舞うのが弱点だった。
「あいつ、何やってんだ」
障子の向こう側を睨むように呟いた芦川は悪態をつく。
「貴文、何か言ったか」
芦川の父、公助はじっと正座をして相手を待っていた。
「先方の都合に合わせてある。心配するな」
「親父、いつまで待ってるんだよ。来ないんじゃ無いのか」
不満を欠伸に変えて、もう一度悪態を見せる。
「おまえ、今日の相手を知ってて言ってるのか? ちゃんと相手の紹介状を送ったの見たのか」
父親の小さい真剣な眼に、芦川はキョトンとして見つめ返した。
「誰なんだよ」
面倒くさそうに呟く。
公助はため息の後、呆れた顔をした。が、その後再び顔が引き締まって畏まる。
「花宗院殿からの紹介だ」
父親は低音の小さい声になった。
「え? 花宗院?」
芦川は驚き、目を見開いて聞き直した。
「声に出すな」
息子の声を制止させる。
「なんだよ、そりゃ。何故、花宗院が」
「そんな事わしにもわからん。どうしてもおまえに逢わせたい人らしいのだ。わしとて、良い話だと思う。おまえが早く所帯を持つ事に関してはな」
公助は苦笑した。
「俺はな、結婚などしないからな。いつも言ってるじゃないか」
息子はこの見合いの予期せぬ状態に堪り兼ねて、少々苛ついて言う。
「そんなもんすぐに結婚せんでもいい。取りあえず、逢ってみて考えればいいことだ。貴文、女遊びも大概にしておかんと、そのうち誰にも相手にされなくなるぞ」
「お、親父、あのなぁ」
「花宗院殿の愛娘も結婚されたじゃないか。ほら、おまえが大学の時に教えていた……」
「真琴」
訝しげに芦川は答える。
頭に数週間前に会ったマコの笑顔が浮かんだ。
「そうそう、真琴さんだ。花宗院殿は跡継ぎのために、養子を迎えるものばかりと思っていたが、違うらしいな」
全てを知っている芦川は無言になる。
「不思議だ。あの世界の花宗院家に見向きもしない人間がいたんだ。しかし、よく花宗院殿は、真琴さんを嫁に出すことを許したな。よほど彼の目に叶う、凄いお相手なんだろう」
父親は深く頷いた。感心しているようだ。
「凄い相手か……、確かに凄い奴だ」
芦川には今度は、キノの顔が浮かぶ。
「しかし、もはや花宗院家は存続できん」
断言する公助は目の前のお茶を飲んだ。
「もったいない。あそこまでの巨大グループが絶えるとはな」
「本当にそう思うのか。親父は、真琴の相手が誰か知っているのか」
父親は息子の顔を見る。その形相に少し驚いて首を横に振った。
「いや、知らん。おまえは知っているのか」
「鈴美麗だ」
公助の腰が浮き上がる。
「な、なんと!」
大きな声を出し、更に中腰になるまで上体を起こ
「親父、どうしたんだ?」
気持ちを落ち着かせ、父親はもう一度正座に戻った。
「そうか、それならば、話はわかる」
驚きと共に、安堵感を示す。
「一体、何がわかるんだ」
「花宗院家と鈴美麗家か。信じられないが、日本の中心が、そこにあるなんて」
「はあ?」
芦川は足を崩して、公助の不審な言動を聞き入る。
「何なんだ」
「実態はわからんが、聞いた話だ。花宗院家は経済をはじめ、国家政治さえも動かすことの出来る存在。その反対に鈴美麗家は、攻撃・防衛で、国土一と言わしめた家系。その昔の言わずと知れた過去には、決して口外されない一族の暗躍が存在したらしい」
父親の額に汗が滲んだ。
「二つの家系は互いに表裏一体の存在であり、味方の時もあれば敵同士の時もある。その昔から両家には会い交わせぬ、秘められた過去もまた存在するらしい」
キノの強さを思い出し、芦川は少し顔を青ざめさせる。
「まあ、どこまで本当か嘘か、わからんがな。まあ、おまえは知らんでも良いことだ」
父親は息子の顔を見ずに、お茶を啜った。
「しかし、おまえと話をするなんて、久しぶりだな」
息子の側で少しだけ笑う。
「表裏一体……。俺は何か余計なことをさせようとしているのか」
不安気に呟く、芦川であった。




